哀歌1章 哀歌はエルサレムが滅ぼされたことを嘆いた歌で、伝統的にエレミヤが書いたものとされていますので、エレミヤ書の後に置かれています。各章は22節からなり、5章を除いては各節がヘブル語のアルファベットではじまる「いろは歌」になっています。こうした技巧は、エルサレム滅亡を心に深く刻みこむため、また、ヘブル語のすべての文字を用いることによって、「ことばの限りをつくして」神に向かって語り、祈るためであったのかもしれません。 もどる

哀歌2章 「あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。」(19節)とは、人間が苦難の時にできる最善のことです。哀歌は、現状を直視し、神の前に全身全霊を注ぎ出して祈ることを私たちに教えています。 もどる

哀歌3章 3章は、22の三倍、66節から成り、三節づつがヘブル語アルファベットの各文字ではじまっています。哀歌の真中の章がこのようになっているのは、エルサレムのための嘆きが頂点に達し、また、それが深められていることをあらわすのでしょう。実際、この章では、たんなる嘆きだけでなく、主の恵み、あわれみ、真実、いつしみ、救い、贖いについて触れられ、「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。…それゆえ、私は主を待ち望む。」(22-24節)という神への信頼と希望が言い表されています。 もどる

哀歌4章 エルサレムが包囲され、食べ物が無くなった時、母親たちは子どもに食べさせるより、自分がそれを食べるようになり(3-4節)、子どもを煮て食べるという恐ろしいことさえ起こりました(10節)。極限の状態になった時、その人の本当の姿が現れると言われますが、この時のイスラエルは、極限の状態になった時、みずからのうちに神への信仰も、人に対する愛もないことを暴露してしまったのです。 もどる

哀歌5章 この章にはアルファベット順の技巧はこらされてはいません。全編が静かな祈りとなっています。「しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。」(19節)と、神を見上げ、「主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。」(21節)と願っています。私たちも、嵐の後にはこのような祈りをささげたいものです。 もどる