エゼキエル書1章 エゼキエルとダニエルはともに、捕囚後に神からの幻を受けた預言者でした。エゼキエルは、預言書に、神のことばを受けた年月日をきちんと記録しており、それは捕囚後の五年目、第四の月の五日(2節)からはじまって、捕囚後二十五年目、第一の月の十日(40:1)にいたっています。エゼキエルに与えられた使命は困難なものでしたが、彼は、長い年月の間、それを投げ出さずに、神に仕え続けました。 もどる

エゼキエル書2章 エゼキエルの体験とイザヤの体験は似ています。イザヤが聖なる神の幻を見たように(イザヤ6章)、エゼキエルも神のそば近くに仕える天使さえも、その前に翼を垂れる、聖なる神を仰ぎ見ています。そして、イザヤが「自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされるこのない」人々に神のことばを語らなければならなかったように、エゼキエルも「反逆の国民」(3節)に遣わされるのです。神のことばを語る者、また神のことばに従う者は、皆同じような体験を通ります。だからこそ、私たちは聖書の人物から多くを学ぶことができるのです。 もどる

エゼキエル書3章 預言者は人々に警告を与える仕事を神から託されていました。もし、預言者が人々に警告を与えなかったなら、人々はその悪から立ち返る機会を失います。悪人は、その報いを受けるのですが、同時に神は、警告を与えなかった預言者にその責任を問われるのです。神は「もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」(18節)と言われます。自分は正しくあっても、悪を見ても見ぬふりをするなら、神は、正しい者にも悪者と同様の報いを与えるというのです。厳しいことばですが、耳をかたむけるべきものです。 もどる

エゼキエル書4章 エゼキエルにエルサレムの滅亡が伝えられると、エゼキエルは粘土板にエルサレムのミニチュアを作ったり、窮屈な姿勢をとったり、わずかな食物と水だけで暮らしたりしました。エゼキエルは、エルサレムから離れてはいても、エルサレムの人々の苦しみをこのようにして共にしたのです。これは神からの命令ではありましたが、同時に神の民への深い愛を、彼は持っていたのです。私たちも同胞に対するそのような愛を養っていたいものです。 もどる

エゼキエル書5章 エルサレムの滅亡は神の民が神のことばに従わなかったばかりか、「回りの諸国の民の定めさえも行わなかった」(7節)ためでした。神の民は、神のことばを知っていることと従っていることとを混同し、実際は神に従わず、回りの人々よりもはなはだしい悪を行っているにもかかわらず、自分たちは正しいと思いこんでしまうのです。そうした思い上りの罪ほどやっかいなものはありません。そのため彼らは自らを滅ぼすものとなりました。私たちもいつも目を覚まして、自分の真実な姿を見つめていなくてはなりません。 もどる

エゼキエル書6章 ここには「あなたがたはわたしが主であることを知ろう」(7,10,13,14節)ということばが繰り返されています。それは、神のさばきに出会ってはじめて、このさばきを下されたのは主であると気付く知り方です。自分の罪をごまかし、悔い改めへの招きの声に耳をふさいで生きてきた人々は、審判者としての神しか知ることができません。しかし、悔い改めの招きに応じる人は、救い主としての神を知ることができるのです。私たちはどのようにして、どのような神を知るでしょうか。 もどる

エゼキエル書7章 「杖が花を咲かせ」(10節)というのは、アロンの杖が花を咲かせたことを連想させます。アロンの杖に咲いた花は、神の臨在と祝福を現わしたのですが、この杖は悪の杖でその花は「高慢」でした。高慢はすべての悪の頂点で、そこからあらゆる悪が出てくるのです。ですから、罪が赦され、悪から救われるためには、神の前にへりくだる以外にないのです。しかし、悔い改めるなら、そこから新しい力が与えられるのです。「だれも自分の不義のうちにいながら、奮い立って生きることはできない」(13節)のです。人生の力を失い、疲労と倦怠の中にあるのは、へりくだって罪を処理してないからです。 もどる

エゼキエル書8章 エゼキエルは幻のうちにエルサレムの神殿に連れて行かれました。彼がそこで見たのは、神殿に満ちている偶像でした。さらに庭の壁にも偶像が一面に彫られていました。さらに偶像のタンムズのために泣いている女たちがおり、神殿の入口に背を向けて太陽を拝んでいる人々もありました。人々は「主はこの国を見捨てられた」(12節)と言って偶像に頼っていますが、本当は、主に立ち返るべきだったのです。 もどる

エゼキエル書9章 「腰に書記の筆入れをつけ」た天使は、正しい者たちの額にしるしをつけていきます。そして、額にしるしをつけられた人は、やがて臨むさばきから守られました。出エジプトの時はかもいに子羊の血が塗られた家が、エジプトに臨んだ過越のわざわいから守られたのと同様です。世の終わりにも、真実な信仰者たちの額に印が押されます(黙示7:3)。そして印を押された者は、やがて来る大患難から守られるのです。神は、神に対して真実な者を知っておられ、必ず、守りと報いを与えてくださいます。 もどる

エゼキエル書10章 神殿の垂れ幕にはケルビムが織り込まれ、契約の箱にはケルビムの彫り物がありました。ケルビムは神のきよさと臨在をあらわす天使です。このケルビムは、神殿から東の門まで移動しましたが、これは、主の栄光と臨在が神殿から離れたことを意味します。8章には偶像で満ちた神殿が幻のうちに示されましたが、そのように人々は神の宮をないがしろにしたので、神もまた神殿を見捨てて、それを敵の手に渡されるのです。 もどる

エゼキエル書11章 神のメッセージは、イスラエルへのさばきのメッセージばかりではありません。ここには、神の民がもういちど回復されるという約束があります。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なうためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(19-20節)外面だけの神の民、名前だけの神の民ではなく、心の内側から新しくされた神の民を、神ご自身がつくり出してくださるのです。 もどる

エゼキエル書12章 エゼキエルは家の壁に穴を開け、荷物を背負ってそこから外にでました。この奇妙な行動は、ゼデキヤ王がバビロン軍から逃れるためエルサレムを見捨て、エルサレムのすべてがバビロンの手に陥ることを現わしたものです。人々がエゼキエルを通して語られた神のことばに聞こうとはしなかったので、神は、エゼキエルに実際の行動を命じて、見える形で神のことばを聞かせようとしたのです。神は、今日も、神を信じる者に、神のことをばを語るだけでなく、目に見える形で、つまり、日常の生活で示すことを求めておられます。情報のあまりにも多い現代、「聞き飽きた」と感じている人々には、生活で神を示すことが最も効果的なのかもしれません。 もどる

エゼキエル書13章 不安な時代には、占いがもてはやされます。人々は自分たちの不安をいやすために、気休めに「平安」を語る偽預言者たちのことばに頼ります。しかし、それは、欠陥だらけの壁をしっくいで上塗りしてしまうようなもので、わざわいの日には何の役にも立たないのです。そうした偽りのことばは「正しい人の心を偽りで悲しませ、悪者を力づける」(22節)以外の何者でもありません。このような時代であるからこそ、私たちは神のことばをしっかりと握りしめていなければならないのです。 もどる

エゼキエル書14章 「ノアとダニエルとヨブ」の三人の名前が、ここには二度出てきます(14節、20節)。このダニエルが、エゼキエルと同時代のダニエルであるなら、エゼキエルの時代に、ダニエルがすでに「義人」としてその名が知られていたことになります。エゼキエルとダニエルが互いに出会ったかどうかは、興味深いことですが、良くはわかりません。それぞれは、神から与えらえた役割りを忠実に果たし、お互いの働きを認めあったことでしょう。私たちも、自分に与えられた役割りを知って、それを果たすことを喜びとしたいものです。 もどる

エゼキエル書15章 預言者たちはイスラエルをぶどうの木にたとえました(イザヤ4:1-7;17:2-6 エレミヤ8:13)。エゼキエルも15章、17章、19章でイスラエルをぶどうの木にたとえています。ぶどうはイスラエルの特産品で、豊かに実をつける様子は神の祝福を、ぶどうから作られるぶどう酒は神からのよろこびを表わしました。しかし、イスラエルは実を結ばないぶどうになってしまいました。実を結ばないぶどうの木は材木にも燃料にもなりません。神の民は、神によって生かされ、実を結んでこそはじめてその存在異義を持つのです。キリストが「わたしにとどまりなさい。…わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:4)と言われたのを覚えていましょう。 もどる

エゼキエル書16章 ここではイスラエルは、荒野に捨てられた女の子にたとえられています。神は、捨てられた女の子を育て、美しく、麗しいものにしてくださいました。ところが、この女性は、自分の美しさに寄り頼み、誰とでも姦淫し、遊女よりひどいものとなりました。これは、イスラエルが、神を捨てて、偶像に頼っていったことを表わしています。そのため、イスラエルはその美しさ、麗しさをはぎ取られ、恥の中に沈んだのです。神は、神を信じる者に、「救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださ」り(イザヤ61:10)、神に頼る者を「花婿が花嫁を喜ぶように、…喜」んでくださる(イザヤ62:5)のですが、神は、神に愛されている者たちに神への純粋な愛を保ち続けることを求めておられるのです。 もどる

エゼキエル書17章 大鷲は権威あるものを象徴し、この章では、バビロンとエジプトを表わします。ユダはいったんバビロンに忠誠を誓いながら、バビロンを裏切りエジプトに頼りました。ふたつの大鷲の間を揺れ動くぶどうの木とは、ユダのことです。ユダは、二つの大国を手玉に取ろうとしましたが、結局エジプトに裏切られ、バビロンに滅ぼされます。ユダは「反逆の家」(12節)と呼ばれていますが、それは神に対してだけでなく、国家間の約束事においても「反逆の家」だったのです。 もどる

エゼキエル書18章 「父が酸いぶどうを食べたので子どもの歯が浮く」(2節)というのは、ユダが滅ぼされるのは先祖の罪のせいで、自分たちが悪いのではないという、責任のがれのことばでした。これに対して神は「罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(4節)と明言しておられます。先祖の罪がどんなに大きくても、真剣にそれを悔い改めるなら、神は裁きを思い直されるかもしれません。たとえ、先祖からどんなに素晴しい祝福を受け継いでいても、それをないがしろにしているなら、神の裁きをまぬかれることはできないでしょう。祝福か破滅かの選択は、常に私たちの手の中にあります。神は「悔い改めて生きよ。」(32節)と呼びかけていてくださいます。 もどる

エゼキエル書19章 ライオンは「王」を表わします。この章に出てくる「若獅子」のひとりはエジプトに引かれていったエホアハズを(2-4節)、もうひとりはバビロンに引かれていったエホヤキン(5-9節)のことを言っているのでしょう。彼らの先祖、ダビデ王は獅子のような勇気を持っていましたが、彼らは、勇気も信仰も失い、ただ「獲物を引き裂くことを習い、人を食べる」(3,6節)だけでした。神は王たるもののいないことを嘆き、後にダビデの子であるイエスを立ててくださいます。イエスこそ「ユダ族から出た獅子」(黙示録5:5)なのです。 もどる

エゼキエル書20章 この章には、イスラエルが神に不従順なのは、今に始まったことではなく、それは出エジプト以来のことであると指摘されています。神は、繰り返し、繰り返し同じ罪を犯してきたイスラエルを、ご自分の名のために忍耐してこられました。この神の「慈愛と忍耐と寛容」によって、イスラエルは、第二の出エジプトを体験し、エジプト以来の偶像からきよめられるのです(33-44節)。バビロン捕囚からの帰還が第二の出エジプトだったのです。 もどる

エゼキエル書21章 「つるぎ」は神のさばきの象徴です。アダムとエバが罪を犯した時、エデンの園に「回る炎の剣」が置かれました(創世記3:24)。本来「つるぎ」は、神に敵対する者に対して向かうものなのに、それが神の民に向かうというのです。神の民イスラエルが神の敵になってつるぎに追われる者となりました。そのようなことが起こる前に、悔い改めるべきだったのです。神が悔い改めない者のために「剣をとぐ」お方(詩7:12)であることを忘れるべきではなかったのです。 もどる

エゼキエル書22章 ユダは「反逆の家」と呼ばれ、その首都エルサレムは「流血の町」と呼ばれました。そこには君主の暴力、父母への軽蔑、弱者への虐待、聖なるものへの不敬虔、性的乱れ、わいろと利益優先の罪がありました(6-12節)。これらの罪は、人々の心が神から遠ざかってしまったために生じたものです。それで神は「おまえはわたしを忘れた」(12節)と、民を戒めておられるのです。 もどる

エゼキエル書23章 イスラエルは「神の皇太子」、ユダは「神への賛美」という意味の名前です。ところが、ここではイスラエルは「オホラ」、ユダは「オホリバ」の名前で呼ばれています。オホラ、オホリバは、情欲のままに行動する姉、妹の名前です。イスラエルは、まことの神を捨て、偶像礼拝という霊的姦淫にふけっていたので、そう名付けられたのです。神の民、聖徒、キリストの使節と呼ばれている者たちは、常にその名にふさわしくあることをこころがけていたいものです。 もどる

エゼキエル書24章 「第九年の第十の月の十日」とは、エゼキエルが捕囚にあってからの日付けですが、この日にエルサレムはバビロン軍に包囲されました。同じ日に、エゼキエルの妻が亡くなりました。ユダヤ人は愛する者の死に際して、ターバンをはずし、サンダルをぬぎ、口ひげをおおおい、人々が見舞いに持ってきてくれるパンを食べました。ところが、神はエゼキエルに、それを禁じます。エルサレム滅亡という大事件にたいしては、嘆いて終わるようなものではなく、深く悔い改めるものであるということを、民に示すためでした。 もどる

エゼキエル書25章 25章〜32章にはユダの近隣諸国への審判が示されています。神は全世界の主であり、全地を裁くお方だからです。最初にユダが裁かれ、「さばきが神の家からはじまる」(ペテロ第一5:17)のは、ある意味で神の民に対するあわれみです。神の民がまず最初に裁かれるのは、後に救いとなるからです。先に裁かれた者のほうが早く回復するからです。神は、神の民を、この世とともに裁きに定めないため、神の民を先んじて懲らしめてくださるのです。 もどる

エゼキエル書26章 26章〜25章はツロへの裁きが書かれています。ツロはイスラエルの北にある、地中海に突き出た町で、古代世界の重要な貿易港でした。ツロはエルサレムの滅亡を見て喜びましたが(2節)、それは、他人の不幸を見て自分が幸せになったかのように感じる、ゆがんだ心理を持っている人に似ています。競争社会に生きていると、他の人の成功を喜べない人が増えてきます。そんな中で、「喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむ」(ローマ12:15)人間らしい心はどうしたら取り戻せるのでしょうか。それは、キリストにあってです。 もどる

エゼキエル書27章 ツロは豪華な客船、また世界中を駆け巡る商船、あるいは強大な軍艦にたとえられています(5-10節)。ツロはもともと島でしたが、陸地とつながって出来た町で、海に突き出た地形は、遠くから見ると、まるで船が港に停泊しているようだったのでしょう。ツロの領土はまさに「海の真中」にありました(4節)。ところが、そのツロが「海の真中」で打ち破られ、沈められ、滅ぼされました(26-27、32節)。ツロは自分が最も得意とする場所で滅びていったのです。現在の繁栄はかならずしも、将来の繁栄を保証するものではないのです。 もどる

エゼキエル書28章 人間にとっての最も高慢な態度は「私は神だ」(2節)と言うことです。ツロは自分が中心として世界が回っているように考え、「自分の心を神の心のようにみなした」(6節)のです。しかし、神はツロに言われます。「あなたは人であって、神ではない。」(2節)私たちも、ツロと同じ罪を犯すことの無いよう、いつもへりくだっていなければなりません。 もどる

エゼキエル書29章 ツロは海の中で誇り高ぶりましたが、エジプトは川の中で誇り、「川は私のもの。私がこれを造った。」(3節)とさえ言いました。この川とはナイル川のことで、エジプトはナイル川によって繁栄をきわめました。ナイル川は神の造られたもの、神からの賜物であったのに、エジプトは、それを自らがつくり出したものであるかのように考えたのです。私たちは、私たちの命や、健康、様々な能力などを、神からの賜物として受け取っているでしょうか。それとも、自分が造り出したもののようにして誇っているでしょうか。 もどる

エゼキエル書30章 エジプトは、古代世界の雄者でした。誰もエジプトが攻められ、打撃を受けるとは思ってもみませんでした。しかし、エレミヤやエゼキエルが預言したように、バビロン軍はエジプトにまで攻め込んだのです。預言者たちが、そのことを預言したのは、歴史が神の手にあることを知らせるためでした。自らを神とし、神の恵みを自分の功績であるかのように誇る国は、いつかは衰えていくのです。へりくだって神に頼る国、神に信頼する人だけが永遠につながる繁栄を喜ぶことができるのです。 もどる

エゼキエル書31章 この章もエジプトへの預言であるのに、アッシリヤのことが長々と語られています。神は、アッシリヤへの裁きについて語ってから、エジプトへの裁きを「あなたもエデンの木とともに地下の国に落され、剣で刺し殺された者とともに、割礼を受けていない者たちの間に横たわるようになる。これは、パロと、そのすべての大軍のことである。」(18節)と、語っています。神の裁きを人ごとのように感じているエジプトに、神は、「今度は、おまえの番だ」と責められたのです。 もどる

エゼキエル書32章 どんなに栄えた国の王たちも、最後はよみに横たわります。よみには、アッシリヤをはじめ、エラム、メシェクとトバル、エドム、シドンの王たち、勇士たちがおり、エジプトのパロもそこにくだっていきます。よみでは地上の一切の権勢は通用しません。これは、王たちばかりでなく、どの人にも言えることです。詩篇73篇は、悪人がこの世で栄えていることへの疑問ではじまっていますが、その人たちの最期を見て、神への信頼を深めています。人生や歴史は、その終わりから見てはじめて正しく理解できるのです。 もどる

エゼキエル書33章 ここからエゼキエル書の後半部分が始まります。神は、エゼキエルにさらなる預言をお与えになりますが、その前に、エゼキエルが民の「見張り人」であることを再確認されます。どんな工事現場にも見張り人が立てられます。とくに鉄道工事では、線路で働く人の安全のために見張りの責任は重いのです。同じように、クリスチャンは、この時代における見張り人であり、とくに教会の指導者は、「たましいの見張り人」(ヘブル13:17)として立てられています。神に従う者は、心してその責任を果たしたいものです。 もどる

エゼキエル書34章 ここで言われている「牧者たち」とは、王やかしらたち、祭司や預言者たちというイスラエルの指導者たちのことです。イスラエルが神のさばきにあうのは、この羊飼いたちが、もはやまことの羊飼いでなくなったからです。イスラエルは羊の群れにたとえられていますが、同じ羊の中でも強い羊が弱い羊を押し退けるようになりました。それで、神は「牧者ダビデ」(33-34節)を立て、ご自分の羊を守ると約束されたのです。このまことの牧者とは、「わたしは良い羊飼い」と言われた主イエスです。 もどる

エゼキエル書35章 シオンの山がイスラエルをあらわすように、「セイルの山」はエドムをあらわします。エドムはイスラエルやユダが弱ってきた時、それを占領して、自分たちの領土をひろげようとしました。イスラエルは神の敵となってしまってのですが、それでもなお、神はイスラエルの味方をし、イスラエルをエドムの攻撃からかばってくださいます。「そこに主がおられた。」(10節)ということばには、神の民を見放さない神の愛が表わされています。 もどる

エゼキエル書36章 「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」(26節)との約束は、イスラエルの国土が回復し、イスラエルの人々が増えひろがるという以上の大きな約束です。個々の魂の救いがあってはじめて、それが国家の復興となるのです。そして、それができるのは、ただ神おひとりです。 もどる

エゼキエル書37章 エゼキエルが干からびた人骨に預言すると、骨と骨とが互いにつながり、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がそれを覆い、息が吹き込まれると、それは歩きだしました。この幻の意味は、神ご自身が解きあかしておられるように、イスラエルの復興を表わしています。そして、その復興は、神のことばと、神の霊によるのです。たとえ枯れ骨のようになっているイスラエルでも、神の力によって復興するのです。神の力は、キリストのうちに働き、キリストの復活をもたらしました。神のことばを聞いて、キリストを信じる者は、キリストの復活の力により、聖霊によって、永遠の命に生きるものとなるのです。 もどる

エゼキエル書38章 ここに出てくる「ゴグ」については、種々の解釈があり、ある人はセレウコス朝シリヤであると言い、ある人はローマ軍であると言い、ある人は世の終わりの反キリストであると言います。そのどれもが当てはまるでしょう。復興した神の民は、その後順調に繁栄し続けるのでなく、苦難の道を歩まなければならないことが預言されているのです。しかし、神は、神の民をその苦難の中で守られるのです。 もどる

エゼキエル書39章 イザヤは「彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(イザヤ2:4)と預言しましたが、エゼキエルも盾や大盾、弓や矢、手槍と槍は薪となると言っています(9,10節)。イスラエルは戦いの中から救いだされ、完全な平和を楽しむのです。 もどる

エゼキエル書40章 「捕囚となって二十五年目…町が占領されてから十四年目」(1節)、エゼキエルは復興した神殿の幻を見ました。この時、実際のエルサレムは荒れ果てたままで、神殿の再建まではまだ数十年待たなければなりませんでした。捕囚の民の間には、「住めば都」とバビロンでの生活に安住し、エルサレムに帰って神殿を建てなおすという意欲を失ってしまっている人も多かったでしょう。エゼキエルの見た幻は、そんな彼らを励ますものだったのです。 もどる

エゼキエル書41章 エゼキエルの見た幻では神殿の寸法がことこまかに書かれていることです。これらの寸法は、かってのソロモンの神殿よりもはるかに規模の大きいものでした。このことは、神の民が、かっての繁栄を取り戻すだけでなく、過去のどんなものも比べものにならない規模の祝福を体験するということを意味しています。神のなさることは、常に私たちの想像を越えたものなのです。 もどる

エゼキエル書42章 神殿の寸法が量られたもう一つの理由は、それが、神のものとして完全に聖別されるためでした。新しい神殿の外壁は「聖なるものと俗なるものとを区別していた」(20節)のです。聖俗の区別こそ、神の民になくてならないものなのです。 もどる

エゼキエル書43章 幻のうちに神殿が示された理由のひとつは「イスラエルの家が自分たちの不義を恥じるため」(10節)でした。彼らは、神殿を大切にしなかったため、神殿を失ったのです。それを悔い改め、神殿の再建に取り組むのです。悔い改めがなければ、そこに神の栄光はあらわれません。悔い改めこそ神の宮の基礎とならなければならないのです。 もどる

エゼキエル書44章 「あなたがたは、心にも肉体にも割礼を受けていない外国人を連れて来て、わたしの聖所におらせ、わたしの宮を汚した。」(7節)とは、宮で仕えるべきレビ人たちがその奉仕を軽んじて、それらを異邦人に行わせたことを非難することばでした。イスラエルの人々はこのことによっても神殿を汚したのです。 もどる

エゼキエル書45章 神殿はエルサレムの中心にあり、神殿と民家は区別されなければなりませんでした。神殿の近くに住むことができるのは祭司たちで、その次に君主のための土地があてがわれます。これは、神が神の民のほんとうの王であること、君主が権力をふるって人々から土地を奪うことがないようにということを教えています。 もどる

エゼキエル書46章 旧約の祭やささげものが、再び規定どおりに行われるようになると、エゼキエルは預言していますが、それは、動物の犠牲が再現されるということを意味するわけではありません。キリストの血が流された以上、動物の血はもはや不用となったからです。ここでの「律法遵守」は、旧約への逆行ではなく、神の民が神のことばに忠実に生きることをあらわしたものです。新約の神の民は、「自分の体を神によろこばれる聖なる生きたいけにえとささげる」(ローマ12:1)という、旧約の神の民よりももっと高い水準で神を礼拝するのです。 もどる

エゼキエル書47章 神殿から流れる水が大きな川となり、全イスラエルをうるおします。これは主イエスが「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。…その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)とのみことばによって成就しています。神からの命が、人々を生かし、それによって生かされた人々からさらに命の水が流れ出て、全世界をうるおすのです。その日を待ち望みましょう。 もどる

エゼキエル書48章 ヨシュアが人々に約束の地を分けたように、ここでも、各部族が受け継ぐべきものが書きしるされています。これは、キリストを信じる者が、神の国を、キリストとともに受け継ぐことによって成就します。神は、神を愛する者たちのために、天で受け継ぐべきものを備え、保証していてくださるのです。その確信をしっかり持って、神に感謝しましょう。 もどる