使徒1章 「使徒の働き」は「ルカの福音書」の続編で、イエスの成し遂げた救いのみわざがどのように宣べ伝えられていったかをしるしています。イエスの救いは、宣べ伝えられてこそ、ひとりびとりに届けられるので、「伝道」は神の救いの計画の一部分です。そして、神は、「伝道」を天使にではなく、人間に任せました。天使には罪からの贖いが必要でなく、それは人間だけが理解できることだからです。救われた者が、みずからの体験を通してキリストを宣べ伝えていくことを神は望んでおられるのです。 もどる

使徒2章 ペンテコステの日に使徒たちは諸外国のことばで神のみわざを宣べ伝えました。これは、やがて福音が全世界に宣べ伝えられるということのしるしでした。初代教会はエルサレムで始まりました。しかし、間もなく、人々はエルサレムからユダヤ、サマリヤ、そして、諸外国にまで出て行って、キリストの救いを宣べ伝えています。旧約時代は、人々がエルサレムに集まってきましたが、新約の時代には、神のことばがエルサレムから諸外国に伝えられていくのです。私たちが日本語で救いのおとずれを伝えていることが、神の救いの計画の一部であるというのは、なんと心強いことでしょう。 もどる

使徒3章 ペテロは施しを求めた人に「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。」(6節)と言ってイエスの名によって彼をいやしました。ペテロは、その後も、「イエスの御名」が彼をいやしたと語り、「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)と宣言しています。教会は、たとえ金銀があっても、イエスの御名を持たないなら、この世に対して何の力もありません。イエスの御名をしっかりと保ちたいものです。 もどる

使徒4章 ペテロやヨハネを審問したユダヤの指導者は、彼らの大胆さに驚きましたが、それは彼らが「イエスとともにいた」(13節)からだということに気付きました。ペテロやヨハネの力の大胆さはイエスから来ているのです。ユダヤの指導者たちは、彼らがイエスとともに「いた」ことしか気付きませんでしたが、もし、見る目があったなら、イエスが彼らと共におられたことを知ったことでしょう。イエスは、聖霊によって常に弟子たちとともにいて、力と知恵を与えておられるのです。 もどる

使徒5章 アナニヤとサッピラは、バルナバの献金を真似ました。バルナバのように人からの賞賛を受けたいと考えたのでしょう。それは真心からのものではありませんでした。ですから、代金の一部分であるにもかかわらず、それを全部だと偽ったのです。献金という礼拝の行為によって人を欺こうとすることは、聖霊を欺くことなのです。ふたりが突然の死を迎えたのは、教会には、このような欺きが許されないことを示すためでした。神は教会にこの世よりも高い基準を求めておられるのです。 もどる

使徒6章 初代教会は外からの迫害とともに、内側からの不正、不満をも乗り越えて成長しました。アナニヤとサッピラの不正を許さなかった教会は、やもめへの配給のことで起こったヘブル語ブループとギリシャ語グループの間の不満を「御霊と知恵とに満ちた評判の良い人たち」(3節)によって解決しました。不平不満は人間の肉的な思いから出てきたもので、肉の問題は霊の力によってしか解決できないのです。そして、そのような解決の結果、「神のことばはますます広まって行き、エルサレムで弟子の数が非常にふえていった。」(7節)とあるように、教会が成長していったのです。 もどる

使徒7章 ステパノは主イエスのように自分を殺そうとする人たちのために赦しを祈り、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」(59-60節)と、自分を神に任せています。御霊に満たされた人ステパノにしてできたことだと思います。御霊がクリスチャンの人生を支配してくださる時、クリスチャンは、イエスのように行動し、イエスのように祈ることができるようになるのです。御霊は私たちをイエスの似姿に変えてくださるお方なのです。 もどる

使徒8章 福音は「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、地の果て」まで広がっていかなければならなかったのですが、それはエルサレムにとどまったままでした。しかし、エルサレムで起こった迫害の結果福音は文字通り、サマリヤや外国にまで伝えられるようになりました。ステパノの殉教や迫害という悪い事態をも、神は福音の伝播という善に変えてくださいました。人のどんな力も決して神のみわざをとどめることができないのです。 もどる

使徒9章 サウロ(パウロ)はステパノを石打にした人々の上着を預かり(7:58)、「ステパノを殺すことに賛成していた」(8:1)人物でした。彼は、エルサレム教会に対する迫害の先頭に立っていました(8:3)。しかし、神はこの迫害者をとらえてキリストの使徒としました。神は、迫害者を変えることによってそのお力を、迫害者を受け入れることによってその愛とあわれみを示されました。教会もまたかっての迫害者を受け入れることによって、伝道の力を得たのです。神のなさることは、不思議で、常に私たちの思いを越えています。 もどる

使徒10章 ペテロは、ユダヤ人にしか伝道しませんでしたが、コルネリオの救いを通して「どこの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら神に受け入れられる」(35節)ことを知りました。ユダヤ人も異邦人もキリストの前に何の区別もないことが、神もまた聖霊のしるしによって明らかにされました。キリストにあって、聖霊によって、ユダヤ人も異邦人も一つの民であるという真理があきらかにされたのです。 もどる

使徒11章 福音はユダヤ人ばかりでなく、ギリシャ人にも伝えられ、アンテオケで大勢のギリシャ人がクリスチャンになりました。福音はユダヤ人にも、ギリシャ人にも、どの国の人にもそれぞれの言語で伝えられなければならないのです。アンテオケにギリシャ人の教会ができると、エルサレムの教会はそこにバルナバを派遣しました。エルサレム教会がアンテオケ教会を監督するというよりは、新しく生まれた教会が正しく成長していくために霊的な助けが必要だったのです。バルナバは、回心したサウロ(パウロ)を使徒たちに紹介した人でしたが、パウロをアンテオケ教会に迎え入れています。これはバルナバでしかできなかった仕事でした。 もどる

使徒12章 ここにはペテロが牢獄から救われたことと、ペテロを処刑しようとしたヘロデが神に撃たれて死んだことが対照的に描かれています。名もない一介の漁師であったペテロが天使によって救い出され、地位も権力もあったヘロデが虫にかまれて死んでいます。神を恐れる者と、神に敵対する者に対する神のお取り扱いの違いを見せ付けられるような出来事です。 もどる

使徒13章 バルナバとパウロはアンテオケ教会の中心的な存在でしたが、アンテオケ教会はふたりを伝道旅行に送り出しています。バルナバのように温厚な人、パウロのように博学な人はおそらくどこを探してもいなかったことでしょうから、アンテオケ教会がこのふたりを自分たちのところにとどめておきたいと思ったとしても、不思議ではありませんでした。しかし、神はふたりを他の人々のために遣わせと言われ、アンテオケ教会はそれに従いました。働き人も、教会もともに神の召命に従う時、そこにみこころがなされていくのです。 もどる

使徒14章 「パウロの一行」(13:13)とあるように、この伝道旅行では、バルナバよりもパウロが主導権をとりました。それで、これは「パウロの第一回伝道旅行」と呼ばれています。パウロは、この伝道旅行の帰り道、以前伝道した町々に立ち寄って「弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め」(22節)ています。パウロは伝道しぱなしではなく、きちんとフォローアップをしています。フォローアップのない伝道は、半分だけの伝道で、「信仰にしっかりととどまる」ことのないクリスチャンは半分だけのクリスチャンなのかもしれません。 もどる

使徒15章 異邦人クリスチャンもユダヤ人と同じように割礼を受け、モーセの律法に従うべきかどうかということが、教会の代表者たちによって、エルサレムで話し合われました。紀元50年の、この「エルサレム会議」は最初の教会会議と知られています。教会はこのことに結論をくだし、公式文書を作成しました。しかし、この結論は単に教会でのとりきめではなく、「聖霊と私たちは」(28節)とあるように、聖霊によって導かれた結論でした。教会がいつも「聖霊と私たち」と言うことができるほどに、聖霊に導かれているよう祈りたいものです。 もどる

使徒16章 異邦人クリスチャンは割礼を強制されないことが決まったばかりなのに、パウロはテモテに割礼を受けさせています。これは一見矛盾した行為ですが、テモテの母がユダヤ人であり、ユダヤ人であるパウロと行動を共にすることから、テモテがユダヤ人であるとの立場を明確にする必要があったからでしょう。このことによってテモテは、ユダヤ人に対しても、ギリシャ人に対しても伝道できる立場を得たのです。このことは、パウロが規則を墨守するよりも、伝道の進展に焦点を合わせていたことを教えてくれます。 もどる

使徒17章 アテネのアレオパゴスでのパウロの説教は、多くの偶像にかこまれ、また、「何か耳新しいことを話したり、聞いたりすること」(21節)を追い求めている現代の私たちに対するチャレンジです。パウロは説教の中でギリシャの哲学者のことばなどを引用していますが、その中心主題は、キリストの復活であり、神への悔い改めとキリストへの信仰でした。「耳新しいこと」は人を楽しませはしても、救うことはありません。時が経っても変わらない福音が、人を救うのです。 もどる

使徒18章 ローマから来たアクラ、プリスキラ夫妻は、コリントでパウロの良い協力者として働き、パウロと共にエペソまで行き、エペソでは、伝道者アポロに聖書の教えをもっと正確に教え、彼を導いています。アクラ、プリスキラ夫妻は、一時ローマに戻りましたが、その後再びエペソに戻り、テモテを助けています。パウロの伝道は、決してパウロひとりによって成し遂げられたものではありませんでした。アクラ、プリスキラ夫妻のような協力者があってこそ、実を結ぶものとなったのです。 もどる

使徒19章 第三回目の伝道旅行は、第二回目の伝道旅行からほとんど間をおかないで始められたようです。パウロは第二回目の伝道旅行で訪れた町をもういちど訪ね、ラオデキヤ、コロサイをへてエペソに到着しました。エペソでは足掛け三年伝道し(20:21)、「主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって」(20節)いきました。そのためアルテミス神殿の模型を作っていた業者たちが、危機を感じて、反キリスト教の大集会を行なうほどでした。みことばが力をもって伝えられる時、それに反対する勢力も強くなります。今日の伝道がさしたる反対を受けないのが、反対に値しないほど弱々しいからでなければ良いのですが…。 もどる

使徒20章 パウロは、エペソからマケドニヤ、アカヤ(ギリシャ)を巡回し、再び小アジアに戻ってきました。旅路をいそいでいたので、エペソには寄らず、エペソの長老たちをミレトに呼んで「神がご自分の血をもって買いとられた神の教会」を守るように教えました(18-19節)。教会の指導者たちは、教会を神の教会として扱い、血の代価をもって贖われた価値あるものであることを覚えていなければならないのです。そしてパウロは「あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。」(32節)と言い残しました。パウロはみことばの力を知り、それに信頼していたのです。 もどる

使徒21章 各地で、預言者たちが、エルサレムで待ち受けている苦難をパウロに予告するのですが、パウロは堅い決意をもってエルサレムに向かっていきます。パウロがエルサレムに向かっていく姿は、イエスが、十字架の待っているエルサレムに向かって行かれた姿に似ています。イエスの弟子たちは、イエスがたどられた道を、イエスと同じ心構えで歩むのです。祝福だけではなく、キリストのゆえの苦難をも喜んで受ける、それが、イエスが信じる者に求めておられる道です。 もどる

使徒22章 パウロは彼の回心の体験を人々の前で何度も、くりかえしあかししていますが、この章はそのうちのひとつです。パウロが伝えたかったのは、イエスがキリストであるということなのですが、そのことを話そうとすると、どうしても、自分の体験を話さないではおれなくなるのです。キリストを信じる信仰は、客観的な真理ですが、同時に、ひとりひとりのたましいの中に起こった出来事であり、その人生の中に働くものだからです。主イエスが、たんに「わたしを証言せよ。」とは言われず、「わたしの証人となれ。」(使徒1:8)と言われたのは、私たちが、私たちの人生と生活によってキリストをあかしすべきことを意味してのことだったと思われます。 もどる

使徒23章 主はパウロに「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」(11節)と言われました。これはローマを目指していたパウロにとって大きな励ましのことばであり、また約束のことばでした。しかし、パウロにとってなによりも慰めになったのは「主がパウロのそばに立って」このことばを語られたことでしょう。このことばは、主の天からの声としてでなく、パウロの傍らから、語られました。主の臨在こそが本当の慰めであり、主の臨在から来る約束が励ましとなり、力となるのです。 もどる

使徒24章 パウロの身柄を預っていた総督ペリクスは、妻がユダヤ人だったので(24節)、パウロから話を聞こうと、妻を伴ってパウロと面会しました。「しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ぺリクスは恐れを感じ」(25節)、パウロから神のことばを聞こうとはしませんでした。ぺリクスには「パウロから金をもらいたい下心」(26節)があったため、彼の「知識」(22節)も、彼を救いに導くものとはならなかったのです。自分の知識に頼り、自分の立場を守り、自分の利益を求めることが、真理への道を妨げるものであることを知るべきです。 もどる

使徒25章 ペリクスの後任となったフェストのもとで、パウロはカイザル(ローマ皇帝)に上訴しました。それは、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」(23:11)との主のことばに導かれてのことだったでしょう。ローマ皇帝への上訴は、この後のパウロの人生と働きを大きく変えることになるのですが、人生の大きな転機のときに、確かな神のことばに導かれることは、なんとさいわいなことでしょう。常にみことばに親しみ、みことばによる導きを体験しながら歩む人生を求めたいものです。 もどる

使徒26章 パウロは、当時、カイザリヤの領主だったヘロデ・アグリッパ二世の前であかしをしましたが、その中心はキリストの復活でした。それは、フェストが「イエスが生きているとパウロは主張しているのでした。」(25:19)と言ったことと符合しています。パウロは、未信者たちでさえ、彼の最大の主張点が、キリストの復活にあるということが分かるほどに、キリストの復活をはっきりとあかししていたのです。今日のクリスチャンは、キリストについて何を主張しているでしょうか。はたして、人々はキリストを復活されて、今も生きておられるお方であると、聞いているでしょうか。 もどる

使徒27章 パウロはカリザリヤから他の囚人たちとともにローマに送られることになりました。百人隊長ユリアスはパウロのことばよりも船長の意見に従ったので、船は嵐に遭い、二週間もアドリヤ海を漂うことになってしまいました。しかし、パウロは、彼のことばに従わなかった人々を責めないで、神のことばによって、人々を励ましました(21-36節)。神のことばを持つ人だけが、人々に正しい道を指し示し、また、彼らが失敗した時も、人々を励まして正しい道に立ちかえらせることができるのです。みことばに聞くことは、自分のためばかりでなく、他の人のためにもなるのです。そのことを思って、みことばの学びに励みましょう。 もどる

使徒28章 パウロを乗せた船がポテオリに入港すると、その町の「兄弟たち」がパウロを出迎え、パウロは七日間も彼らと共に滞在し、旅の疲れをいやしました。またローマの「兄弟たち」がローマから45マイル、35マイルも離れた宿場までパウロを出迎えにきました。ローマ帝国のいたるところにクリスチャンがいて、パウロはどこに行っても「兄弟たち」に迎えられたのです。また、「兄弟たち」もパウロが囚人であることを恥とはしないで、彼に手を差し出しています。うるわしい兄弟の交わりをこの箇所にも見ることができます。 もどる