ガラテヤ 1章 パウロはガラテヤの人々が本来の福音から離れていくのを嘆いてこの手紙を書きました。彼らは「ほかの福音」に移っていったのです。ギリシャ語では「アロス」は同質だけれど別のもの、「ヘテロス」は異質のものを指すときに使いますが、ここで「ほかの福音」という時には「ヘテロス」が使われています。ガラテヤの人々が移っていったのは、「似て非なるもの」だったのです。今日も「似て非なるもの」が横行しています。正しい目をもってものごとを見極めましょう。 もどる

ガラテヤ 2章 現代は「コンフロンテーション」を避けることが何より優先される時代です。クリスチャンは柔和で寛容でなければなりません。しかし「火事になったらルールは変わる」と言われるように、真理がが危機に瀕した時は、相手が誰であれ、立ち向かわなければなりません。パウロは、たとえ相手がペテロであっても、真理を守るためには対立することを避けませんでした。私たちにはそれほどの真理に対する愛があるでしょうか。 もどる

ガラテヤ 3章 ユダヤ主義者は福音を律法に変えようとしました。しかし、ユダヤ人の父祖アブラハムに与えられたのは律法ではなく、約束でした。律法は行いを要求しますが、約束は信仰によって受けとるだけでいいのです。福音とは、私たちが、キリストの十字架の死のゆえに罪をゆるされ、神の子とされるという「約束」であって、行いによって義とされようとするユダヤ主義者の主張とは全く違うものなのです。 もどる

ガラテヤ 4章 私たちが神を信頼をもって「アバ、父」と呼ぶことができることは、福音のもたらす大きな結果です。律法の世界にいる人は、常に律法を満たしていないという恐れの中にいて、決して、神を「父よ」と呼ぶことができないのです。これは、御子の十字架のうちに父の愛を見、聖霊によって心に愛のそそぎを受けている者だけに与えられた偉大な特権です(ローマ5:5、8:14-16)。 もどる

ガラテヤ 5章 「愛によって働く信仰」(6節)とは、キリストにあるほんとうの信仰をみごとに言い表した表現です。私たちは行いによってでなく信仰によって義とされますが、だからといって信仰は、行いを否定し、人を怠惰にするのではありません。行いによっては誰も救われませんが、救われたものからは行いが生み出されるのです。信仰は、愛によって働くものであって、単なる飾りものではないのです。 もどる

ガラテヤ 6章 善を行うのに「飽く」ということがあるのでしょうか(9節)。どんなに励んでも結果が見えないと、「もうヤメた〜」という気持になることもあるでしょう。失望しやすい私たちに「時期が来て、刈り取ることになる」という言葉は大きな励ましです。その「時」が近づいている今、私たちは信仰から出る愛の労苦を耐えていきたく思います。 もどる