ヨハネ1章 「ことば」(1節)はギリシャ語で「ロゴス」と言い、宇宙の根源と言う意味があります。1835〜36年にギッツラフが訳した最初の日本語聖書では「ハジマリニ カシコイモノゴザル」となっていますが、イエスが宇宙の根源であるというのです。コロサイ1:17は「御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」と言い、イエスご自身も「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。」(黙示21:6,13)と言っています。ヨハネはその福音書で、イエスをすべてのものの源である神として描いているのです。 もどる

ヨハネ2章 ヨハネの福音書はイエスの行なった奇蹟を「しるし」と呼んでいます。「もし、それをすべて書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができない」(ヨハネ21:25)とヨハネが言っているほど、イエスは数多くの奇蹟を行ないましたが、ヨハネはその中から七つだけを選んでいますが、その第一が、水をぶどう酒にかえた奇蹟でした。これはイエスの自然界に対する力を示したもので、イエスが世界の創造者であり、支配者であることを示しています。 もどる

ヨハネ3章 「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3節)とありますが、「神の国を見る」とは、「神の国に入る」こと、神の義と愛と恵みの支配を体験するということです。マタイ、マルコ、ルカの福音書では、神の国に入る条件としての悔い改めと信仰が強調されていましたが、ヨハネの福音書では、悔い改めと信仰の背後にある聖霊の働きが解き明かされています。悔い改めや信仰は、人間的な感動や決心とは違います。それは、生まれつきのままの人間の性質からは出てきません。神によって新しくされた心から出てくるのです。そして、聖霊が私たちの救いのためにどのように働いていてくださるかを知るなら、それによって、私たちの信仰は養われ、成長するのです。 もどる

ヨハネ4章 サマリヤの女は自分の罪に触れられるのがいやで、ユダヤ人とサマリヤ人の礼拝の違いに話題を移しました(19,20節)。しかし、イエスは彼女の質問にも丁寧に答えました。彼女の「言い逃れ」が礼拝についての貴重な教えを引き出したのです。イエスはここで、動物の血によらない礼拝を予告していますが、それは、ご自分を最後の犠牲とすることによってでした。「霊とまことによって」(23節)する礼拝はキリストが「世の罪を取り除く神の子羊」となってくださったからこそ可能になったのです。 もどる

ヨハネ5章 ベテスダの池にいた男にイエスは「よくなりたいのか。」(6節)と尋ねました。彼は38年もの長い闘病生活の中で「よくなりたい」という希望をなくしてしまっていたのでしょう。いつ、どんな時でも、希望をなくしたなら、その人の人生は敗北で終わってしまいます。イエスは、この問いかけによって、彼の心の中に希望のともしびをふたたび燃え立たせようとしたのです。イエスは、あなたにも同じ問いかけをしています。あなたはどう答えるでしょうか。 もどる

ヨハネ6章 五千人にパンを与えたことから「わたしはいのちのパンです。」(48節)とのイエスの宣言のことばが引き出されました。かって、神は、モーセに「わたしは『わたしはある』という者である。」(出エジプト3:14)と言われましたが、イエスも「わたしは…である。」と言いました。それは、イエスがご自身で存在されるお方、また、私たちの必要のすべてを満たすお方であること、つまり、神であることを示しています。イエスは神であり、イエスに従う者こそ神の民なのです。 もどる

ヨハネ7章 仮庵の祭では、祭司たちがシロアムの池から金の酌で水を汲み、それを祭壇に注ぎかけるといいう行事がありました。イエスはそれを指して「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(37節)と教えたのです。通常の水は、飲んでもまた渇きます。しかし、イエスが言われた「水」は聖霊をさしていました。聖霊は、私たちの心に住み、水の源となってくださるのです。イエスは、いのちのパンとして私たちの飢えを満たし、聖霊は生ける水として私たちの渇きをいやすのです。 もどる

ヨハネ8章 日本の国会図書館に「真理はあなたがたを自由にする」(32節)と刻まれています。これは「知識を手に入れることによって人類は進歩する。」という意味ではありません。人類は知識を増やしました。しかし、私たちがどこから来て、どこに行こうとしているのかということについて全く無知なままです。イエスの言われた真理とは、イエスご自身であり、その自由は罪からの自由です。罪を赦され、罪からきよめられていく、この自由を求める者は、イエスのもとに来るのです。 もどる

ヨハネ9章 ユダヤの指導者は、イエスに目をあけてもらった人に「イエスは罪人である。」と認めさせようとしました。しかし、イエスの奇蹟によって目をあけてもらったこの人は、そのような乱暴なおしつけを認めることができませんでした。ユダヤの指導者たちは、イエスのみわざを彼らの理屈でおしはかりました。しかし、この人は、自分の身に起こった奇蹟を素直な信仰で受け止めました。論理だけでは、人はいつしか神から離れます。しかし、神の救いのみわざを体験している者は、イエスを主であると告白し続けるのです。 もどる

ヨハネ10章 イエスが五千人にパンを与えた時、パンはありあまって、12の大きなかごいっぱいの残りが出ました。神が私たちに与える祝福は、私たちの必要をやっと満たすだけのものではなく、つねに、ありあまるほどの豊かなものです。「わたしが来たのは羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」イエスが与えてくださる豊かないのちを、あなは体験しているでしょうか。 もどる

ヨハネ11章 イエスの「しるし」の第七番目はラザロの蘇生です。これは、イエスご自身の復活の前ぶれです。イエスはラザロの姉妹マルタ、マリヤの嘆いている様子を見て、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じた」(33,38節)とありますが、これは、イエスがご自分の十字架の死を予期からでしょう。イエスは、復活を望み見ると同時に、死と言う厳粛な事実の前に立っておられます。死の前に人間は無力で、私たちも死に直面してうろたえるかもしれません。しかし、イエスの復活によって私たちはそれを乗り越えることができます。ラザロの蘇生は、イエスと私たちの死と復活について数多くのことを教えています。 もどる

ヨハネ12章 「一粒の麦がもし地に落ちてしななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(24節)とは、イエスの十字架の死のことを言ったものです。しかし、イエスに従う者には、イエスが生きられたように生きることが求められていますので、このことばは、クリスチャンひとりびとりにあてはめられるべきです。どこまでも自己主張をしていく古い生き方に死んでこそ、クリスチャンは神に従い、人々に仕えて生きることができます。御霊の豊かな実を結ぶため、私たちも、自らに死に、御霊によって生きるものでありたいものです。 もどる

ヨハネ13章 イエスは、わたしたちに互いに愛し合うべきことを、身をもって示されました。イエスが弟子たちの足を洗ったことは、たしかに模範としての行為でしたが、それは模範以上のものでした。イエスは、弟子たちの足を洗うどころか、彼らのために命さえも投げ出し、「その愛を残るところなく示された」(1節)のです。イエスの愛は、人が真似ることができないほどの高く、深いものです。「わたしがあなたがたを愛したように」(34節)とのことばは、私たちがイエスに愛され、イエスから与えられる愛で人を愛すること以外に守ることができないのです。 もどる

ヨハネ14章 ここから16章までは、いわゆる「告別説教」です。イエスは世を去ろうとしていますが、弟子たちを見捨てることはしません。イエスは「天に住まう家」(2,3節)、「祈りの答え」(13節)、「聖霊」(15節)、「平安」(27節)、そしてなによりも「再臨」(3,18節)を約束しておられます。これらの約束は、イエスの死と復活と昇天によって成就します。イエスが父のみもとに行くべきことを、弟子たちは喜ぶべきだった(28節)というのは、このような約束のゆえだったのです。これらの約束が現実のものとなっている今日のクリスチャンは、もっと、大いにキリストの救いを喜ぶことができるはずです。 もどる

ヨハネ15章 「クリスチャン」とは、「キリスト教徒」という意味ではありません。正しくは「キリスト者」と訳されるように、「キリストのもの」という意味です。キリストがぶどうの木でクリスチャンがその枝であると言われているように、クリスチャンはキリストといのちのつながりを持っています。たんなる「キリスト教徒」ならイスラム教徒に変わることもありえますが、「キリスト者」はキリストから離れることはできません。キリストの「ことば」(7節)がキリスト者のうちにとどまり、キリスト者はキリストの「愛」(9-10節)のうちにとどまって生きるのです。 もどる

ヨハネ16章 弟子たちはイエスが世を去られると聞いて悲しみました(6節)。しかし、その悲しみはイエスのための悲しみというよりは、自分たちがイエスを失って置き去りにされてしまうのではないかという心配から出たものでした。イエスのためにではなく、自分たちのために悲しんでいたのです。主の苦しみや悲しみを理解できないでいて、「主は私の悲しみや苦しみを分かってくれない。」とつぶやきます。人間はどこまでも身勝手で利己的なものです。けれども、イエスは、そんな私たちにも思いやりをもって接してくださいます。私たちの心から悲しみを追い出し、奪い去られることのない喜びを約束してくださるのです(22節)。 もどる

ヨハネ17章 この章は、イエスの弟子たちのための祈りです。イエスは今、「神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださる」(ローマ8:34)のですが、その祈りはこのような祈りなのでしょう。この祈りの中でイエスはクリスチャンが世から選び出されたもので、世のものではないと教え(6,14,16節)、同時に世に遣わされており、世にあって働くものであると教えています(11,15,18,21節)。天に属するものでありながら世にあることのうちには使命と責任が伴いますが、世にありながら天に属するものであることから、使命と責任を果たす力が与えられます。二つの立場に生きることには試練が伴うでしょう。そのような時は、イエスご自身も同じ立場で生きられたことを思い、励ましとしましょう。 もどる

ヨハネ18章 大祭司はイエスを冒涜のゆえに死に値するものとしました。しかし、この時ローマ総督がエルサレムに来ていたため、イエスを総督のもとに送りました。総督はイエスとことばを交わしますが、イエスのことばは総督には十分には理解できなかったようで、イエスとの会話は、総督の「真理とは何ですか。」という質問でとぎれています。ピラトのこのことばは「真理?政治家にそんなものが何になろう。」という気持ちで語られたものだったのでしょうか。そうだとしたら、イエスはユダヤ人からもローマ人からも理解されず、見捨てられたことになります。あなたにとってイエスが語った「真理」はどれほどの重みがあるでしょうか。 もどる

ヨハネ19章 イエスが十字架にかかった時、四つの聖句が成就しました。詩篇22:18, 34:20, 69:21, ゼカリヤ12:10です。これらは、イエスの十字架の根本的な意味をさししめすものではありません。イエスの十字架の細部の描写です。けれども、聖書は、こうしたことの成就を示すことによって、イエスの十字架によって、私たちの救いが完全に成就したことを伝えようとしているのです。私たちは、聖書の預言の成就によって、イエスの救いは、信じる者に必要なすべてのものを与えて欠けるものがないことを確信し、その救いが完成する再臨の日を待ち望むことができるのです。 もどる

ヨハネ20章 「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(31節)とは、この福音書の書かれた目的を述べたものですが、これは、同時に全聖書の書かれた目的でもあります(テモテ第一3:15)。聖書は文学として楽しみ、古典の研究材料として学び、歴史として研究しても意味深いものですが、それは第一の目的ではありません。聖書は、私たちに信仰といのちを与えるためにあるのです。聖書に向かうおひとりびとりが信仰に導かれ、いのちを得ることができるよう、祈ってやみません。 もどる

ヨハネ21章 イエスはペテロに三度「わたしを愛するか。」と尋ねました。これはペテロがイエスを三度否認したことと関係があるのかもしれません。イエスはペテロの弱さを知っていたので、彼を強めるために三度、そう言われたのでしょう。あるいは、彼が初代教会の指導者として立つことができるために、彼の過去の失敗が完全に赦されていることを示す必要があったためかもしれません。イエスは、ペテロひとりのために時間を割き、彼ひとりに語りかけられました。復活して全世界の主となられても、イエスのひとりびとりに対する愛の配慮は変わりません。イエスは常に、わたしたちひとりびとりの主です。 もどる