ルカ1章 マリヤは、第二のエバとなって神の御子を生み、「神の母」となりました。マリヤは神の御子の母となることによって、神の子どもたちの母なる教会のひな形ともなりました。ですから、私たちはマリヤの姿の中に教会の姿を見ることができるのです。天使のお告げを聞いたとき、マリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(38節)と言いましたが、教会は常に、マリヤのように神のことばを受け入れ、それに従うことによって、神に用いられるのです。 もどる

ルカ2章 ルカの福音書には、他の福音書よりもくわしくイエスの誕生と幼少のころの出来事が書かれています。ルカは、パウロに同行した医者(コロサイ4:14)で、エルサレムを訪ねた時、イエスの母マリヤからそれらのことを聞いたのでしょう。ルカの福音書はじつは「マリヤの福音書」だったのかもしれません。「母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(51節)とありますが、マリヤの心の深さとルカの医者らしい「綿密な調査」(ルカ1:3)があいまって、この福音書ができたのです。 もどる

ルカ3章 イエスの系図は、マタイの福音書ではアブラハムから始まってイエスに至るのですが、ルカの福音書ではイエスから始まってアダムにまでさかのぼります。「アダムは神の子である。」(38節)というのは、アダムに父親はなく、神によって直接造られたと言う意味です。マタイの福音書の系図は、イエスがアブラハムの子、ダビデの子として預言を成就されたお方であることを教えていますが、ルカの福音書の系図は、アダムにまでさかのぼることによって、イエスが全人類の救い主であることを示しています。 もどる

ルカ4章 「人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」(32節)とありますが、イエスの権威は、直接神から来る権威でした。本当の権威を持たない者たちほど、家柄や学歴、財産や地位などといった見せかけの権威を振り回すのです。しかし、見せかけののものは悪霊や病いに対しては全く無力です。神の権威だけが人を霊的な束縛から救うのです。 もどる

ルカ5章 「新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをする」(36節)というのは、今までどおりの生き方をしながら、そこに少しばかりイエスの教えを取り入れようとすることです。多くの人がそうしようとしていますが、イエスは、それは何の役にも立たないと言われます。私たちに必要なことは、古い着物を脱ぎ捨てて、キリストがくださる新しい着物を着ること、つまり、キリストにある新しい人生を受け入れることなのです。 もどる

ルカ6章 ユダヤの律法では安息日にはいっさいの労働が禁じられていました。通り道にそった麦の穂は、旅行者たちが自由にとって食べてよいことになっていましたが、「麦の穂を摘んで、手でもみ出す」のは「収穫」と「脱穀」であって、それは「安息日にしてはならないこと」だったのです。弟子たちがこのことで非難された時、イエスは彼らをかばって「人の子は、安息日の主です。」(1-5節)と言われました。「安息日の主」とは、安息日を定めたお方、安息日に礼拝をお受けになるお方という意味です。その主が許しておられることを、人は禁じることができないのです。 もどる

ルカ7章 ローマの百人隊長はユダヤ人からも尊敬される人物でしたが、けっしてそれを誇ることなく、あくまでもへりくだって「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」(7節)と言って、イエスの権威を認め、それに信頼しています。彼は、自分の地位や権威をふりまわすことをせず、彼に権威を与えた、さらに権威あるお方の前にへりくだりました。このような人こそ、その地位や立場にふさわしい人です。 もどる

ルカ8章 ひそかにイエスの着物のふさにさわった女性は、まるでイエスから力を盗みとるかのような振る舞いをしました。しかし、イエスが「わたしにさわったのは、だれですか。」と言われたのは彼女を責めるためではなく、彼女にいやしを宣言するためでした。イエスは「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」(48節)と言って、正面からイエスにいやしを求めることができなかった彼女の弱い信仰をも、「信仰」として認めてくださいました。 もどる

ルカ9章 イエスは彼についていきたいと言う人には、それだけの覚悟ができているのかと問い詰め、父を葬ることを許してくださいと言う人には「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」と言い、いとまごいを願い出た人には、「誰でも手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」と言われました(57-62節)。イエスはひとりびとりの心を知り、チャレンジを与えたのです。優柔不断な私たちにも、決断を迫られます。イエスのチャレンジに答え、彼に従いましょう。 もどる

ルカ10章 弟子たちは、悪霊を制する力を体験し、興奮してイエスにそのことを知らせました。その時イエスは「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(20節)と忠告しています。能力や賜物、しるしでなく、魂の救い、神との関係を第一にし、それを喜ぶことこそ、神が与える最高の喜びだからです。この後、イエスは、「聖霊によって喜びにあふれて」祈っていますが、これは、イエスご自身が、その喜びの中に生きておられたことを、私たちに教えてくれます。 もどる

ルカ11章 神の与える能力よりも、神の救いがより尊いものであるように、神の与えるどんな賜物よりも、与え主である聖霊のほうがよりすぐれているのは明らかです。それでイエスは「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(13節)と、弟子たちがやがて聖霊を受けることを約束されたのです。イエスを信じる者は聖霊により生まれ変わり、神の子の確証を与えられ、必要な知恵と力の全てを与えられるのです。 もどる

ルカ12章 愚かな金持ち(13-21節)の愚かさは、その財産を自分のものと考えたばかりか、自分のいのちも自分のもの、自分の手の中にあると考えたことにあります。日本語の聖書には訳されてはいませんが、彼は「わたしの作物、わたしの倉、わたしの財産」と呼んでいます。すべてを自分のものと主張しています。しかし、実際は、すべては神から委ねられたものに過ぎなかったのです。神は、彼にそのことを知らせるために、彼が「自分のたましい」と呼んだ、彼のいのちをその日のうちに取り去ってしまわれるのです。 もどる

ルカ13章 十八年間も病いの霊につかれた人々をイエスはいやされました。これに対して会堂管理人は「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日は、いけないのです。」(14節)と冷やかなことばを発しました。これに対してイエスは、安息日こそ、人を束縛から解放する日であって、この日こそ十八年の病気から解放されるべき日だと、言われました。イエスは律法の精神を知り、実践されたお方です。このイエスから律法の精神を学び、このイエスによって律法を全うする道を歩みましょう。 もどる

ルカ14章 イエスは水腫をわずらっている人を「抱いて」(4節)直しました。水腫の人の皮膚はおそらく醜くただれており、誰も、この人には近づかなかったことでしょう。彼に触れるなどはもっての他だったでしょう。しかし、イエスは、この人をあわれみ、抱いてその病気をいやしました。私たちがどんなに罪のために醜くなっていても、イエスはその大きな愛で、そのふところに迎え入れてくださいます。イエスと向き合い、イエスの正面に出て、赦しと、いやしを願い求めましょう。 もどる

ルカ15章 イエスは失われたものをひとつ、ふたつならず、三つたたみ重ねることによって、失われたものたちが見出されることの喜びを徹底して語っています。失われたものを探し求めた「羊飼い」「女性」「父親」は、それぞれ、キリストと聖霊、そして父なる神をさししめしています。三位の神が、総掛かりで失われたものを尋ねていてくださいます。私たちも、心と思い、力と知性を尽くして、悔い改め、神に立ち返ろうではありませんか。 もどる

ルカ16章 「不正な家令」のたとえにある「小さい事」や「不正の富」とは、私たちの地上の生涯のことをさします。神の国を待ち望み、神に忠実に生きる者にとっては、この世での成功は「小さい事」、地上の財産は「不正の富」ほどの価値しかないのです。しかし、神の国を待ち望むことは、日常のことがらをないがしろにすることではありません。それぞれに与えられた職業や勤めに励み、そのことにおいても忠実でなければならないのです。神はこの世のことにおいて忠実なものに、「大きい事」、「まことの富」、つまり、神の国のことや霊的なことをお任せになるのです。 もどる

ルカ17章 イエスがいやした「らい病」人は十人でした。ところが、そのうちの九人は自分がいやされたことを喜びはしましたが、いやし主であるイエスを忘れてしまい、だれひとりイエスに感謝する者はありませんでした。ただひとり、その中のサマリヤ人だけが、イエスのもとに帰ってきただけでした。イエスは、サマリヤ人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」言われましたが、同時に、神の民に信仰のなかったことを嘆きました。私たちは感謝を忘れて、イエスの嘆きの対象になっていないでしょうか。 もどる

ルカ18章 パリサイ人の祈りは「感謝」の祈りでした(11節)。しかし、それは、本当の感謝ではなく、「自慢」の祈りでした。本当の感謝とは、ふさわしくない自分に与えられた神の恵みやあわれみ、人からの愛や親切を「有り難い」ものとして受け取ることです。このパリサイ人は自分は正しい人間で、週に二度の断食と十分の一のささげものを守っているから、神の祝福や人からの尊敬を受けるのは「当然」だと考えていました。ものごとを「当然」と考える心に、ほんとうの感謝は宿ることはないのです。 もどる

ルカ19章 ザアカイはエリコの町いちばんの嫌われ者でしたが、イエスはエリコの町に入る以前から、ザアカイのところに行って泊まるつもりでいました。エリコの町の名士たちは、先をきそって、イエスを迎える栄誉にあずかろうとしたかもしれませんが、イエスは「失われた人」を尋ねて行かれたのです。しかし、「失われた人」といえども「人」ですから、ルカ15章の譬えの放蕩息子のように、自らの意志でイエスを受け入れる責任があります。ザアカイは、「大喜びで」イエスを家に迎え入れたばかりでなく、その心にも迎え入れ、悔い改めのあかしとして、施しと賠償を申し出たのでした(8節)。 もどる

ルカ20章 「ぶどう園」(9節)は、神の民イスラエルをさします。農夫たちはイスラエルの指導者たちのことです。農夫たちはしもべたちを追い返しましたが、この「しもべたち」とは預言者たちのことです。最後に息子が遣わされましたが、この「息子」とは、イエスのことです。農夫は息子を殺そうと企みますが、それこそユダヤの指導者たちがイエスに対してしていたことでした。「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいた」(19節)のですが、イエスのことばによっても悔い改める余地のないほどに心を固く閉ざしていました。 もどる

ルカ21章 世の終りについて話されたイエスはその結論として「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(36節)と言われました。祈りは世の終りの混乱から私たちを救い、キリストの再臨に備えさせる力あるのです。世の終りのことが、一般にも話題にのぼるこのごろですが、キリストを信じる者たちは、世の終りのことを単なる話題や興味の対象として片付けるのでなく、そのことのゆえにもっと祈るというところに導かれていきたいと思います。 もどる

ルカ22章 人間が神に向かって祈るということは、誰にも良く分かることなのですが、神であるキリストが人間のために祈っていてくださるということは、聖書を読むまでは、多くの人が気付かなかった真理ではないでしょうか。イエスは、ペテロが受ける試練について予告なさった後、「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(32節)と言われました。キリストは今も天で私たちのためにとりなしをしておられます。「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:35)とある通りです。キリストの祈りが私たちの信仰を支えているのだということを知る時、私たちは、自らもキリストの名によって祈る祈りに励むことができるのです。 もどる

ルカ23章 映画「キリストの受難」の一場面に、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(34節)との祈りを聞いた群衆のひとりが、イエスを罵った律法学者に対して、「おい、あの御方は、お前さんのために祈っておられんだぜ。」と言い迫る場面がありました。確かに、イエスのこの祈りは、イエスを苦しめ殺した者たちのためだったのです。この祈りを、自分のための祈りとして聞く人はさいわいだと思います。 もどる

ルカ24章 「心が燃える」経験、それは、信仰の世界ではとても大切なものです。信仰の世界には、何者にも乱されない静かな平安があり、同時に、心踊る喜びがあります。静まって神の前に出ることと同時に、高らかに神を賛美することが不思議なしかたで調和しています。エマオの途上でクレオパともうひとりの弟子が体験した「心が燃える」経験は、静かにイエスのことばを聞くことによってもたらされました。ふたりが「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(32節)と言っているように、神のことばに聴き入るうちに心燃える体験へと導かれていこうではありませんか。 もどる