コリント第一1章 ローマ人への手紙では、教会内の諸問題についてはすこししか触れられていなかったのに対し、コリント人への手紙第一では、全編が教会の具体的な諸問題を扱っています。1〜4章は「仲間割れ」の問題を扱っています。「私はパウロに」「私はアポロに」「私はケパに」というのは、結局人間を誇ることです。コリントのクリスチャンはパウロの知恵によってでもなく、アポロの雄弁によってでもなく、ケパ(ペテロ)の権威によってでもありませんでした。ただ主のあわれみと力によってでした。誇るべきお方は主おひとりです。「誇る者は主にあって誇れ。」(31節)ということばを覚えておきましょう。 もどる

コリント第一2章 私たちの救いが人の知恵によらないのなら、私たちの信仰も「人間の知恵にささえられず、神の力にささえられ」(5節)なければなりません。キリストを信じる信仰は学問でも、理論でもありません。もしそうなら学問に対する興味はやがて消え、理論は移りゆき、忘れられていきます。かといって、信仰は非理性的なものではありません。「しかし私たちは、成人の間で、知恵を語ります。」(6節)とあるように、神の奥義を知る知恵を、成熟したクリスチャンは持つことができるのです。 もどる

コリント第一3章 コリントのクリスチャンはパウロやアポロら、伝道者を自分たちのかしらにしたてて仲間割れしていました。しかし、ほんとうのかしらはキリストおひとりで、伝道者は「農夫」(5-9節)「建築家」(10-23節)です。農夫なくて実りはなく、建築家なしに建物は建ちません。パウロは伝道者や牧師を不必要だとは言いません。けれども、実りをあたえるのは神、建物の土台はキリストです。クリスチャンは神によって育てられ、キリストに根ざして建てられていくのです。 もどる

コリント第一4章 パウロは、自分たちを神の奥義の「管理人」(1-5節)だと言います。パウロの知恵も、アポロの雄弁も、またぺテロの権威も、彼らが神からあずかったものにすぎませんでした。コリントのクリスチャンは、本来の与え主である神に目を向けるべきでした。コリントのクリスチャンがもし、使徒たちに目を向けるのなら、彼らも使徒たちの努力や忍耐にならうべきだったのです。使徒たちを誇りならがら、使徒にならうものにはならなかった人々は、うわべだけの誇りしか持っていなかったのです。 もどる

コリント第一5章 コリントの教会には「父の妻を妻にしている者」がいました(1節)。教会にも罪は忍びこみます。だが、教会は、それをそのままにしていてはなりません。罪をさばき、悪を正していかなければなりません。ところが、コリント教会には、それをさばき、正していく気持ちがなかったのです。パウロがコリント教会を叱責したのは、そういう罪が教会の中にあったことよりも、そのために悔い改めることをしなかったことでした。主イエスが教会に求めていることは、何よりも「熱心になって悔い改める」(黙示3:19)ことなのです。 もどる

コリント第一6章 キリストを信じる信仰は、頭脳だけのものでも、心情だけのものでもありません。それは「自分のからだをもって、神の栄光を現わす」(20節)ものです。聖書は「その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」(ローマ6:19)「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」(ローマ12:1)と教えています。「手足」や「からだ」には、手足をつかってするその人の働きのすべて、生活のすべても含まれます。全身、全霊、全生活、全生涯に「神の栄光」という目標が与えられた人生は幸いです。 もどる

コリント第一7章 ここには結婚、離婚、独身についての具体的な指示があります。結婚は神が定めたもので、大きな祝福ですが、パウロは、結婚をあまり積極的には勧めていません。それは、迫害を間近にした当時の状況に基づいたものであると共に、結婚がすべてであるかのような思い違いをしてはならないということを、私たちに教えるためでもあったのでしょう。大切なことは結婚していても、独身であっても、「主にあって」「主のために」生きることなのです。それなしには、結婚が惨めなものになり、独身が嘆きとなるかもしれません。 もどる

コリント第一8章 コリントの教会の「知識のある人たち」は、偶像は神ではなく、偶像に捧げられた肉であっても、祈りによってきよめられるのだから、食べてもよいのだと考えていました。その知識は間違ってはいなかったのですが、彼らは、その「知識」によって、肉を食べることに良心の痛みを感じている人たちを躓かせていました。彼らの知識は他の人を建て、教会を建てるのに何の役にもたっていなかったのです。そのような人々は、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(1節)ということばを肝に銘じておくべきでした。 もどる

コリント第一9章 キリストにあって自由なのだから「何をしても良い。」ということではありません。本当の自由は、自分の自由を主張することではなく、他の人の自由を尊重することにあります。ですから、もし、自分の自由が他の人を、とりわけ、「弱い」クリスチャンを躓かせることがないようにと、パウロはこころ配りをしています。強制されてではなく、進んで自分の権利を放棄し、自由を制限する人こそ、ほんとうに自由な人なのです。 もどる

コリント第一10章 唯一のまことの神以外、神はなく、偶像は神ではありません。では偶像はまったく中立的なもので、益にも害にもならないのかというとそうではなく、その背後には悪霊がいるのです。そのことをわきまえないで、わざわざ偶像の宮に出入りして、そこで偶像に捧げられたものを食べるのは、悪霊にかかわることになってしまいます。真の知識は「偶像は神でない。」ということを知るだけでなく、偶像の背後にある霊的なものまでも見極めることにあるのです。 もどる

コリント第一11章 教会の姿や形は時代によって変化していくでしょうが、教会には、変らないもの、変えてはいけないものもあるのです。パウロはコリントのクリスチャンが、この点で「私があなたがたに伝えたものを伝えられたとうりに堅く守っている」(2節)と言ってほめています。教会に伝えられた伝統を、古めかしいから捨てる、よく理解できないからなおざりにするというのでなく、伝えられたものの価値を認め、それをよく理解していきましょう。過去を捨てれば将来に向かうことができるというものではありません。むしろ、歴史を通して伝えられてきたものを守り抜くことによって将来への道が開かれていくのです。 もどる

コリント第一12章 「賜物」、「奉仕」、「働き」という言葉がありますが(4-6節)、「働き」は活動の動機をさし、「奉仕」は活動の目的をさし、「賜物」は活動の力をさしています。クリスチャンは神からの使命によって、キリストに仕えるために、聖霊の力によって働くのです。この三つが組み合わさる時に、クリスチャンの働きは、意味のあるもの、決してへこたれず、結果をもたらすものとなるのです。何をするにも、「御霊の力を願い求め」(コリント第一12:31)、「主に仕えるように」(エペソ6:7)、「父なる神の栄光のために」(コリント第一10:31)するようにと教えを忘れてはなりません。 もどる

コリント第一13章 この章は「愛の章」と呼ばれて、多くの人に親しまれています。まるで、独立した一章のように扱われがちですが、ここを読む時は、コリント人への手紙の他の章とのつながりをよく見る必要があります。この章は、さまざまな問題を抱えて混乱したコリントの教会に対して書かれています。ここに「愛がないなら」(1-3節)と書かれていますが、コリントの教会には愛がなかったのでしょうか。いいえ、愛のない教会などあろうはずがありません。彼らはキリストの愛を受け、それを知り、愛を持っていました。しかし、それがうまく働いていなかったのです。そのために、知恵はむなしい誇りを生み出し、賜物も無益なものとなっていたのです。この愛の章は、キリストの愛を知っている者たちにそれを働かせるようにと呼びかけているのです。 もどる

コリント第一14章 この章では「預言」と「異言」が比較されています。どちらも御霊の賜物ですが、どちらがより優れているかは、どちらがより「人の徳を高める」かによって判断されます。異言は、それを語る人の徳を高めますが、他の人の、また教会の徳を高めることはできません。聖書は、自分の徳を高めることがどうでも良いと言っているのではありませんが、他の人の徳を高め、教会を建て上げること(「徳を高める」という言葉は、原語では「建て上げる」)がどんなに優れ、愛の道にかなっているかを教え、そのことに励むように教えているのです。 もどる

コリント第一15章 復活があるのかないのかという議論は、キリストの復活の事実によって、すでに決着がついています。聖書の教えの多くは、キリストの十字架と復活という、私たちの救いの中心的な出来事によってはじめて、間違いなく理解することができるのです。そして、聖書の教えは、私たちの日々の生活に大きな影響を与えます。復活を認めない人は「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(32節)という生活をし、復活を信じる者たちには「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(58節)という、確かな生活があるのです。 もどる

コリント第一16章 2節には献金の原則がいくつかしるされています。「あなたがたはおのおの」献金はどの人にも求められているものです。「いつも週の初めの日に」それは日曜日の礼拝ごとにささげられます。「収入に応じて」与えられた分に感謝してささげます。「手もとにそれをたくわえておきなさい」献金は、与えられたものの中から聖別し、あらかじめ用意しておくべきものです。日曜日の礼拝は、賛美による礼拝、祈りによる礼拝、みことばによる礼拝、そして献金による礼拝であるべきです。 もどる