ヘブル 1章 ヘブル人への手紙を解く鍵は「さらにすぐれた」(4節)という言葉にあります。イエス・キリストが、天使に、地上の祭司にまさるお方であり、キリストがご自分をささげられたことが、どんな犠牲にもまさり、キリストによってたてられた新しい契約が古い律法にまさるということを論証しているのがヘブル人への手紙なのです。ヘブル人への手紙は私たちに、さらにすぐれたもの、よりまさったものへと向かうよう教えているのです。 もどる

ヘブル2章 イエスは天使よりも「すぐれた」お方でしたが、天使よりも低く、人となり、他の人々よりもさらに低く、罪人となって十字架の死を味わいました。それは、罪人の救い主となるためでした。イエスは何にもまして高いお方であるだけでなく、すべてに低くなられたからこそ、私たちの救い主であるのです。 もどる

ヘブル3章 神は常に私たちの「きょう」を問われます。私たちの過去がどんなであっても、神は「きょう」悔い改め、神を信じるなら救ってくださいます。私たちは「あす」がわからない存在です。神は、私たちの「あす信じます」という言葉を信頼なさいません。「きょう、もし御声を聞くならば」(7節)とあるように、「きょう」神に応答しましょう。 もどる

ヘブル4章 「神の安息」は、律法によってでなく、キリストによって与えられます。キリストの十字架の苦難が、私たちに安息をもたらし、キリストの復活が私たちを死の恐怖の奴隷から解放したのです。キリストの復活を覚えて守る日曜日の礼拝は、神の安息を祝う日です。 もどる

ヘブル5章 「キリストは、御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ」(8ー9節)とあります。キリストは完全なお方であるのに、なぜ「完全な者とされ」たと書かれているのでしょう。これは、キリストが人として完全な者となったという意味です。神の前に完全な人は誰もいません。キリストが、私たちにかわって「完全な者」になってくださったので、私たちはキリストを通して、神に対して「完全な者」とされるのです。 もどる

ヘブル6章 4〜8節はユダヤ教にもどっていく人々への警告です。これは、一時的に神から離れるとか、信仰のスランプに陥るとかいう以上のことで「背教」とか「棄教」とかいう言葉であらわされるものです。私たちは、そのようなことにならないよう、いつも目を覚まし、神のことばに心を開いていましょう。 もどる

ヘブル7章 イエスはユダ族から出たから、祭司にはなり得ないという人々に対して、ここでは、創世記14章のメルキゼデクの例を引いての議論がなされています。メルキゼデクはレビ族でも、ユダヤ人でもありませんでしたが、ユダヤ人の先祖アブラハムは彼に十分の一を与えています。ユダヤ人、レビ人を超えた「すぐれて高い神の祭司」がいるのです。それがキリストであり、メルキゼデクはキリストの雛型だったのです。 もどる

ヘブル8章 新しい契約も、旧い契約もその本質は「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(10節)という、神と人との愛の関係、相互所有の関係にあります。キリストによって立てられた新しい契約は、それが十戒のように石の板にではなく人の「思いと心」に書きつけられていることにあります。これは、キリストとキリストの御霊によって実現したもので、旧い契約にはるかにまさる新約の恵みなのです。 もどる

ヘブル9章 「新約」の「約」は「契約」の「約」です。ですから「新約聖書」はキリストによってたてられた新しい契約の「契約書」というわけになります。そしてキリストによってたてられた契約は16,17節にあるように「遺言」の契約です。遺言は、それをたてた人の死によってはじめて成立するように「新約」はキリストの死によって成就しました。キリストは私たちをキリストの「遺産」の受け取り手に定めてくださっています。あなたは、キリストの救いの「遺産」を受け取っていますか。 もどる

ヘブル10章 祭司はいけにえをささげることによって、人々のために罪のゆるしを勝ち取りました。しかし、まことの大祭司であるイエスは、神にささげるいけにえをお持ちでありませんでした。どんな動物の犠牲も、完全な罪のゆるしを勝ち取るには不十分なことを良くご存知だったからです。それでイエスはご自身を犠牲として捧げられました。イエスはご自分を犠牲として捧げた祭司−それは後にも先にもイエス以外にありません。私たちはこのような祭司によって、このような犠牲によってはじめて、完全な罪のゆるしを得ることができるのです。 もどる

ヘブル11章 ここには何度「信仰によって」という言葉が繰りかえされているでしょうか。そして、ここにある人々は「信仰によって」どんな偉大なことをしたでしょうか。信仰の価値は、昔も今も変わりません。私たちにどんなものがあっても、信仰がなければ神に喜ばれることはありません(6節)。何がなくても、「信仰」を求め、「信仰」を成長させましょう。 もどる

ヘブル12章 イエスは、私たちの信仰の対象ですが、同時に私たちの信仰の模範でもあります。いいえ、模範以上のお方、信仰の「創始者」であり「完成者」です。私たちの心に信仰を芽生えさせ、それを育み、そして完成にいたらせてくださると言うのです。イエスが私たちの信仰を成長させてくださるなら、なんと心強いことでしょう。どんな時でもイエスに心を向け、目を向け歩みましょう。 もどる

ヘブル13章 人は変わります。変わるものに目を留め、それに頼っていると私たちの歩みは常に不安定になります。しかし、イエス・キリストは変わりません。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(8節)その力も、その愛も、そしてその真実も決して変わることのないイエス・キリストにゆだねて歩む人生ほど素晴しいものはありません。このキリストに「栄光が世々限りなくありますように。」(21節) もどる