マルコ1章 マルコの福音書には「すると、すぐに」という言葉が繰り返し出てきます。イエスが次つぎと父なる神のみわざを成し遂げられる様子や、弟子たちがためらうことなくイエスに従う様子が、この言葉によって描かれています。「迅速に誠実に」とは、宗教改革者ジャン・カルヴァンのモットーでしたが、私たちも、神に従うのにぐずぐずしたり、善いことを後回しにしたりすることがないよう、心がけたいものです。 もどる

マルコ2章 「アルパヨの子レビ」(14節)とはマタイのことです。当時のユダヤ人は、ユダヤ名とギリシャ名の両方を持っていました。マタイはイエスに出会った喜びを表わすため晩餐会を催しましたが、そこに集まったのは「取税人、罪人たち」と呼ばれる人々でした。社会からはじきだされていた人々です。彼らは「こういう人たち」(15節)と言われていましたが、やがて、その信仰によって世界を変える人々となったのです。 もどる

マルコ3章 イエスは決して肉親への愛をお捨てになったわけではなく、母マリヤや兄弟たちのために最善を尽くしています。しかし地縁、血縁など、この世のしがらみにしばられて神への信仰を損なうことがあってはならないと戒められました。そして、互いが「兄弟、姉妹、また母」と呼び合えるような信仰の共同体、つまり教会を目指しておられました。肉親もまた、血のつながり以上の信仰のつながりの中に生きるようにと願われたのです。実際、イエスの母も兄弟も初代教会のチャーターメンバーとなっています(使徒1:14)。 もどる

マルコ4章 神の国が植物の成長にたとえられています(マルコ4:26-29)。「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。」とあるように、種は、それ自体が持っている命によって成長します。そのように神の国も「人手によらず」成長していきます。神の国は、世界をキリスト教化したり、教会の組織でカバーするなどという人間の努力でつくりあげられるものではありません。神の国は、神の国自体が持つ力、聖霊の力によって、世界におよび、信仰と愛のうちに建てられるものです。 もどる

マルコ5章 イエスはガリラヤ湖を渡って、ゲラサの地に行きました(1-20節)。その地の人々はイエスを受け入れませんでしたが、イエスはそこにいる狂人を悪霊から解放されました。イエスはたったひとりの人のために、わざわざ異邦の地までも向かわれました。ユダヤ人の誰もが避けていた町に行き、しかもその町の誰もが恐れて近づかなかった人に、イエスは愛をかけました。イエスは同じ愛で、私たちを愛してくださっています。このイエスの愛からもれている人は誰もいないのです。 もどる

マルコ6章 郷里から有名人が出ると誇りに感じる場合もあれば、「どうせ、彼もわれわれと同じ程度の人間にすぎない」とかえって、その人をさげすむ場合もあります。郷里のナザレの人々は後者でした。彼らはイエスを知っていると思っていましたが、神の子としての本当のイエスの姿を見てはいなかったのです。それでイエスは「預言者は郷里では尊敬されない」という当時の諺を使って、ナザレの人々の不信仰を嘆かれました。いや、「驚かれ」ました(1-6節)。イエスを驚かせるような不信仰を、私たちも持っていないだろうかと反省してみましょう。 もどる

マルコ7章 イエスの教えには「トイレット」の話も出てきます(19節)。イエスの教えはとてもわかりやすく庶民的です。しかもそれはユダヤ教の根幹をゆるがすほど革命的なものです。そして、それでいて人の心から出て来る罪と悪と汚れを見逃していません(20-23節)。人は宗教儀式や悟り、すこしばかりの修行で、これらの罪を赦され、悪を取り除き、汚れからきよめられることはできないのです。人は内面から新しくされなければならないのです。イエスはここでそのことを教えようとしておられます。 もどる

マルコ8章 イエスはペテロに向かって「下がれ。サタン。」としかりつけています。イエスがご自分の受難を予告された時、ぺテロがイエスに「そんなことがあってはなりません。」と言っていさめはじめたからです。イエスは受難の道を歩み、それが人々の救いとなるのです。ぺテロがどんなにイエスのことを思っていたとしても、十字架への道を妨げるものは「サタン(神の敵)」なのです。私たちも「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(33節)とのおしかりを受けるようなことはないでしょうか。 もどる

マルコ9章 「もし、おできになるものなら」と言った父親に、イエスは「できるものなのなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(23節)とその不信仰を責められました。これに父親は「信じます。不信仰な私をお助けください。」(24節)と答えています。イエスの目から見て、私たちの信仰は不信仰にしか見えないでしょう。しかし、からし種一粒ほどの信仰でも信仰とみなしてくださるお方にむかって、ひたすらにすがっていくことを、イエスは喜んでくださるのです。 もどる

マルコ10章 盲人のバルテマイは、人々が制止するのも聞かず、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び続けました。この叫びはイエスの耳に届き、彼の目はイエスによって開かれました。それだけでなく彼は「イエスの行かれる所について行った」(52節)のでした。イエスの十字架と復活を目撃し、その証人となるためでした。イエスがバルテマイの目を開いたのには霊的な意味と目的があったのです。イエスに信仰の目を開いていただいた者たちも、その信仰の目をイエスに向けるのです。 もどる

マルコ11章 葉ばかりで実のなかったいちじくはイスラエルを表わしています(13節)。イスラエルには、儀式があり、律法はありましたが、救い主イエスを迎えるための悔い改めと信仰がありませんでした。神が、人に求めておられるのは、たんに善行を積み重ねることや、道徳的に生きること、また、宗教的な修行に励むことではなく、こころからの悔い改めの実と信仰の実なのです。御霊によってこうした実を結ぶ私たちでありたく思います(ガラテヤ5:22-23)。 もどる

マルコ12章 神の喜ばれるささげものは、その額によりません。貧しいやもめはレプタ銅貨二枚しかささげることができませんでしたが、彼女はどの人よりも多くのささげものをしたと言われました(43節)。彼女が自分の持っているもののすべてをささげたからです。たとえそれが小さくあっても、神は私たちの精一杯の努力をよろこんでくださいます。人の目には多額の献金であっても、それが最善のものでなければ、神を喜ばせることはできないのです。 もどる

マルコ13章 イエスは「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。」(32節)と言われました。イエスは神の子ですからその日を知らないわけではありません。これはイエスがその日を知ろうとはなさらないという意味でしょう。イエスでさえその日を知ろうとなさらず、それを天の父におまかせになったのであれば、私たちはなおのこと、その日がいつかを特定しようとするより、たえず目を覚ましてその日に備えることに励むべきなのです。 もどる

マルコ14章 ゲツセマネの園でイエスの苦しみをよそにペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は眠ってしまいました。イエスはこれに対して「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と、弟子たちに同情されましたが、同時に「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。」(38節)と戒めておられます。祈りは、自分の弱さを認めることから始まります。「神に祈るのは弱い者がすることだ。」という人がいますが、弱さは私たちを祈りに追いやり、祈りは人を強くするのです。 もどる

マルコ15章 ローマ兵はその忠誠によって知られています。この百人隊長もイエスに同情するわけでも、ユダヤ人におもねるわけでもなく、自分の職務を着々と進めていきました。しかし、イエスの最期を見守るうちに「この方はまことに神の子であった。」(39節)と叫んでいます。イエスの十字架は、人を傍観者にしておかない不思議な力を持っています。イエスの十字架の前に立つ者はすべて、イエスが誰であり、その死と苦しみが何のためであったのかについて自分の存在をかけた返答をする責任があるのです。 もどる

マルコ16章 マルコの福音書は、四つの福音書で一番短かく、イエスの生涯と教えの要点だけが書かれていました。これは、実用を好むローマ人のためにつくられた福音書のダイジェスト版だったかもしれません。ローマは当時の世界の中心でしたから、マルコの福音書の最後には「全世界に出て行き、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。」(15節)と、ローマから全世界へと福音がひろがっていくことが予告されているのでしょう。私たちは今、この予告が成就しているのを見ています。 もどる