テサロニケ第一 1章 コリント第一13:13に「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です。」とありますが、この章の4節にも「信仰、希望、愛」の組み合わせが出てきます。ここで注目したいのは、「信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐」と、信仰や希望、愛が生み出すものです。信仰、愛、希望は、働き、労苦、忍耐を生み出してこそ、それらが本物であることが証明されるのです。あなたの信仰、希望、愛は何を生み出しているでしょうか。 もどる

テサロニケ第一 2章 使徒パウロは、信徒に対して「父のように」(11節)、また「母のように」(7節)ふるまいました。男性が「母のように」というのは一見おかしなことですが、それほどの愛情をもって信徒を愛したという意味でしょう。神の家族の中には、神の愛によって、このような愛が働いているのです。父の愛、母の愛を必要とする人は、神の家族にそれを求めるといいのです。 もどる

テサロニケ第一 3章 この章にはパウロの、テサロニケの信徒に対する愛情があふれています。パウロはテサロニケの信徒が偽教師たちにだまされることなく、信仰にとどまり、彼をなお愛していることを聞いて安心し、早く、テサロニケの信徒に会いたいと願っています。牧者と信徒の関係について、いろいろな考え方があるでしょうが、ここには相互の愛で結ばれ、互いに思いやり、いたわりあう関係がひとつの模範として示されています。私たちの教会の牧者と信徒の関係はどうでしょうか。 もどる

テサロニケ第一 4章 「眠った人々」(13節)とは、亡くなったクリスチャンのことです。一部の人は、再臨を待たずして亡くなった人々は復活にあずかれないと考えていましたので、パウロはそうでないことを、ここで明言しています。死を「眠り」にたとえたのはうるわしい表現です。亡くなられた方は滅びてしまったのでなく、「眠り」にたとえられる「安息」に入ったのです。そして、やがて目覚める朝が来るのです。キリストの復活と再臨の教えが、私たちの慰めです。 もどる

テサロニケ第一 5章 再臨の時がいつなのかは、常に人々の関心の的でした。しかし、神はそれを私たちに知らせておられませんし、キリストも「わたしも知らない」と言われました。しかし、パウロがここで言うようにそれは突然、私たちを襲うようなものではありません。神を認めず、みことばの教えを否定する人々には「突如として滅びが襲いかかる」でしょうが、みことばを学び、目を覚まして歩んでいる者には、その時になれば、「今が再臨の時だ」ということがおのずとわかるようになるのです。この約束を信じ、救いの完成ををめざして歩み続けましょう。 もどる