ホセア書1章 ホセア書からマラキ書までは「十二小預言書」と呼ばれます。これらはそれぞれ、年代も、著者も、主題も違いますが、それぞれ新約時代の到来を預言しており、ほぼ年代順にならべられています。ホセア書はヤロブアム二世の時代、イスラエルが比較的安定していた時代に、やがておとずれる審判と、その後の回復について書かれています。神はイスラエルに対して何度も警告を与え、悔い改めをうながしてこられました。そのことを知る時、イスラエルに対する取扱いが厳し過ぎるとは誰も言えません。この書全体は、イスラエルを悔い改めに導こうとする神の愛が主題となっています。 もどる

ホセア書2章 イスラエルは「姦淫の女」と呼ばれています。それはまことの神を知りながら、神を捨てて偽りの神々を慕ったからです。そのようなイスラエルに対しても神は「わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。」(14節)と、まるで恋人に対するかのように扱っておられます。かって異邦人であった者たちも、もとから偶像に心を奪われていたのに、このような神の愛のゆえに罪を赦され、神の民とされたとあります(ローマ9:24-26)。ここに表わされた神の愛は、新約に表わされた神の愛にまさるとも劣るものではありません。 もどる

ホセア書3章 ホセアは遊女となったゴメルを買い取りました。いわゆる「身請け」をしたのです。これは、キリストの贖いを示すもので、かっての日本の説教者の中には、キリストの贖いを「身請け」という言葉で説明した人もありました。キリストを信じる者は、愛をもって、また、御子のいのちという代価をもって買い取られたわけですから、適切な表現かどうかは別として、キリストが罪人を「身請け」してくださったと、言えなくもありません。 もどる

ホセア書4章 イスラエルの人々に「あなたがたは神を知らない。」と言ったら、「そんなことはない。われわれは唯一のまことの神を知っている。」と反論されるでしょう。しかし、彼らの知識は、頭だけのもので、本当には神を知りませんでした。神を知ろうとはせず、神のこころを学び、従おうとはしていなかったのです。「この地には真実がなく、誠実がなく、神を知ることもない。」(1節)と、ホセアが指摘している通りでした。真実や誠実は神を知ることから来るのです。 もどる

ホセア書5章 神は、民衆に向かう前に「祭司たちよ。」「王の家よ。」(1節)と呼びかけられます。イスラエルやユダの罪の責任は、それを導く指導者たちにあるからです。指導者たちが堕落する時、民衆も堕落します。指導者たちが神に信頼していなければ、民衆も欲しいままにふるまいます。教会で、職場で、また家庭で、リーダシップを与えられている者たちは、他にまさってみずからの姿をかえりみる責任があります。 もどる

ホセア書6章 神は「誠実」を喜ばれます。しかし、人々の誠実は「朝もや」や「露」のようで、しばらくはあってもすぐに消えてしまうようなものでした。神はわたしたちにもっと確かなものを求めておられます。形式的ないけにえよりも中身のある、変わらない誠実を、自己満足のための全焼のいけにえよりも、神を知ることを求めようではありませんか。 もどる

ホセア書7章 「わたしがイスラエルをいやすとき、エフライムの不義とサマリヤの悪とは、あらわにされる。」(1節)とはどういう意味でしょうか。これは、罪が赦されるためには、その罪がまず明らかにされなければならないということを言っているようです。神の光の前に差し出されないかぎり、暗いものは暗いままで終わるのです。「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。」そして神の光に触れたものは光となるのです(エペソ5:13-14)。 もどる

ホセア書8章 「彼らが諸国の民の間で物を贈っても…」(10節)とは、イスラエルが神に拠り頼まず、諸国との政治的、軍事的連係によって危機をしのごうとしたことを批判したものです。諸外国に貢ぎ物を贈ってとりいろうとしても、それは、国の富をまきちらし、外国から軽く見られるだけです。結局、「諸国の民の間にあって、だれにも喜ばれない器」(8節)になるだけです。問題の解決は、神に求めなければならないのです。 もどる

ホセア書9章 「喜び」は神の民に与えられた素晴しい賜物です。この喜びは楽天的であるとか、陽気であるというのとは違います。そうしたものは患難をも喜ぶことはできません。神から離れていながらなお喜び楽しんでいるのは(1節)、本物の喜びではないでしょう。そのような時は心から悲しむべきなのです。「悲しむ者は幸いです。」(マタイ5:4)という言葉の意味を知る人だけが、本当の喜びに到達できるのかもしれません。 もどる

ホセア書10章 金の子牛を拝む偶像礼拝の中心地はベテル(「神の家」)でしたが、その名はふさわしくないというので、そこはベテ・アベン(「悪の家」)と呼ばれました。神の家を悪の家にしてしまうのか、悪の家を変えて神の家とするのか、それは、ひとえにそこに住む者たちの信仰と行いにかかっているのです。 もどる

ホセア書11章 神はイスラエルの背信を黙って見ておられたのではありませんでした。神はイスラエルを立ち直らせようと、イスラエルを懲らしめてこられました。そして、その懲らしめは、神の愛から出たものでした。「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(8節)と主は言われます。この熱い愛に触れて、私たちの心は変えられていくのです。 もどる

ホセア書12章 「ヤコブ」は「押しのける」という意味で、「イスラエル」には「神と争う」という意味があります。ヤコブの子たち、イスラエルは、その名のようになってしまいました。しかし、彼らの父ヤコブは神の取扱いを受け、変えられていきました。おなじように、イスラエルも神に立ち返り、神を待ち望む者であれと、神は、神の民を招いていたくださるのです。 もどる

ホセア書13章 イスラエルはカナン人の農耕の神バアルをも拝みました。「バアル」とは「主人」という意味ですが、イスラエルにとっては、主はただひとりであるはずです。「わたしはエジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救うものはない。」(4節)神はおひとりであるという知識ではなく、神をただおひとりの主として信じる信仰が人を救うのです。 もどる

ホセア書14章 ルカ15章の放蕩息子は、本心に立ち返った時、父親にわびるべき言葉を用意しました。おなじようにホセアも、イスラエルにたいして「ことばを用意して」(12節)神の前に出るようと言っています。もちろん、それは弁解のことばではなく、心からの悔い改めと、新しい決意を表わす信仰のことばです(2-3節)。神はそのようなことばに必ず耳を傾けてくださるのです。 もどる