コリント第二1章 不動産などを買う時、私たちはまず手付金を払い所有権を確立します。そのように、神も、私たちをご自分のものとなさる時、私たちに「保証として」聖霊を与えてくださいました。22節の「保証」という言葉は「手付け金」とも訳すことができるのです。私たちはまだ地上に、制約されたものの中に住み、生活していますが、その身分、立場においてはすでに神の民であり、神の子です。それを保証し、確認し、私たちにその自覚を与えてくださるのが聖霊です。私たちは神の子として、この聖霊により、神を「父よ」と呼ぶことができるのです。(ローマ8:14-16、エペソ1:13-14) もどる

コリント第二2章 「あのような手紙」(3節)というのは、パウロが「コリント人への手紙第一」と「コリント人への手紙第二」以外に書いたコリントの教会宛ての手紙のことと思われます。それは残ってはいませんが、かなり厳しい内容の手紙で、罪を犯した人への処罰を断行するようにとの内容だったようです。しかし、パウロはそれを怒りにまかせて書いたのでなく「涙ながらに」書きました。(4節)パウロの罪を犯した者への厳しさは、彼の愛に裏打ちされたものでした。その結果、処罰を受けた人は悔い改めに導かれたようです。今度は、パウロは、その人を教会の交わりに受け入れるよう命じています。パウロの厳しさと暖かさは、神のきよさと愛とを反映しています。 もどる

コリント第二3章 初代のクリスチャンの中にはユダヤの律法を形式的に遵守することによって救われると考える人がいました。使徒パウロは、そのような人々にイエス・キリストの恵みにとどまるようにと教えました。ここでは、律法を「古い契約」、福音を「新しい契約」と呼んでいます。そして律法に仕えることと、福音に仕えることとを、それぞれ「文字の務め」「御霊の務め」と言い、「罪に定める務め」「義とする務め」と言いました。私たちは、御霊によって、ほんとうの自由の中に生き、日々新しくされて、御霊の働きをあきらかにしていき、福音をあかしするものとなりたく思います。 もどる

コリント第二4章 昔の素焼きの器にはところどころ欠けがあったりして、水を入れてもそこから洩れ出すこともありました。私たちもまた、神の目からみれば、様々な欠陥や弱さを持っています。しかし、神は、そんな「土の器」である私たちに神の栄光の宝を与えてくださいました。神の栄光は、しばしば、私たちの欠けた部分から輝き出て、まわりの人々を照らします。自分の欠陥や弱さにこだわらず、神の栄光の宝に目をとめる、お互いでありたく思います。 もどる

コリント第二5章 「地上の幕屋」(1節)とは今持っているからだのことで「天にある永遠の家」とは、キリスト来臨の時に受ける栄光のからだのことです。(コリント第一 15:52-53、ピリピ4:21)地上のからだは、この世での生活のため、栄光のからだは御国での永遠の生のためです。救われた者が一足飛びに栄光に、御国に入れたら何の問題もないのですが、クリスチャンはなお、地上の生活を続けなければなりません。クリスチャンの苦闘は、地上で天上の生活をしようとするところにあります。しかし、その苦闘は報われます。信仰によって歩む時、私たちは死ぬべきものがいのちにのみこまれるを見るのです。 もどる

コリント第二6章 「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(16節)とは、旧約、新約をつらぬいている神の約束であり、聖書の中心主題です。かってのイスラエルには異教徒との厳格な分離が要求されました。キリスト者には外面的な分離は要求されていませんが、信仰的、霊的には、イスラエルと同じように神の民としての自覚が求められています。きょう、私は神の子どもとして生きているだろうかと自分に問いかけてみましょう。 もどる

コリント第二7章 「後悔」と「悔い改め」とは違います。「後悔」は過去をふりかえって「あんなことをしなければ良かった」と残念がり、悲しむだけのことですが、「悔い改め」は、過去の失敗を繰りかえさないために将来に向かって、神の助けにより、あたらしい一歩を踏み出すことです。後悔だけしかしない人は、いつまでたっても救いに至ることはできませんが、悔い改める人は、後悔することのない救いに至るのです(10節)。ほんとうの悔い改めを学び、そこに進みましょう。 もどる

コリント第二8章 献金は「恵みのわざ」と呼ばれています。それは、神の恵みを知る者だけができる特権だからです。9節に「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。」とあるとおりです。主イエスの恵みのわざを知らなければ、その恵みを受けていなければ、与えることは喜びとはなりません。献金が「恵みのわざ」と呼ばれるのは、それによって他の人に恵みを分け与え、自分自身も恵まれるからでしょう。恵みのわざに富む者となりましょう。 もどる

コリント第二9章 7節に、コリント第一16:2と同じく、献金の原則があります。「ひとりひとり」−献金は主体的にするものです。良い模範には従うべきですが、他の人を見てするものではありません。「いやいやながらでなく」−献金は喜びと感謝をもってするもの、「強いられてでもなく」−自発的に、「心で決めたとおりに」−祈りの中で信仰的な決断をもってするものです。神は「多く与える人」ではなく「喜んで与える人」を愛してくださるのです。 もどる

コリント第二10章 「クリスチャン」を「キリスト教徒」と訳したのは不幸なことでした。聖書では、キリスト教という宗教に賛同する人をクリスチャンと言うのでなく、キリストにあがなわれ、キリストのものとされ、御霊の証印によってキリストのものとされた人のことを「クリスチャン」と呼んでいます。すなわち、「キリストに属している人」(7節)というのが本来の意味です。「クリスチャン」は「キリスト者」と訳されることがありますが、本来の意味でこのことばを使いたいものです。 もどる

コリント第二11章 パウロは「誇る者は主にあって誇れ」(10:17)と言い、自分を誇ることの無かった人でした。しかし、コリントのクリスチャンが「にせ使徒」たちの自慢話に心をひかれ、彼らの誤った教えに傾倒していくのを黙って見ていることができず、ほんとうの使徒としての苦労を披瀝しています。いつの時代でも、偽物の生き方はきらびやかでイージーですが、本物は目立たず、隠れたところで大きな犠牲がはらわれているのです。本物を見つめ、求めて生きる私たちでありたく思います。 もどる

コリント第二12章 聖書の世界は逆説で満ちています。そこは、罪人が義とされ、へりくだる者が高められ、賢い者が愚かで、弱い者が強い世界です。「私が弱い時にこそ、私は強い」(10節)というのは、私たちが自分の力、人間の力に頼るのをやめた時、キリストの力におおわれて、最も強くなれるということを言っています。「頑張る」というのは「我を張る」ということに通じるかもしれません。頑張りとやめて、深く、静かに、キリストに頼る時、私たちはキリストの力を体験できるのです。 もどる

コリント第二13章 11〜13節は礼拝の祝祷に用いられる箇所です。この祈りは、個々人に与えられたものというよりは、教会に与えられたものです。「キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」はそれぞれ、キリストがくださる恵み、神が与えてくださる愛、聖霊がつくりだしてくださる交わりという意味です。教会は三位一体の神が与えてくださるものが具体的に形をなしているところであり、それによって三位の神をさししめすところでなければならないのです。 もどる