マタイ1章 マタイの福音書の系図は「アブラハムからダビデまで」「ダビデからバビロン移住まで」「バビロン移住からキリストまで」と、十四代ずつに区分されています(17節)。アブラハムからダビデまでは、神の民にとっての上昇期ですが、「ダビデからバビロン移住まで」は下降期になります。「バビロン移住からキリストまで」は苦難の歴史でした。神の民が、バビロン、ペルシャ、シリヤ、そしてローマといった帝国に隷属してきた苦しみの果てに、神は、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(21節)を送ってくださったのでした。 もどる

マタイ2章 「ヘロデの息子になるくらいなら、ブタになったほうがましだ。」とさえ言われたほど、ヘロデ大王は猜疑心が強く、自分の息子にさえ、反逆の罪をかぶせた人物でした。彼の手を逃れて、生まれたばかりのイエスは、エジプトに逃れなければならなくなりました。しかし、このことは、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」(15節)とのことばの成就となりました。つまり、イエスがエジプトに降り、再びそこから戻ってこられることによって、イエスがイスラエルの隷属の苦しみを背負い、また、そこからの解放者となるということを示されたのです。 もどる

マタイ3章 イエスのバプテスマの時、父なる神の声がありました(17節)。「これはわたしの愛する子」は、「あなたはわたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」(詩篇2:7,8)からのことばで、「わたしはこれを喜ぶ」は、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」(イザヤ42:1)から取られています。天からの声は、神の子としてのイエスと神のしもべとしてのイエスの両面を、人々に示しているのです。 もどる

マタイ4章 悪魔の試みを受けたイエスは、神のことばによってそれを斥けました。イエスは、「…と書いてある。」と言って、聖書を引用されました。エバは「…と神は、ほんとうに言われたのですか。」との蛇の声に惑わされて、その誘惑に陥りました(創世記3:1)。悪魔の試みに勝ち、その誘惑を斥ける唯一の方法は、人がどう言うか、自分がどう思うかではなく、聖書にどう書いてあるか、神が何と言われるかに聞くことです。悪魔に対抗するのに、神のことば以外に力あるものはありません(エペソ6:17)。 もどる

マタイ5章 イエスの説かれた「幸い」は、私たちが考える「幸い」とはずいぶん違います。私たちは豊かで、楽しく、人の上に立ち、清濁合わせ飲み、情におぼれず、世の中をうまく立ち回り、相手を打ち負かし、人々からちやほやされることを幸いであると考えていますが、イエスは貧しく、悲しみ、柔和で、義に飢え渇き、あわれみ深く、心きよく、平和をつくる者、また義のため迫害されている者が幸いであると言われました。このことばは、私たちに私たちの人生の姿勢を大きく変化させることを要求しています。 もどる

マタイ6章 施しと祈りと断食はユダヤの人々の間では重んじられていました。イエスもまたそれらを重んじられましたが、それを重んじるゆえに、ユダヤの人々が、それらを見せかけのためだけに用いているのを、非難なさったのです。結果的に人に「見られる」のはかまわないのですが、「人に見せようとして」、つまり人の賞賛を求めてそれらを行なうなら、神からの栄誉は受けられないと、イエスは教えておられるのです。人の賞賛を求めるのか、それとも神からの栄誉を求めるのか、それによって私たちの人生とその結末が定まるのです。 もどる

マタイ7章 イエスの教えの素晴らしさは誰もが認めるところで、「群衆はその教えに驚いた」のです(28節)。しかし、どんなに素晴らしい教えも、それを耳にするだけでは意味がありません。イエスが最後に「岩の上に家を建てた人」のたとえを話されたように、実行することがなければ意味がないのです。岩の上に家を建てた人にも嵐が襲ってきたように、神のことばを実行すれば災難を避けられるというのではありません。しかし、みことばを実行する人は、人生の嵐にも倒れることのない力を内に持つことができるのです。 もどる

マタイ8章 イエスはらい病をきよめ、中風をいやし、熱病をいやしたばかりでなく、湖の風と波を静め、悪霊を追い出しておられます。イエスがキリストであることは、その教えばかりでなく、そのみわざによっても知ることができます。「イエスの教えは素晴しいと思うが、イエスが奇蹟を行ったというのはどうも信じられない。」ということを良く聞きますが、イエスが奇蹟を行うことがお出来にならなかったなら、その教えもまた、力を失ってしまいます。イエスの教えも、奇蹟も、ともに「いったいこの方はどういう方なのだろう」(27節)という疑問への答えだからです。 もどる

マタイ9章 イエスが中風の人に罪のゆるしを与えたというので、律法学者との間に論争が起こりました。「神のほか誰が罪をゆるすというのか」と、彼らは思ったのです。「神のほか誰も罪をゆるすことができない」というのは正しい考えです。そうであるなら、「罪のゆるしを与えたイエスは神である」という結論に結びつくはずです。しかし、律法学者は、「この人は神を汚している」と考えました。人の罪を指摘することしか念頭になかった律法学者たちは、罪のゆるしの本質も、罪をゆるす神をも理解できなかったのです。 もどる

マタイ10章 十二弟子を選んだイエスは、彼らに伝道に向かう心構えをお教えになりました。その中の「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(28節)のことばは恐れのない人生の秘訣は神を恐れることであることを教えています。スコットランドの宗教改革者ジョン・ノックスは、「神以外の何者をも恐れなかった人」として知られています。真の勇気は神へのおそれから来るのです。 もどる

マタイ11章 「くびき」とは二頭の牛の首にかける木のことで、たいていはくびきに慣れた牛と、くびきを負ったことのない牛とが組み合わされて、一方の牛が他の一方を訓練するのです。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(29節)とは、イエスが私たちの負うべきくびきのもう一方を負ってくださるということをさしています。そのことによって私たちは、人生の重荷を、半分に、いやそれよりももっと減少させることができるのです。イエスのくびきは負いやすく、その荷は軽いのです。 もどる

マタイ12章 イエスは、数多くの人々をいやされましたが、それは人々をあわれみ、また神のみわざを示すためで、決して、彼が「スター」になるためではありませんでした。イエスは主であり、王であって、人々の注目を集めて当然のお方なのですが、徹底して「しもべ」としてみわざを行われました。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」とのイザヤ書のことばは、まさにイエスのためにあり、イエスによって成就したのでした。 もどる

マタイ13章 善悪の入り交じった世界に住む私たちは、この世の悪にどう対処すべきかについて思い悩むことがあります。自らのうちにひそむ悪とはきっぱりと手を切らなければなりませんし、この世の悪を見てみぬふりをすることも許されないでしょう。しかし、あまりに過激な行動は、かえって社会を混乱させます。毒麦のたとえ(24-30節)は、この問題について、「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。」(詩篇37:3)とあるように、神への信頼によって解決を目指すように教えています。 もどる

マタイ14章 イエスの力によって水の上を歩いたペテロは「風を見て、こわくなり、沈みかけ」(29節)ました。ペテロは、「来なさい」と言われたイエスの声を聞き、イエスを見ている間は、水の上を歩くことができたのです。しかし、風の音を聞き、風が立てる波を見て恐れました。私たちの人生の歩みにおいて、何を聞き、何を見るかは大切です。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)との教えを心にとめましょう。 もどる

マタイ15章 イエスが娘をいやしてくださいとせがむ女の要求にすぐにはお答えにならなかったのは、彼女から信仰を引き出すためでした。当時、異邦人はユダヤ人から「犬」と呼ばれていましたが、彼女は「子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」(27節)と言って、自分を「子犬」とさえ呼んでまでもイエスに救いを求めています。神が祈りにすぐには答えられないことがあるなら、それはもしかしたら、私たちの信仰を試すためかもしれません。この女のようにへりくだり、信仰をもって、神を呼び続けましょう。 もどる

マタイ16章 イエスは弟子たちにまず「人々は人の子をだれだと言っていますか。」(13節)と尋ねました。この質問に答えるのは容易で、巷の意見を代弁すればそれでよかったのです。しかし、次の「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(15節)という質問には、自分自身の意見が求められ、答えるのは容易ではありません。いいえ、自分の意見以上に、イエスへの愛や信頼、そして献身が求められます。しかし、人はいつかイエスの問いかけに答えなければならない時がきます。あなたは何と答えるでしょうか。 もどる

マタイ17章 1〜8節は「変貌の山での出来事」と題されます。そこでイエスが栄光の姿に変わったと言われますが、じつは、この栄光の姿こそが、イエス本来の姿でした。モーセとエリヤが現われたのは、律法と預言者、つまり、神のことば、聖書がイエスの栄光をあかししているということを表わします。私たちも、聖書からイエスの栄光を見ることができます。聖書は、旧約も新約も、しもべとしてのイエスと、栄光の主としてのイエスの両方を描いています。それを見落さずに学ぶことが、正しく聖書を学ぶ秘訣のひとつです。 もどる

マタイ18章 この章でイエスは互いにゆるし合うべきことを教えています。しかし、他の人をゆるすといっても、それによって、「私はあの人をゆるしてやった」とおごり高ぶるとしたら、それは本当のゆるしではありません。子どものように自分を低くし(1-4節)、小さい者たちをこころから受け入れ(5-6節)、自分の罪に厳しくある(7-9節)ことからほんとうのゆるしが生まれてきます。神にゆるされながら生きている人がはじめて他の人をゆるすことができるのです。 もどる

マタイ19章 イエスほどの高名な教師ならきっと明確な答えを得られると期待して、ひとりの人が「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」と尋ねました(16節)。しかし、この質問は的がはずれていました。永遠の命は、何かをすることによって得られるものではなく、永遠の命の与え主であるイエスを信じることによって与えられるものだからです。イエスは彼に「持ち物を売り払え」と言われましたが、それは、この人が、自分の財産に頼っていたことに気付かせるためでした。 もどる

マタイ20章 イエスは「互いに仕え合え」と弟子たちに教えましたが、その教えの根拠はイエスご自身にありました。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(28節)と言われたとおりです。イエスの教えはすべて、イエスがなさった贖いのわざにもとづいています。だからこそ、イエスの教えには力があるのです。 もどる

マタイ21章 ろばは民衆の乗物でした。王たちは馬に乗り、民衆を見下すようにして行進しましたが、イエスはろばの子に乗って民衆とともに歩まれました。しかも、はじめて人を乗せるろばの子にその親ろばを伴わせています。ろばの子の不安を取り除き、ろばの子が一人前になるためです。人に対してばかりでなく、動物にさえ優しく接されたイエスこそ、まことの主です。私たちも「主がお入用なのです。」(3節)と主から求められる時、喜んで自分を差し出すものでありたく思います。 もどる

マタイ22章 イエスの時代の結婚式では、宴会に招かれた人は受け付けで礼服を渡され、それを身に着けて会場に入りました。ところが、そこに「礼服をつけていなかった人」(11節)がいました。これは、イエスによって与えられる救いの衣、義の上着(イザヤ61:10)を身につけていない人を表わします。すべての人が神の国に招かれているとはいえ、そこに入ることができるのは、神の招きに誠実に答える者だけです。「招かれた者」だけでなく、その招きに答え、「選ばれた者」となりましょう。 もどる

マタイ23章 この章は、律法学者、パリサイ人への非難と、エルサレムへの嘆きがしるされています。私たちはここから、偽りを許すことのできない正義の心と、それを悔い改めることのできない者に対するあわれみの心を読み取ることができます。この神の正義と、神のあわれみは、もうすぐ、イエスの十字架の上に結晶します。神は十字架の上で罪をさばきご自分の義を貫き、その十字架から来る赦しによって、罪人をお救いになるのです。 もどる

マタイ24章 エルサレムの神殿が破壊されることを預言なさったイエスは、そのことから世の終わりのことを弟子たちに教えられました。神殿の破壊がすぐさま世の終わりをもたらすのではありませんが、それは、人々に世の終わりを連想させるのに十分すぎるほどの大事件でした。アメリカも9月11日の大惨事を経験しています。それらを忘れることなく、世の終わりがあること、それに対して心備えができていなければならないことを、意識していたいものです。 もどる

マタイ25章 世の終わりについての教えは「王の裁き」(31-46節)のたとえ話でしめくくられています。このたとえの中で、王は、永遠の刑罰に入るべき人々に「おまえたちは、…たずねてくれなかった」(42-43節)と言って、彼らが悪事を「したこと」よりも、善いことを「しなかったこと」を責めています。私たちは、大きな悪さえしなければ、罪はないと考えがちですが、神は「なすべき善」をなさなかったことを罪としてせめられるのです(ヤコブ4:17)。 もどる

マタイ26章 イエスはゲツセマネの園で「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈りました。しかし、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(39節)と言うことを忘れませんでした。神は私たちに、どんなことでも願うことを許してくださいました。それは、神の子たちに与えられた自由と特権です。しかし、神の子たちは、自由な祈りだけで終わりません。父を愛するゆえに、服従の祈りをもするのです。イエスの祈りは私たちの模範とならなければなりません。 もどる

マタイ27章 イエスの十字架の叫びは、そのことばのとおり「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(46節)と書き記されました。ギリシャ語の訳を書き記すだけでは、その叫びの意味を伝えることができなかったのでしょう。神なしに生きている人は、神に見捨てられることがどんなに恐ろしいことかを分からないでいますが、神との親しいまじわりの中に生きてこられたイエスはそれがどんなに恐ろしいことかを知っておられ、今、ここでその苦しみを、私たちに代って受けておられるのです。 もどる

マタイ28章 イエスは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(20節)と約束して天に帰られました。世の終わりに再び来られるまで、イエスは、この世に不在なのではありません。聖霊によって私たちと共にいてくださいます。「いっさいの権威」(18節)を持ったお方が共におられるので、「あらゆる国の人々を弟子とする」(19節)という使命を果たすことができるのです。イエスは約束なしに、私たちに命令を与えることはありません。約束に目を留めましょう。 もどる