ローマ1章 ローマ人への手紙は、パウロがコリントにいた時に、ローマに行って福音を伝えたいと願って、まず、手紙でローマのクリスチャンに、福音を語ったものです。パウロは福音を「救いを得させる神の力」(16節)とし、その主題は「神の義」(17節)であると言っています。いかに、人は神の前に正しくあることができるかということが、この手紙で論じられているわけです。神の義に照らす時、人は罪にまみれているのですが、ローマ1xA軍章は、人間の罪が、神の義の光のもとに明らかにされているところです。誰も罪を指摘されるのを嫌い、罪を認めるのを潔しとはしません。しかし、罪を認めることなしには、神の義は決して私たちのものとはならないのです。 もどる

ローマ2章 この章ではユダヤ人の罪が弾劾されています。ユダヤ人は、みずからを「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師」(19-20節)と自任していました。しかし、彼らは、律法を持っている、律法を知っていると言いながら、それを守っていませんでした。神のことばを聞いている、学んでいることと、それを実行することとは別ものです。「かたくなさと悔い改めない心」(5節)を捨て去って、神のことばに従うのでなければ、それを聞いていること、学んでいることも役には立たないのです。 もどる

ローマ3章 「すべての人は、罪を犯した」(23節)というステートメントは他人ごととして受け取るべきではありません。「すべての人」が罪を犯したのなら、誰も、「私には罪はない」ということはできません。「私もまた、神に対して罪を犯し、その結果を刈り取らなければならない。」ということを認めるべきです。しかし、それを認めることは、私たちを絶望に追いやりません。「すべての人」が例外なく罪を犯したとしても、キリストを信じる「すべての人」は、例外なく「キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められる」(24節)からです。主イエスは「罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカ24:47)と言われましたが、その通り、ここでパウロは、ローマの人々に、悔い改めと赦しを宣べ伝えているのです。 もどる

ローマ4章 神の義と罪の赦しは、割礼という宗教儀式や、善行という人間の努力によってではなく、信仰によって与えられます。パウロはそのことを論証するために、アブラハムの信仰を持ち出していますが、アブラハムの信仰とは、どんな信仰だったのでしょうか。それは「死者を生かす神」を信じる信仰で、アブラハムの信仰は、神がキリストをよみがえらせてくださったと信じるクリスチャンの信仰の原型だったのです。パウロは、このことを、「神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる。」(10:9)と、明確に語っています。 もどる

ローマ5章 信仰によって与えられる祝福は、「神との平和」(1節)、「神の栄光」(2節)、「希望」(3,4節)、「愛」(5-11節)です。この章の後半(12-21節)は、アダムが全人類のかしらであったように、キリストはキリストを信じる者たちのかしらになってくださったことが書かれています。このことによって、ユダヤ人も、異邦人も差別なく、信仰によって神の義を受け取ることができるのです。キリストを信じるすべての者は、キリストにあって新しく創造された神の民の中に加えられるのです。 もどる

ローマ6章 行いによって義とされるのでなかったら、良い行いは必要ではないのでしょうか。恵みによって罪が赦されるのであれば、その中にとどまっていてよいのでしょうか。パウロは「絶対にそんなことはありません。」(2節)と、強い口調でそれを否定しています。救いは行いによって勝ち取ることのできるものではありませんが、救いからは良い行いが生じます。キリストを信じたものは、キリストととも「罪に死んだ」(2,7,11節)のですから、そこに生きることはできないのです。キリストにあって生きるために、キリストにある自分の姿を「知り」(6節)、「信じ」(8節)、「認め」(11節)、「ささげる」(19節)ことが私たちに求められています。 もどる

ローマ7章 罪と律法とは深いつながりを持っています。律法は罪を指摘するだけでなく、それによって私たちの内面の罪深い性質をかきたてることもします。律法によって人間の罪深さがあらわにされるのですが、キリストは、私たちを罪の責めからばかりでなく、罪の性質からも救ってくださいます。6章では罪から解放が奴隷をたとえにして語られていましたが、7章では律法からの解放が結婚関係にたとえられています。キリストの救いによって、私たちは神のしもべとなり、キリストの花嫁となるのです。古い主人である罪から解放され、先の夫である律法は死んだのです。この大きな変化を知る時、私たちは罪との格闘の中でも、勝利と感謝の声をあげることができるのです。 もどる

ローマ8章 私たちの救いは、父なる神と御子キリストによってだけでなく、聖霊の働きによってもたらされます。聖霊は、キリストを信じる者のうちに住んで、罪の性質をきよめてくださいます(1-11節)。また、聖霊は、救われた者に神の子の確信を与え(12-17節)、将来の救いの完成の希望を与え(18-25節)、とりなしを与えてくださっています(26-30)。34節にキリストのとりなしのことが書かれていますが、キリストと聖霊による二重のとりなしによって、神と結びあわされるというのは、信じる者たちにとって何というさいわいでしょうか。 もどる

ローマ9章 8章で「私たちは、…圧倒的な勝利者となるのです。」と叫んだパウロが、ここでは「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。」(2節)と嘆いています。なぜでしょうか。彼の同胞、ユダヤ人が、キリストに敵対していたからです。パウロは、自分の救いを喜ぶだけでなく、救いを拒否している人々のために悲しむことのできる人でした。それが本当の愛です。パウロはそんな愛を持っていたので、「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」と言ったあとで、「この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」(3節)と言うことができたのです。 もどる

ローマ10章 ユダヤ人は、自分の正しさを主張して、信仰によって与えられる神の義を求めませんでしたが、それはパウロ自身の経験でもありました。パウロは、キリストに出会った時、彼がより頼んでいた血筋や宗教、学問や経歴のすべてを「損」と思い、「糞土」と考えました(ピリピ3:7-8)。神の義はそうしたものよりも素晴らしいものだからです。私たちも、イエス・キリストを「信じて義と認められ、口で告白して救われ」(10節)、パウロと同じ喜びを知ることができます。私たちも「主の御名を呼び求め」ましょう(13節)。 もどる

ローマ11章 9章〜11章は、「彼ら(ユダヤ人)のうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるのでしょうか。」(3:3)という疑問に答えようとしたもので、神の真実は、イスラエルの失敗によって無にはならないということが強調されています。神はイスラエルを捨てられたのではなく、イスラエルは倒れても再び立ち上がるのです。イスラエルの失敗によって、異邦人に福音が伝えられたのなら、イスラエルの回復の時には、もっと大きなこと、全世界の回復があると、論じられています。この神の真実を心に留めて歩む日々でありましょう。 もどる

ローマ12章 私たちを縛りつけていた罪と死(1〜5章)、肉と律法 (6〜8章)から解放された者は、次に自我と世から解放されていかなければなりません(1-2節)。クリスチャンは、この世に生き、この世に対して使命と責任を負っていますが、この世の原理によって生きているのではありません。この世の生活原理である「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(ヨハネ第一2:16)はすべて滅び行くものです。クリスチャンの生き方は、表面的に何かを守るというのでなく、まったく新しい生活原理によって生きるものなのです。 もどる

ローマ13章 キリストにある新しい生活は、教会での生活ばかりでなく、社会生活の中にもあらわれてこなくてはなりません。上に立つ権威に従い(1〜4節)、良心のゆえにそれをなし(5〜7節)、愛のゆえに行動するのです(8〜10節)。世のものは過ぎ去るのだから、世の中の責任などはどうでも良いというのではありません。たとえこの世のものは過ぎ去っても、私たちが神のためにしたことは残るからです。この世が過ぎ去るものであれば、なおのこと、人々が永遠の国に入ることができるために、よい証しに励まなければならないのです。 もどる

ローマ14章 当時の市場で売られている肉は、偶像の宮にささげられた犠牲の動物のものであることが多かったようです。このため、クリスチャンの間でそうした肉を食べてよいのか、悪いのかという議論が起こりました。パウロは、「食べて良い」とも「悪い」とも言わず、「さばきあわず」(1〜12)、「つまずかせない」(13〜23)という原則に従って、おのおのの確信にしたがって行動するよう教えました。こうした問題は、互いが他のクリスチャンを「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」(15節)として受け入あうことによって解決に導かれるのです。 もどる

ローマ15章 クリスチャンの一致は、みんなが同じ組織に入って、同じように行動すれば生み出されるといったものではありません。教会は長い歴史の中で、さまざまな民族、国語、文化を持つ人々の間にひろがり、同じ信仰を持っていても、制度や礼拝の持ち方などにそれぞれに違いがあるのが現実です。その違いを消し去るのでなく、お互いを認め合うことを、神は求めておられます。13〜14節に「信仰」「喜び」「平和」「希望」「善意」「知恵」などといった言葉が出てきますが、これらは御霊の実そのものです。このことから、聖霊に満たされることが一致への唯一の道であることがわかります。 もどる

ローマ16章 ここには30名近い人々の名前があげられ、あいさつが送られています。「すべての道はローマに通じる」と言われたように、パウロは、伝道旅行の間、ローマから来た人々に多く出会ったのでしょう。また、パウロが伝道した人々がローマに移り住んで、そこに教会をはじめたのかもしれません。パウロは、自分とかかわりを持った人々のことを心にかけ、祈り、そして、あいさつを送って励ましています。パウロは、ローマ人への手紙で、「すべての人の救い」について書きましたが、「すべての人に」というビジョンは「ひとりびとりのために」というケアとなって実践されていったのです。 もどる