ダニエル書1章 ダニエルは、世界の覇者がバビロンからペルシャへと移っていく中で、敗戦国からの奴隷でありながら、政治の中枢にあった人でした。支配者たちは、彼の知恵を用いたのですが、その知恵は彼の神への信仰から出たものでした。どんな時も神への信仰を失わない人が、時代に振り回されず、しかも、その時代に用いられ、そして、時代を見通すことができるのです。 もどる

ダニエル書2章 ネブカドネザルが見た夢の、金の頭はバビロン、銀の胸と両腕はペルシャ、青銅の腹とももはアレクサンダーのギリシャ帝国、鉄と粘土の足はローマ帝国を指すと思われます。金から鉄と粘土へと、金属の質が変わっていくのは、専制制度の純度が下がっていくということか、道徳的な基準が崩れていくこと、あるいは、多民族化していくということ、あるいは、やがて来る神の国に対して脆弱になっているという意味でしょう。それらの人間の世界支配のあとに来る神の国は、これらすべてを破壊し、「永遠の国」(44節)を打ち立てるのです。移り変わる世界の歴史は、たんなる繰り返しではなく、永遠の神の国を目指して進んでいるのです。 もどる

ダニエル書3章 ネブカドネザルは自分の見た夢のとおりの金の像を立て、それを人々に拝ませました。すでに行政官となっていた三人のユダヤ人は、この像を拝むことを拒みました。この三人は神の救いを宣言しますが、「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(18節)と言い切っています。神は、この信仰を喜び、彼らを火の炉から救い出されました。同じ信仰をもって事にあたる時、私たちもまた燃える試練から救い出されるのです。 もどる

ダニエル書4章 ネブカドネザルは彼の業績をたたえる碑文に「わたしはバビロンの神マルドゥクによって国々を制服した。」と書いています。しかし、ダニエルの知恵、三人のユダヤ人の勇気によって、また彼の身に起こった不思議な出来事によって、彼は「いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになること」(32節)を学んだのでした。 もどる

ダニエル書5章 この章はネブカドネザルから何人か王が変わり、ベルシャツアルの時代になって、バビロンが最期を迎えた日のことを描いています。バビロンに来た時は「少年」と呼ばれていたダニエルも、この時はすでに80歳の老人となっていました。人々はかって活躍したダニエルのことを忘れていましたが、モーセを80歳で召された神は、ダニエルを再び表舞台に引き出し、ダニエルが預言したことの成就を見せたのです。 もどる

ダニエル書6章 ペルシャ時代にもダニエルはダリヨス王に重んじられ、三人の大臣のひとりに選ばれました。他の大臣、太守はダニエルをねたみ、彼を罠にかけようとします。ダニエルは自分を待ち受けている罠を知りながら、日々の祈りをやめませんでした。ダニエルはいつの時代にも用いられましたが、上手に世渡りをしたからでなく、主の守りを信じ、主に信頼したからです。妥協によってでなく、信仰によって歩んだからです。 もどる

ダニエル書7章 ダニエルの見た四つの幻がしるされています。最初は四つの獣の幻で、ライオン、熊、ひょう、十本の角をもつ獣が登場します。これらは先にネブカドネザルが見た夢と同様、四つの帝国を表わしています。地上の国々が「獣」にたとえられているのは、その権力の背後にある悪魔的なものを指摘するためでした。特に、第四の獣には「大きなことを語る口」(8,12節)があって、神を冒涜するのです。それに対し、神の国をうちたてるお方は「人の子」(13節)と呼ばれています。人の心を知り、人の心を持っておられるのです。これは人となられた主イエスをさしています。イエスもご自分をしばしば「人の子」と呼んでおられます。 もどる

ダニエル書8章 雄羊はメディア・ペルシャのことで、雄山羊はギリシャで、その「角」はアレクサンダーのことです。アレクサンダーはペルシャを滅ぼしますが、彼の死後、国は四つに分裂します。その一つから出る「一本の小さな角」(9節)とは悪名高きアンティオコス・エピファネスです。彼は「マカバイ記一」に書かれているように、徹底してユダヤ人を迫害したので「エピマネス」(狂人)と呼ばれました。しかし、彼の狂気は長く続くことはなく、神は神の民を救われるのです。 もどる

ダニエル書9章 一週を七年とすると、「油そそがれた者、君主の来るまで」「七週と六十二週」あります。一週を七年とすると、エルサレム再建から483年後になり、それは、ほぼ紀元三十年ごろになり、キリストのエルサレム入城の頃と重なります。「油そそがれた者が断たれ」とは、主が十字架につけられたことを表わし、「来たるべき君主の民が町と聖所を破壊し」というのは、七十年のローマによるエルサレム破壊のことを言っていると解釈することができます。ダニエルの預言は、まず、キリストのご生涯によって成就しています。 もどる

ダニエル書10章 神はダニエルに「愛されている者よ。」と語りかけました。ダニエルは何百年もの後の預言を与えられましたが、それはダニエルが神に愛されていたからでした。黙示録を書いたヨハネも「主に愛されている弟子」でした。神のみこころは知恵によってだけでなく、神からの愛、また神への愛によって知ることができるものなのです。「主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。」(詩篇25:14)ということばは真実です。 もどる

ダニエル書11章 ダニエルに示された第四の幻は「北の王と南の王」の幻です。北の王はアレクサンターの後継者のひとりセレウコスとその後継者アンティオコスのことです。南の王はエジプトで、その王の娘とはクレオパトラのこと、そして「輝かしい国」はイスラエルのことです。聖書は、ペルシャ時代以降、イエスが来られるまでの四百年の歴史については沈黙していますが、それにまったく触れていないわけではなく、預言の形で、イエスが来られるまでにイスラエルに起こることが記されているのです。 もどる

ダニエル書12章 イスラエルはペルシャから解放されましたが、つぎつぎと起こる大国の奴隷となると、ダニエルは預言してきました。神の民が真に解放されるのはメシアによってであり、メシアが来るまで、大きな患難を通過しなければなりません。しかし、その患難はしばらくの間であると言われています。「ひと時とふた時と半時」というのは、完全数の七の半分で、患難は神の民を完全に滅ぼさないという意味です。「千二百九十日」というのはおよそ三年半で、神は、神の民のために、患難の時を短くしてくださる、患難の時が満ちないうちに、メシアの救いが来るということを教えています。神は、こうした数字によって、救いはすぐに来るとの希望を私たちに与えてくださっているのです。 もどる