イザヤ書1章 預言者イザヤは、神の民の罪を責め、イスラエルはソドムやゴモラのようになってしまったと言います。しかし、同時に、罪がゆるされ、きよめられ、贖われるとの希望を宣べています。「罪が緋のように赤くても」(18節)キリストの紅の血潮にきよめられないもの、白くされないものはないのです(ヨハネ第一1:7)。 もどる

イザヤ書2章 「鼻で息をする人間」(22節)という言葉は、神が人の鼻に息を吹きこんで人が生きた者となったという創世記の言葉を思いおこさせます。どんなに力ある人も、神の息吹によって生かされているにすぎません。まして、目があっても見ることができず、鼻があっても息をすることもない偶像の神々は、まことの神の審判がはじまる時には何の役にも立たないのです。その時になって偶像を投げ捨てても遅いのです。神が恵みをもって呼びかけておられるうちに、偶像(神のようにしてそれに頼っているもの)を捨てようではありませんか。 もどる

イザヤ書3章 指導者が取り去られる時、国は亡びます。「わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる。」(4節)というのは、おそらく、イスラエルに対する神の最高の刑罰でしょう。私たちも、あらゆる分野での指導者たちが健全であるようにと祈る必要があります。 もどる

イザヤ書4章 神の民への刑罰が語られている真っ只中に神の民の回復が預言されています。まったく、突然のようで、文脈にそぐわないような気がします。しかし、ここに神の「本心」が見えます。「刑罰が最終目的ではない。刑罰もまたおまえたちを救おうとして与えるものなのだ」と言わんばかりの神の心が、ここに見えます。 もどる

イザヤ書5章 「悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。」(20節)罪の世界は倒錯の世界、さかさま、あべこべの世界です。その中から救われなければ、私たちにはほんとうの幸いはありません。 もどる

イザヤ書6章 神殿は、神の衣のすそをも満たすことはできませんでした。それほどに聖なるお方が神です。しかし、神の「聖」は罪人をよせつけない「聖」ではなく、イザヤをきよめたように、罪人をきよめるものとして働くのです。あなたも神の「聖」を求めてみませんか。 もどる

イザヤ書7章 イザヤは「神の池の水道の端」でアハズに会います。アッシャリヤが攻めてきて、いざ篭城となったら、水を確保するのが第一です。アハズは戦いにそなえて水道の点検に出かけたのでしょうか。アハズは人間の力により頼んで難局を乗り切ろうとしますが、ほんとうの救いは主にあることを学ぶべきだったのです。 もどる

イザヤ書8章 イザヤは自分のこどもに「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と名付けました。これは「分捕物はすみやかに」と言った意味です。預言者は、このように、わが子にさえ、神の命じられるままの名を与えて、人々への警告を発しました。「見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、…イスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。」(18節)という言葉は文字どおり、イザヤの上に成就したのです。現代のクリスチャンも、同じように時代に対する「しるし」となるよう召されています。 もどる

イザヤ書9章 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。」(6節)これはイエス・キリストの誕生を預言しています。救い主は、突然天から降りて来るのでも、地の果てからやってくるのでもなく、私たちのただ中に生まれ、育ち、やがて、その主権をあらわすのです。ちいさい赤ちゃんのイエスに「力ある神」を、貧しく育った大工の息子に「平和の君」の姿を見ることができる人はさいわいです。 もどる

イザヤ書10章 アッシリヤはイスラエルを懲らしめるために用いられた道具にすぎませんでしたが、自らおごり高ぶりました。それで神は「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。」(15節)と言って、アッシリアを滅ぼすのです。国々を道具として用いる神の力と、神の、ご自分の民への愛がこの章には書かれています。 もどる

イザヤ書11章 「エッサイ」はダビデの父です。ダビデは神に従った王でしたが、ダビデの子孫たちは神に対して真実ではなかったので、ダビデの家は切り倒されました。しかし、その根株から芽が生え、第二のダビデが起こり、ダビデの王国が復興されます。この第二のダビデこそ、「ダビデの子」として生まれたイエスです。 もどる

イザヤ書12章 1章から12章はイザヤ書の第一部にあたる部分で、神の懲らしめと、神の民の回復について書かれています。第一部の最後の章は、神の回復のみわざに対する賛歌です。「あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」(1節)と歌われています。御怒りが過ぎ去らなければ、それは永遠の刑罰です。神の怒りは、イエス・キリストによって過ぎ去りました。救い主によって神との平和を得ている私たちも、おおいに神をほめたたえましょう。(ローマ5:9-11参照) もどる

イザヤ書13章 この章から23章までは、諸国に対する神の審判とメッセージがしるされており、その第一はバビロンに対するものです。バビロンは、ユダを滅ぼした、イザヤの時代の最強の帝国でした。しかし、それがどんなに強力でも、全能の神の前には「ソドム、ゴモラ」(19節)のようでしかありません。人の権力はどんなに強く見えても、やがて終わりがくることを知らされます。 もどる

イザヤ書14章 「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。」(12節)はバビロンに対する言葉であると共に、サタンに対することばとして受け止められてきました。バビロンは古くは「バベル」(創世記11章)に端を発し、黙示録にも再び登場します。歴史上の「バビロン」が霊的な「バビロン」を表し、霊的な「バビロン」が歴史上の「バビロン」にたとえられているのです。そのような意味で、バビロンへの描写がサタンへの描写と二重写しになっているのも、うなずけます。 もどる

イザヤ書15章 モアブはユダに隣接した国で、ルツ記などに見られるように、ユダとの間に人の往き来があったようです。それで、この章と次の章にはモアブの町の名前が数多く出てきます。ユダの人々にも、モアブがどのような経路で敗退していくかが手にとるように分かったのでしょう。私たちの人生がモアブのように泣きながら終るものでないよう、心から願いましょう。 もどる

イザヤ書16章 モアブの滅びは、その高慢に原因がありました。「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない。」(6節)とあります。この言葉はエレミヤ48:30にそのまま引用されています。高ぶりが滅びにいたるのはバビロンと同じです。 もどる

イザヤ書17章 ダマスコはアラムの首都です。アラムはイスラエル北王国とたえず戦ってきた国です。それでここにはアラムのことと共にイスラエル北王国に関する預言も入っています。アラムを滅ぼしたアッシリヤはイエスラエル北王国をも滅ぼしました。イスラエル北王国は、神の民だからといって特別扱いはされなかったのです。これは「救いの神を忘れて」いる(10節)ユダ南王国への警鐘でもあります。 もどる

イザヤ書18章 「クシュ」はエチオピアを指すと言われます。エチオピアはアフリカにありますが、セムの文化に属しており、イスラエルと共通したものを多く持っていると言われています。神の救いがエルサレム、「シオンの山」に確立される時、エチオピアのような遠い国からも貢ぎものが運ばれるのです。「使徒の働き」は福音がエルサレムから始まり地の果てまでにも及んでいったことを描いていますが、その中にエチオピアの役人の救いが載せられているのは興味深いことです(使徒1:8, 8:26-39)。 もどる

イザヤ書19章 エジプトも古くからイスラエルとかかわってきた国です。イスラエルは、アッシリヤ、エジプトのふたつの大国にはさまれ、たえず生存の危機にさらされてきました。しかし、最終的には、アッシリヤもエジプトも主を知るようになり、この地に平和が訪れるようになるでしょう。今は、平和から程遠い中東地域ですが、キリストの平和はそれを可能にしてくれるはずです。 もどる

イザヤ書20章 イザヤは神からの預言を言葉で言い表しただけでなく、三年間、裸になり、はだしになるという形で表わしました。彼は自分の子どもに「分捕物はすみやかに」などという不名誉な名前をつけるなど、奇妙なことをしましたが、それは、神の民が神から離れてしまうという奇怪な時代にはやむをえないことだったのでしょう。 もどる

イザヤ書21章 「海の荒野」とはバビロンのことです。バビロンはペルシャ湾に面していましたので、そう呼ばれました。バビロンは、新興国でイザヤの時代にはあれほどに強力な国になることは予想されていませんでした。しかし、イザヤは、神の啓示により、ここですでにバビロンの滅びを預言しています。神の目には、どんなに権勢を誇っている国、日の出の勢いの国でも、永遠の神の御国以外は、はかないものとしか映らないのです。 もどる

イザヤ書22章 「幻の谷」はユダとエルサレムのことです。エルサレムはキデロンの谷、ヒンノムの谷で囲まれた自然の要害でした。人々は「エルサレムにいれば安心」と、目に見えるセキュリティに寄り頼んで神に頼ろうとはしませんでした。神への信頼をなくすなら、どんな深い谷も、高い山も、幻に終ってしまうのです。 もどる

イザヤ書23章 ツロは海洋貿易で栄えた町でした。金儲けのためなら節操のないことでも平気で行ったツロは、遊女にたとえられ、その経済的利益は「遊女の報酬」(17節)と呼ばれました。物質に富んでいても、主の前に富まないものは、その報酬は無に帰すのです。 もどる

イザヤ書24章 イザヤ24章から27章は「イザヤの黙示録」と呼ばれ、終末の希望が説かれています。「万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝く」(23節)その日を、イザヤとともに待ち望む人はさいわいです。 もどる

イザヤ書25章 「神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。」(8節)これはヨハネの黙示録21:4にそのまま出てきます。主は、万軍の主であって、天の大軍、地上の王たちを罰せられるお方ですが、同時に、弱っている者、貧しい者にはとりでとなり、避け所となり、陰となってくださるお方なのです。 もどる

イザヤ書26章 「死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。」(14節)という節と、「あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。」(19節)という節は矛盾しません。一方は不信者をさし、一方は信者をさしているからです。ヨハネの黙示録20:5-6がそのことを語っています。 もどる

イザヤ書27章 「主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。」(7節)この答えは「いいえ。」です。神はイスラエルを打ち、懲らしめ、滅ぼしましたが、終りの日にもういちど回復してくださるのです。神の民に対する特別なとりはからい、不思議な計画、深い愛を思い知らされる言葉です。 もどる

イザヤ書28章 28章-33章は不信仰を続けるイスラエルに対する神の警告のことばです。この章では、不信仰な人々が「酔っぱらい」にたとられています。酒に酔って、ろれつが回らない様子が10節にあります。それで、主もまた、彼らに「外国のことばで、この民に語られる」というのは、外国軍がエルサレムを攻め、降伏を迫ることをあらわしています。 もどる

イザヤ書29章 「アリエル」とはエルサレムをさし、「祭壇の炉」とも、「神のライオン」ともいう意味があるとされています。「ああ。アリエル、アリエル。」という嘆きは、イエスがエルサレムをはるかに仰ぎ見て、そのために泣かれたことの中に再び表わされます(ルカ19:41)。イエスの時代も、イザヤの時代も変わらなかったのです。では、今の時代と、現在の神の民は、神を喜ばせているでしょうか。それとも神の嘆かせているでしょうか。 もどる

イザヤ書30章 「わたしの霊によらず」(1節)とは、神のみこころも、導きも求めないことを表わしています。ほんとうの神の民は、神がゼルバベルに語られた「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)という言葉のように、神と心をひとつにして歩むのです。聖霊を内にいただき、御霊に導かれて歩むことを求めましょう。 もどる

イザヤ書31章 「彼らの馬も、肉であって霊ではない」(3節)とは、エジプトと同盟をむすんで難局を切りぬけようとする者たちへの警告です。政治や外交、同盟や交渉が悪いのではありません。神をないがしろにし、自らを改めることをしないで、安易な道を選ぶところに問題があります。ほんとうに頼りになるものは、人か、神か。肉か、霊か。神はそれを神の民につきつけているのです。 もどる

イザヤ書32章 32章は「見よ。ひとりの王が正義によって治め」(1節)という言葉で始まります。この「王」はもちろん、万軍の主である神であり、御子キリストです。その時、秩序が回復され、しれ者、ならず者が人々を治めるという、おぞましいことが取り除かれます。主が治めてくださるところは、主を愛し、主に仕える者たちが生き生きと働くことのできる場所なのです。 もどる

イザヤ書33章 神の民への救いが「あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富みである。主を恐れることが、その財宝である」(6節)とのことばによって示されています。ほんとうの救いは、軍事によってでも、経済によってでもなく、神を待ち望み、そして、神のみこころに従う信仰によってもたらされるのです。 もどる

イザヤ書34章 ここにはエドムへの裁きがしるされています。イザヤ書のこの部分は、神の民の救いを預言しているところですが、その中にも、いたるところに神の裁きが出てきます。神の裁きが預言されているところに、突然のようにして神の救いが語られているのをも、今まで何度も見てきました。神の救いは、裁きによってもたらされ、神の裁きは、救いにつながるということが出来ます。神の民を苦しめるものが裁かれることなく、神の民の救いはないからです。神は、その裁きによって世界を一新して(4節)、恒久的な救いをもたらしてくださるのです。 もどる

イザヤ書35章 バプテスマのヨハネがイエスに使いをやって「おいでになるはずの方はあなたですか。それても私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねさせた時、イエスはイザヤ書のこの箇所を引用してヨハネに答えています(ルカ7:18-23)。イザヤの預言は、イエス・キリストによって成就し、これからも成就することが、このことからもわかります。 もどる

イザヤ書36章 36章から39章は列王記第二18章から20章とほぼ同じことが書かれています。これはエルサレムがアッシリヤの攻撃から奇蹟によって救われたことを記録していますが、こうした歴史的記述は、神に頼るものが救われるとのイザヤのメッセージが真実であることのあかしとして、ここにしるされたのでしょう。神は預言とともに、その成就、あかしをもって私たちに語りかけてくださるお方です。 もどる

イザヤ書37章 「ユダの家ののがれて残った者は、下に根を張り、上に実を結ぶ」(31節)とは、神の救いにあずかった者たちが、かろうじて救われているだけでなく、豊かな繁栄にあずかることができるとの約束です。私たちの人生も、キリストの救いによって「下に根を張り、上に実を結ぶ」、確かで豊かな人生でありますように。 もどる

イザヤ書38章 「保証人」は、借金を背負った人にかわってその負債を支払う責任があります。自分の力で負債を払いきれない時には、保証人に頼る他ありません。ヒゼキヤは「死」という容赦のない取立人に対して、神を「保証人」に呼び求めています(14節)。事実、イエス・キリストは、私たちの保証人となって十字架の上で、その命を投げ出して、私たちの罪の負債を支払ってくださったのです。このような「保証人」に頼ることができる私たちは幸いです。 もどる

イザヤ書39章 ヒゼキヤは信仰によって病気をいやされたのに、そのことを感謝するよりは、バビロン王に、エルサレムの富を誇るようなことをしています。神の特別な恵みは、それによって人を高慢にしたり、安易にしたりするものではないはずなのですが、私たちは、不信仰のために、神の恵みを「むだに受ける」ことがあります。そのようなことがないようにとの警告を、ここから、しっかりと聞き取っておきましょう。 もどる

イザヤ書40章 「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。」(31節)鷲は、上空の気流に乗って飛びます。ですから、雀や鳩のように、翼をばたばたさせることなく、悠然と大空をかけめぐります。神に信頼する者も、鷲と同じように、無駄な思い煩いに精力を費すことなく、目的に向かって人生を歩むことができるのです。 もどる

イザヤ書41章 聖書には365回「恐れるな」ということばが出てくるといわれています。私たちの日々に恐れがあり、私たちは、日々に、神のことばを必要としているからなのでしょう。神は、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」(10節)と言われます。神ご自身と、神と私たちとが愛の関係で結ばれていることが、恐れをとりのぞくただひとつの道なのです。 もどる

イザヤ書42章 イザヤ書には「しもべの歌」と呼ばれるものが四つあり、その第一がここ41:1-9です。この部分は、マタイ12:18-21に引用されていて、イザヤが預言した「しもべ」こそ、キリストであることが良くわかります。「しもべの歌」の第二は49:1-6、第三は50:4-9、第四は52:13-53:12にあり、それぞれの角度からキリストの姿を描いています。 もどる

イザヤ書43章 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(4節)ということばは多くの人々によって愛されていることばです。イザヤ書には、神に背いた神の民への叱責のことばがいくつも見られますが、それでも、神は、その民を愛しておられました。それゆえ、エジプトやクシュ、ゼバばかりか、ご自分の御子を身代りとして、罪の身代金を払い、贖いをなしとげてくださったのです。 もどる

イザヤ書44章 ここには偶像のむなしさ(9-20節)に対して、生ける神の偉大さがしるされています。神は「わたしは初めであり、わたしは終りである。わたしのほかに神はない。」(6節)と宣言しておられるのに、なぜ、なおも、人々は他の神々を慕い求めるのでしょうか。 もどる

イザヤ書45章 「クロス」(1節)はイザヤから150年も後の人物ですが、彼がバビロンを滅ぼし、イスラエルを解放する者となります。それで彼は「油そそがれた者」と呼ばれていますが、この「油そそがれた者」ということばから「キリスト」という言葉が生まれました。イエス・キリストもまた、人々を罪から解放する者として来られた力強い王なのです。 もどる

イザヤ書46章 「ベル」はバビロンの主神マルドゥク、「ネボ」はマルドゥクの子で文学と科学の神のことです。これらの神々はバビロンでは尊ばれ、恐れられていますが、車に載せられ、家畜に運ばれなければ動くことすらできないのです。しかし、まことの神は違います。神は、私たちを持ち運んでくださるお方なのです。「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(3-4)このことばは、神の力とともに、神の変わらない愛を表わしています。これほどまでにあなたを愛しておられる神に、あなたはどのような愛をささげたでしょうか。 もどる

イザヤ書47章 この章はバビロンの滅亡を歌ったものです。バビロンは「私だけは特別だ。」(8、10節)と思い続け、「自分の終わりのことを思ってもみなかった」(7節)ので、その高慢のゆえに滅ぼされたのです。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)と言われているとおりです。 もどる

イザヤ書48章 「あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになる。」(18節)とは素晴しい約束です。この約束を自分のものにするのに必要なことはただひとつ、神のことばに耳を傾けることです。神は常に、私たちの益になることを教え、私たちの歩むべき道に導いてくださるお方なのですから(17節)。 もどる

イザヤ書49章 第二の「しもべの歌」(1-6節)では、「しもべ」は「諸国の民の光」と呼ばれています。キリストはご自分を「世の光」と呼びましたが(ヨハネ8:12)、その時、この箇所を念頭に置いておられたことでしょう。イエス・キリストの救いの光は、今や、文字通り「諸国」に届いています。 もどる

イザヤ書50章 第三の「しもべの歌」(4-9節)では、神のことばに従い、それを守り、それを伝えたキリストの姿が描かれています。そして、人々に「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。」(10節)と呼びかけています。神は変貌の山で「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」(マタイ17:5)と言われました。キリストがしもべとなって神に聞いたように、キリストに聞く者は幸いです。 もどる

イザヤ書51章 「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」(1節)とは、過去をふりかえれという意味です。イスラエルは、たったひとりの遊牧者アブラハム、長く子を産むことがなかったサラから大きな国民とされました。神の恵みが神の民を導いてきたのです。過去は、ただ懐かしむだけのものではなく、それを振り返り、そこから神の恵みを掘り出す鉱脈なのです。 もどる

イザヤ書52章 「憤りの杯」(51:17)を飲んだエルサレムに、神は「さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい頃を着よ。」(1節)と呼びかけてくださいます。酔いどれから花嫁のように美しく、女王のように高貴なものへと変えられるのです。 もどる

イザヤ書53章 第四のしもべの歌(52:13-53:12)が、エルサレムの救いの喜びのただ中で歌われます。それは、神の民の救いが、しもべである救い主の苦しみによってもたらされることを教えています。キリストの十字架が、この章のとおりに成就したことを知っている私たちは、キリストの救いもまた、聖書が預言していたとおりに成就したことを知って喜ぶのです。 もどる

イザヤ書54章 人の愛は移り変わりますが、神の愛は、「永遠に変わらぬ愛」(8節)です。神はその愛を歴史の中で表わしつづけ、ことばをつくして表現し、そして、なにより、キリストの十字架の死によって示してくださっています。ヨハネは十字架を指して「ここに愛がある」(ヨハネ第一4:10)と言いました。イザヤも53章の後に、神の愛を示し、神の愛が「しもべ」の苦難や犠牲によって示された愛であることを教えています。 もどる

イザヤ書55章 神は「主を求めよ。お会いできる間に。」(4節)と呼びかけていてくださいます。神は、忍耐をもって私たちが神もとに帰るのを待っていてくださいますが、私たちの人生は短かく、神に従うことのできる機会はそんなに多くはありません。機会を逃さず、「きょう」という日に、「今」というこの時に神に帰りましょう。 もどる

イザヤ書56章 「宦官」は、律法(申命記23:1)によれば主の集会に加わることはできませんでした。しかし、神の救いが成就する時には、宦官も、外国人も、イスラエルとかわらず、神の民の中に加えられるのです。この預言の成就は使徒の働き8:26-39に見ることができます。もどる

イザヤ書57章 この章には、まことの神を捨てて偶像礼拝に精力をかたむけているイスラエルに語られたものです。イスラエルは神の怒りを見たのに、「彼はなおそむいて、自分の思う道を行った」のです(17節)。イスラエルは神に捨てられて当然なのに、神は「わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。私は彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。」(18節)と語りかけてくださいます。なんという大きな愛、深い愛でしょう。この愛があなたにも向けられているのです。 もどる

イザヤ書58章 「断食」は、宗教上の大切な習慣で、今も中東の地域などで、多くの人がそれを守っています。イスラエルの人々も、断食を守りました。しかし、その断食は、形ばかりのもので、中身の伴わないものでした。神は「わたしの好む断食は、これでないか。」(6節)と、見せかけだけの儀式、習慣を隠れ蓑にして悪を行っている人々の偽善を突いておられます。 もどる

イザヤ書59章 人間の罪は神の心を痛めます。「主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。」(15節)とある通りです。イスラエルがどんなに公義を踏みにじっていたとしても、彼らは神の民であって、人々の罪を嘆き、彼らに代わって神に赦しを請う人々がいたはずです。ところが、この時は、その人すらいませんでした。「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。」(16節)のです。そこで、神は、キリストを、私たちにかわってとりなす者として立ててくださったのです。 もどる

イザヤ書60章 神は、神の民に「起きよ。光を放て。」(1節)と言われましたが、その光はどこから来るのでしょうか。「主があなたの永遠の光となり」(19,20節)とあるように、神の民を照らす光は神から来ます。そして、神によって光を受けた者は、みずからも光となって回りを照らすことができるようになるのです。 もどる

イザヤ書61章 1-2節は、主イエスが、郷里ナザレの町の会堂で朗読された箇所です。主はここを読まれた後、「きょう、聖書のことのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」(ルカ4:21)と言われました。主イエスこそ、「油そそがれたお方」、キリストであると、宣言されたのです。預言の成就を見ることのできる私たちは幸いです。 もどる

イザヤ書62章 神と神の民は、花婿と花嫁にたとえられています。神は神の民を「花嫁のように宝玉で飾ってくださ」(イザヤ61:10)り、「花婿が花嫁を喜ぶように」(5節)喜んでくださいます。新約でも、キリストが花婿で、教会が花嫁と呼ばれています。キリストも教会を「きよめて、…聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせ」(エペソ5:26-27節)てくださるのです。 もどる

イザヤ書63章 神が、人々の救い主になってくださる方法は、天から人々に手をさしのばして、「救われたい者はこの手にすがれ。」というようなしかたではなく、人々の苦しみをともにすることによってです。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ」(9節)ということばは、キリストの十字架の苦しみに通じていくことばです。 もどる

イザヤ書64章 さばきの日に支えになるのは、神と自分との関係です。神が自分にとってどのようなお方であり、自分が神にとってどのようなものであるかを自覚し、確信していることが大切です。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(8節)と、神を父とし、みずからを神の作品として確信することができるなら、神の名を呼び求めて救いを得ることができるのです。 もどる

イザヤ書65章 「見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。」(17節)ということばは、黙示録21章にその成就があります。イザヤ書は世の終りにいたるまでの展望をもって預言をしています。救いは、神のみこころの中にはじまり、歴史の中で成就し、そして、将来に完成するのです。救いの完成を確信する時、今の救いをも確信することができるのです。 もどる

イザヤ書66章 イザヤ書は聖書の巻数とおなじ66章あって、神の創造のみわざ、選びと摂理、救いと祝福 、きよめと回復など、聖書のすべてのテーマが描かれています。聖書66巻がイザヤ書の中にあるかのようです。そして、その書の中に全聖書を読むのは、イザヤ書ばかりでなく、他の聖書にも通じます。聖書の各書や各章はそれぞれ聖書全巻から独立したものでなく、それぞれが他の部分の預言になり成就となり、提題となり解答となっています。聖書のどの箇所も全体の光で読むことは、大切なことです。 もどる