エレミヤ書1章 イザヤが「聞くには聞くが悟らない。見るには見るが理解しない」人々に預言したように、エレミヤも彼に敵対する人々のところに行って預言しなければなりませんでした。それで神はエレミヤを「この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。」(18節)と言われました。神が、神のしもべを守るという約束ですが、自分の民をまるで敵のように見なければならない、エレミヤの気持を考えるとやりきれないものを感じます。 もどる

エレミヤ書2章 「わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛…を覚えている」(2節)とは、イスラエルが、エジプトから救い出されたころの神への信仰から離れてしまったことを意味しています。このことばは、主イエスの「あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙示録2:4)とのことばにこだましています。神は、神を信じる者を常に新鮮な愛で愛してくださっています。私たちも、神への初めの愛を忘れずに生きる者でありたく思います。 もどる

エレミヤ書3章 神は、神の民を「妻」として愛してくださいました。ところが、神の民は「夫」を裏切り、「背信の女」(6,8,11節)になってしまいました。なのに、神は、彼らに「背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」(22節)と呼びかけておられます。神の愛は、なんと深い愛でしょうか。 もどる

エレミヤ書4章 神の、悔い改めへの招きが繰り返されているのに、神の民はそれに答えようとはしません。それで預言者は「私のはらわた、私のはらわた。私は痛み苦しむ。私の心臓の壁よ。」(19節)と全身をもって、神の民のために嘆きます。ここからエレミヤは「嘆きの預言者」と呼ばれるようになったのですが、エレミヤの嘆きは、同時に神の嘆きでした。神もまた、そのすべてをもって、私たちの悔い改めのない心を嘆かれるのです。 もどる

エレミヤ書5章 人々は神のことばを軽んじました。それで、神のことばは火のようになって彼らを焼き尽くします(14節)。神のことばには、私たちを生かす力もあれば、滅ぼす力もあります。神のことばを私たちの心を暖めるものとして受け止めるか、私たちを燃やす火とするかは、それを聞く、私たちの態度にかかっているのです。 もどる

エレミヤ書6章 エレミヤは、職業預言者たちが、国がまさに滅びようとしているのに、それに対する警告を与えず、「平安だ、平安だ。」と叫んでいるのを責めています。本当の平安は、危機を認識し、悔い改めることから生まれるものであって、それはたんなる「安心」や「気休め」ではありません。今の時代こそ、まことの預言者がまことの平安を語るべき時です。 もどる

エレミヤ書7章 神の民の罪は6節に要約されています。彼らは、弱い立場にある人々を苦しめ、正しい者を退け、神ならぬものを神として礼拝していました。バアルや「天の女王」を礼拝し、自分の息子、娘を火で焼くことさえしたのです。神は「これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。」(31節)と驚きのことばをのべています。人間は、神に従うのにはしぶしぶなのに、悪をなすには、精力的で、創造的でさえあるのです。 もどる

エレミヤ書8章 「倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。」(4節)とは、神の、神の民に対する大いなる疑問です。人は罪を犯します。しかし、同時に、悔い改めの恵みが備えられています。なのになぜ、悔い改めないのか、神は、不思議に思われるのです。この自明の理がわからない神の民のどこに知恵があり、主の律法があるというのでしょうか(8節)。「倒れたら、起き上がる。背信者となったら、悔い改める。」これこそ知恵であり、律法です。 もどる

エレミヤ書9章 「割礼」は神の民のしるしであり、彼らはそれによって自分たちは滅ぼされることはないと考えていました。しかし、神は、肉の割礼ではなく、「心の割礼」(26節)を求められます。パウロが「外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。…御霊による、心の割礼こと割礼です。」(ローマ2:28-29)と言ったのは、このことだったのです。 もどる

エレミヤ書10章 聖書のいたるところに、神が天地の造り主であることが書かれていますが、それは11-13節にもあります。神は創造であるゆえに、人の手で造られた偶像とは区別され、私たちの主であり、救い主となることができるのです。神を創造者として知ることは、神を知る知識の基礎であり、信仰の出発点です。 もどる

エレミヤ書11章 神の契約の中心は「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」(4節)ということばに表されています。神の契約は、神が掟で人間をしばりあげ、人間がしぶしぶそれに服従するといったものではありません。それは、神と人との人格と人格のまじわりです。神が私たちを所有し、私たちが神を「所有」するのです。このことは、私たちがキリストの者となり、聖霊が私たちのうちに住まわれることによって実現しています。 もどる

エレミヤ書12章 「なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。」(1節)という疑問は、現代人だけの質問ではなく、それは、エレミヤの時代にもすでにあったのです。これに対する答えは、神の、ユダに対する審判の中にあります。悪者がどんなに「根を張り、伸びて、実を結」ぼうとも(2節)、神は彼らを「その土地から引き抜」くのです(14節)。「神の審判」という概念は、現代人には受け入れにくいものかもしれませんが、「なぜ悪が栄えるのか。」という疑問は、それによってしか答えられてないのです。 もどる

エレミヤ書13章 「ひょうがその斑点を変えることができようか。」(23節)ということばは、遺伝子が動物の姿を決定してしまうように、罪が人間の性質を決めてしまうことを言おうとしています。表面的な努力によっては、外面のことばや態度を変えることはできたとしても、内面を変えることはできません。私たちは、創造者の御手で、新しく造りかえられる必要があります。聖霊による新生が必要なのはそのためです。 もどる

エレミヤ書14章 神はエレミヤに「この民のために幸いを祈ってはならない。」(11節)と言われました。不思議なことばですが、これは、神の裁きが、ユダの国のためにすでに定まっているからです。偽預言者たちは「剣やききんは起こらない。」と、気休めを語っていましたが、主の預言者は、現実を、事実を語らなければならないのです。神のことばを語るとは、実に、困難な仕事です。 もどる

エレミヤ書15章 エレミヤは、神の民に向かって神の裁きを宣告するという困難な仕事を与えられました。しかし、神のことばのすべてが、審判の宣告に満ちていたわけではありませんでした。エレミヤは、審判のかなたにある神の計画、また、残された者たちへの神の救いのことばをも聞きました。「あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけれらているからです。」(16節)とは、エレミヤに与えられた救いのことばのことを言っています。私たちにも救いのことばを「見つけ出し、それを食べ」る体験が必要です。 もどる

エレミヤ書16章 神の民は、その罪のために、バビロンにひかれていきます。裁きは必ずユダに、エルサレムに臨みます。しかし、その後、神は、神の民をバビロンから救い出し、再びエルサレムに連れ戻します。彼らに第二の「出エジプト」を体験させるのです。「その日には…『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言うようになる。」(15節)というのは、審判の後の救いの預言です。 もどる

エレミヤ書17章 「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。」(1節)とのことばは、私は、はじめて行った伝道集会で聞いたことばで、私はこのことばによって罪を示され、その夜、救い主キリストを信じる祈りをささげたことでした。旧約時代、祭司は罪のためのいけにえの血を「祭壇の角」に塗りましたが(レビ4:7,18,25,30,34)、祭壇の角に刻まれた私たちの罪は、キリストの十字架の血だけによって、きよめられるのです。 もどる

エレミヤ書18章 聖歌に「成したまえなが旨、すえつくりわが主よ。われはただ汝が手のうちにあるつちくれ。」という賛美がありますが、この歌詞は6節をもとに作られたようです。陶器師である神は私たちをどんな器にも作り変えることができます。 もどる

エレミヤ書19章 陶土は、焼かれる前なら、どんなに乾いていても、水を加えて練り上げるなら、その形を変えることができます。しかし、いったん焼かれたなら、それが壊れた時は、決してもとに戻りません(11節)。神は、エレミヤに陶器師や「焼き物のびん」などの実物教育を通して、ご自分の恵みと裁きとを人々に示されたのです。 もどる

エレミヤ書20章 エレミヤは神のことばを語ったため足かせにつながれました。そのためエレミヤは人間的には「主のことばを宣べ伝えまい。」と思ったのですが、主のことばは彼の心のうちに燃え、彼はそれをとどめておくことができませんでした(9節)。すべて、神のことばを語るものは、語らなければならないからではなく、語らざるを得ない思いから、神のことばを語るのです。 もどる

エレミヤ書21章 エレミヤはエルサレムの人々にバビロン王に降伏することを勧めています。そのようなメッセージを語ることは、ユダヤ人の愛国心にさからうことであり、その感情をさかなでし、「非国民」「売国奴」とののしられてもやむをえないような行為でした。しかし、真の預言者は、自分の身を危険にさらしてでも神のことばを語るのです。人々に「いのちの道」(8節)に歩むように呼びかけるのです。 もどる

エレミヤ書22章 イスラエルの人々は石を切って、それで家を作りました。杉の板で張った家は贅沢なものでした。ところが、エホヤキム王は、国家の危機などよそに、競って豪華な宮殿を建てました。それで、彼は「あなたは杉の木で競って、王になるのか。」(15節)との叱責を受けています。王を王たらしめるのは、その宮殿によるのではなく、「しいたげられた人、貧しい人の訴えをさばく」(16節)ことによるのです。彼は「自分の利得」(17節)だけを求めたため、みじめな結末を迎えることになります。 もどる

エレミヤ書23章 王、祭司、預言者たちはイスラエルを導く「牧者」と呼ばれていますが、彼らは牧者としてのつとめを果たしませんでした。それで、神は彼らを捨て、代わりにご自分の牧者を立てると、宣言されます。その牧者は「ダビデの若枝」(5節)と呼ばれますが、このお方こそ、救い主キリストなのです。 もどる

エレミヤ書24章 エコヌヤ王をはじめつかさたち、職人、鍛冶屋がバビロンに連れていかれた時、人々は、悪い者たちが取り去られ、良い者たちが残されたのだと考えたかもしれません。しかし、神の計画はそれとは逆で、神は、良い者たちをバビロンに連れて行き、悪い者をユダに残されたのです。連れて行かれた人々は、バビロンでその信仰を純粋なものにし、ふたたび帰ってきて神の民を立て直すのです。ふたつのいちじくのかごはそのことの預言で、「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」(7節)との契約の確認でした。 もどる

エレミヤ書25章 エレミヤの預言は、ユダだけに対するものではなく、それは、エジプト、ペリシテ、エドム、モアブ、アモン、ツロ、シドン、アラビヤ、メディヤ、そしてバビロンにまでも及ぶものでした。前世界の主である神は、世界の国々に対しても、それぞれに正しい裁きを与え、ご自分の民を導かれるのです。 もどる

エレミヤ書26章 エレミヤは神殿で祭司や他の預言者たちに捕まえられますが、神の約束のことばの通り、その命を救われます。エレミヤが神の守りを信じて神に従い続けたからです。ところがエレミヤと同じような預言をしていたウリヤは、王を恐れてエジプトに逃げましたが、そこから連れ戻され、殺害されています。ウリヤの預言はエレミヤの預言を真似ただけもので、神から出たものではなかったからかもしれません。神のことばを語る者は、神からの召しと、神への信頼なしに、それをしてはならないのです。 もどる

エレミヤ書27章 エレミヤはふたたび、バビロンへの降伏を勧めます。エルサレムに対する神のみこころはすでに定まっています。それは、いったん滅ぼされますが、七十年が満ちる時に、バビロンに捕らえられた人々が帰って来て、それを建て直すのです。神は、神の民が剣とききんと疫病で死んでいく(13節)のを望んではおられません。神は、彼らが神のことばに従って生き延びることを願っておられます。それで、「生きよ。」(17節)と語りかけておられるのです。 もどる

エレミヤ書28章 エレミヤとハナヌヤとの対決は、神のことばと、人間のことばとの対決でした。ハナヌヤは、二年のうちにバビロンに連れて行かれた人々や、持っていかれた神殿の器が戻って来ると言いました。それは、人々の耳に心地よいものだったかもしれませんが、それは、単なる人間の期待にすぎませんでした。神は、ハナヌヤの死という結末によってエレミヤの預言の正しいことを立証されました。 もどる

エレミヤ書29章 エルサレムの人々ばかりでなく、バビロンに連れて行かれた人々もまた偽りの預言に惑わされていました。神の民の命運がかかっている危急の時に、人間の願いから出たにすぎない勝手なことばは、神の民の将来を誤らせます。それで、エレミヤはバビロンにいる人々にも手紙を送り、偽預言者に聞くことがないように勧めたのです。神は思いつきで事をなさるお方ではありません。国家や人生の一大事の時こそ、変わらない神の計画、平安と将来と希望を与える計画(11節)に耳を傾けるべき時なのです。 もどる

エレミヤ書30章 「見よ。その日が来る。」(3節)と、神は約束しておられます。今日がどんなにつらくても、明日がどんなに不安でも、神の民を救うと約束された神が、救いの日を定められたなら、その日はかならず来るのです。神を信じる者は「その日」を目指して、なお信仰の歩みを続けるのです。 もどる

エレミヤ書31章 人の愛は移り変わりますが、神の愛は変わらない愛、永遠の愛です。神の民は神を捨て、偶像に走りましたが、その時も神は変わらず神の民を愛し続けてくださったのです。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」(3節)と言われる神に立ち返ること、それが神の民のなすべきただひとつのことなのです。 もどる

エレミヤ書32章 エレミヤは「監視の庭」というところに監禁されました。それは、ゼデキヤ王がバビロンに引かれていくと預言したからです。しかし、エレミヤはユダについて悪いことだけを預言したのではありません。ユダの回復を預言し、その預言をあかしするために、バビロンの手に陥った畑を買い取りました。回復の時が来る時、ユダで、ふたたび畑の売買が行われるからです。預言者はことばだけでなく、このように実際の行為によっても神のことばをあかししたのです。 もどる

エレミヤ書33章 こどもは「お母さん、ちょっと来て。」と母親を呼び、「お父さん、助けて。」と父親を呼びます。教師であれば生徒に呼ばれ、技術者であれば、顧客に呼ばれます。あまりに要求が多いと、私たちは疲れてしまい、「もう呼ばないでくれ。」という気持ちになってしまいます。しかし、神は、忍耐深いお方であり、私たちに呼ばれることを喜びとしてくださるのです。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」たとえそれが、どんな疑問や葛藤であれ、神を呼ぶものは答えを得るのです。 もどる

エレミヤ書34章 律法によれば、奴隷は七年目には解放されなければなりませんでした。この律法は長い間ないがしろにされていたのですが、ゼデキヤ王は奴隷の解放を宣言しました。ところが、人々は、いったん解放した奴隷を連れ戻し、再び使役したのです。このように人々は心を翻したので、神もまた「剣と疫病とききんの解放を宣言する。」(17節)と言われました。神が私たちに望んでおられるのは、悪から善へと立ち返ることなのに、彼らは善から悪へと心を翻したのです。 もどる

エレミヤ書35章 レカブ人は、当時のイスラエルでも特異な存在で、先祖の戒めを堅く守って、酒を飲まず、天幕生活を貫き通していました。エレミヤは、レカブ人を引き合いに出し、神のことばを投げ捨てて、それを決して守ろうとしなかったユダの人々を責めています。人のことばでさえ守られるのに、なぜ、神のことばが守られないのかという、エレミヤの嘆きが聞こえてくるかのようです。 もどる

エレミヤ書36章 ユダの人々は神のことばを守ろうとしなかったばかりか、それを聞こうとさえしませんでした。神がエレミヤに与えたことばは、バルクによって巻物に書きしるされましたが、エホヤキム王はそれを裂いて暖炉の火に投げ入れすべて燃やしてしまったのです。これは神のことばを無視する以上のもの、神のことばに敵対する行為でした。エホヤキムは神のことばに敵対したゆえに、神もまたエホヤキムに対して敵となられたのです。 もどる

エレミヤ書37章 バビロン軍は、エジプト軍との衝突を避けて一時ユダから退却しました。それで、偽預言者たちは、バビロン王は攻めてこないと言いました。しかし、ゼデキヤ王はそのような気休めのメッセージによっては平安を得ることができず、エレミヤから神のことばを求めました。しかし、ゼデキヤが神のことばを求めたのは、時すでに遅く、ユダの救いにはつながりませんでした。神のことばは、「きょう」という日、「今」という時に聞かなければならないのです。 もどる

エレミヤ書38章 ゼデキヤ王は、ユダの中ですでに統率力を失っていたようで、首長たちの言うがままにエレミヤを泥の中に沈めました。しかし、ゼデキヤはエレミヤの命を救い、なおも彼から神のことばを求めます。しかし、ゼデキヤは先にバビロン軍に投降したユダヤ人を恐れ、バビロンに投降することをしませんでした。バビロン軍が攻めて来た時、彼は逃亡を計りますが、捕まえられバビロンに引かれていくのです。ゼデキヤは、神のことばを語るものに親切を尽くし、神のことばを聞いたのに、それに従いませんでした。聞くだけでなく、従うことの大切さを教えられます。 もどる

エレミヤ書39章 バビロンの王は、エレミヤの命を救い、彼に自由を保証します。エレミヤには、なお、ユダの国に残った人々のために果たす使命があったのです。預言者の多くは、預言の成就を見ることなく死にましたが、エレミヤは預言の成就を見るまで生き延びたのです。しかし、彼が見た預言の成就は祖国の滅亡であって、それを見ることができたからと言って感謝できるものではありませんでした。自分の目でエルサレムの滅びるのを見たエレミヤの嘆きは大きなものだったに違いありません。 もどる

エレミヤ書40章 バビロン王は、ユダの人々をバビロンに引いていきましたが、貧しい者たちを残しておきました。そして、彼らを治めるためにゲダルヤを総督に立てました。ゲダルヤは人望のある人であったようで、人々はゲダルヤのもとに集まり、人々も彼に戦後の処理について期待をかけましたが、ゲダルヤもまた命を狙われました。ユダの国に残った人々は、またもや混乱と苦難の中に投げ込まれたのです。 もどる

エレミヤ書41章 ゲダルヤが殺され、人々はゲダルヤを殺したイシュマエルの手に陥りました。早くからゲダルヤに警告を与えていたヨハナンがイュマエルに立ち向かい、人々を取り戻しました。ヨハナンは良い働きをしたのですが、総督を死なせてしまったため、バビロンの怒りを買うであろうと考え、エジプトに逃れようとします。この出来事のためにエレミヤはゲダルヤの保護を失い、再び意に反した歩みを強いられるようになるのです。 もどる

エレミヤ書42章 エジプトに逃れようとしている人々にエレミヤは、エジプトに行ってはいけない、この地に留まるようにとの神のことばを語りました。「もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。」(10節)と神は言われます。神のことばに従うなら、彼らは、ユダの地で根を張り、実を結ぶことができたのです。 もどる

エレミヤ書43章 エレミヤは神から遣わされて「主のことば」を語りました。ところが、それを聞いた人々は、エレミヤに向かって「あなたは偽りを語っている。」と言って、神のことばをまっこうから否定しました。彼らはすでにエジプトに行くという結論を持っていたのです。エレミヤからそれを肯定してくれることばを聞きたかっただけだったのです。ヨハンナは人々と共にエレミヤをもエジプトに連れて行き、エレミヤはエジプトで預言をするようになりました。 もどる

エレミヤ書44章 エジプトに住むユダヤ人は「天の女王」にいけにえをささげている人々に神のことばをもって戒めました。しかし、彼らはそれを捨てて神に返ることをせず、「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない。」(16節)と、あからさまに反抗します。「私たちは…天の女王にいけにえをささげ、それに注ぎのぶどう酒を注ぎたい。」(17節)と自分の意のままに行動するのです。彼らの神は主でも、「天の女王」でもなく、彼ら自身の思いであったのです。 もどる

エレミヤ書45章 バルクはエレミヤの書記として、エレミヤと苦難を共にしました。それで「主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。」(3節)と言いました。それに対する神の答えは「わたしは、あなたの行くどんな所でも、あなたのいのちを分捕物としてあなたに与える。」(5節)というものでした。ユダの国へのさばきの時、多くの人が命を失った中で、神は、神に従ったバルクのいのちを救い出してくださったのです。 もどる

エレミヤ書46章 46章から51章は、エジプト、ペリシテ、モアブ、アモン、エドム、ダマスコ、ケダル、ハツォル、バビロンなど、ユダのかかわりの深い国々に対する預言がまとめられています。エジプトが最初に登場するのは、この時、エジプトにいたからでしょう。エジプトは古代からの大国で、人々はエジプトに避難すればなんとかなると考えていました。しかし、たとえエジプトに逃げても、そこにもバビロンはやってきます。神のことばに聞き、神を避け所とするのでないかぎり、さばきから逃れることはできないことが教えられています。 もどる

エレミヤ書47章 バビロンはペリシテ人の主な町々、ツロ、シドン、ガザ、アシュケロンなどをも侵略します。バビロンが「主の剣」(6節)と呼ばれているのは、主が、バビロンをペリシテへのさばきのために用いたことを意味しています。歴史を支配しておられる神は、古代の帝国の栄枯盛衰をも用いて、みこころをなされるのです。 もどる

エレミヤ書48章 モアブは、国土の地形が天然の要害となって、外敵に深く攻め込まれることはありませんでした。それで、「モアブは若い時から安らかであった。」(11節)と言われたのです。モアブは、たとえバビロンが攻めてきても、自分たちは安全だと思いこんでいました。しかし、みかけの安全は、ほんとうの安全を保証しません。ほんとうの安全がどこにあるかを、私たちは知らねばなりません。 もどる

エレミヤ書49章 アモンは豊かな水源と財宝に(4節)、エドムはその知恵に(7節)頼っていました。しかし、それらは、彼らを救うものとはなりませんでした。今日の国々は、経済力や技術力、政治力や軍事力に頼って生き延びようとしています。しかし、本当に国を支えるものが何であるかを忘れています。エレミヤの諸国への預言は、私たちに、神に頼ることが国を救うことを教えています。 もどる

エレミヤ書50章 神は、バビロンを「主の剣」として用いました。神はバビロンにご自分の民、ご自分の宮を滅ぼすことさえ許されました。バビロンはあくまで神の道具として用いられたに過ぎなかったのですが、バビロンは、自分たちに与えられた力を誇り、自分が神であるかのように高ぶりました。「主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ。」(29節)とあるとおりです。力に頼り、傲り高ぶる国もまた長くは栄えないのです。 もどる

エレミヤ書51章 バビロン滅亡に関連して、神は、バビロンに連れていかれたユダの人々について、「わたしの民よ。その中から出よ。」(45節)と語りかけられます。バビロン捕囚からの解放、エルサレム帰還の預言です。神の民へのさばきで始まったエレミヤの預言は、神の民の回復で終わります。神の、神の民に対する計画はいつでも、「将来と希望」を与えるものなのです(エレミヤ29:11、ローマ8:28)。 もどる

エレミヤ書52章 この章は列王記第二24-25章とほぼ同じです。このような歴史的記述がエレミヤの預言に付け加えられたのは、エレミヤの預言がそのとおり成就したことを確認するためだったと思われます。神のことばは、歴史の中に、私たちの人生の中にかならず成就するとの信仰を、私たちも養っていきましょう。 もどる