テモテ第一 1章 愛弟子テモテにエペソの教会での牧会についての指示を与えているのが「テモテへの手紙第一」です。パウロはここで「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」という真理を教えるようテモテに書いています。しかし、それは宙に浮いたような真理でなく、パウロが、その後すぐに「私その罪人のかしらです。」と言ったように、私たちの体験で確かめられた真理です。私たちはこのような真理によってのみ生かされ、また、人を生かすことができるのです。 もどる

テモテ第一 2章 聖書は、女性が社会的に活躍することや、指導的な立場につくことを禁じているわけではありません。むしろ、女性の社会的地位の向上は、聖書の教えによって、もたらされたといっても良いでしょう。しかし、男女の社会的平等が進んだからといって、男性が男性でなくなり、女性が女性でなくなるわけではありません。聖書は、神の創造のモデルにしたがって、基本的な男性と女性のあり方を保つように教えているのです。 もどる

テモテ第一 3章 「監督」は教会の指導者、「執事」はそれを補佐する人々のことです。監督や執事に対する聖書の基準は、現代の教会でも守られなければなりません。また、ここに掲げられている基準は、すべてのクリスチャンの具体的な目標ともなります。ひとつひとつの項目を点検して、主の助けを得て、この基準に近づきましょう。 もどる

テモテ第一 4章 数学を教える人は、その人の人格的なもの、道徳的な生活がどうであれ、教師を勤めることができるかもしれません。しかし、聖書を教える人は、その人の人格がきよめられ、その人の生活が信仰に導かれていなければなりません。聖書を教える人は、その人自身が「教材」なのです。「正しい事」を教えているかどうか、「教える事」に気をつけるだけでなく、「正しい動機」にも気をつけなければならないのです。 もどる

テモテ第一 5章 「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」というのは申命記25:4からの引用で、「働き手が報酬を受けることは当然である。」というのはマタイ10:10からの引用です。そして、両者とも「聖書に、…言われている」とあります。このことは、パウロの時代にすでに新約聖書が旧約聖書に等しく神のことばとして受け入れられていたことを物語っています。私たちの持っている聖書が、神のことばであることをしっかり確信し、この聖書に導かれていきましょう。 もどる

テモテ第一 6章 人間は果てしなく貪欲なもので、「敬虔」すら「利得」の手段にしてしまうことがあります(5節)。いわゆる「ご利益信仰」というのがそうであり、お金集めが目的の「宗教ビジネス」というものもあります。しかし、ほんとうの「敬虔」は、私たちに「満ち足りる心」を与えるものです。ほんとうに敬虔な人は、神が与えてくださったものを心から感謝して受けることができる人です。 もどる