雅歌1章 雅歌には、羊飼いの若者と、ぶどう畑の見張りをしていた娘が互いひかれ合い、求め合う様子が描かれており、ところどころにエルサレムの娘たちの「はやし言葉」が入ります。雅歌を読む時にはどの部分を、誰が歌っているかを考えながら読むと、理解しやすいでしょう。 もどる

雅歌2章 雅歌からは、男女の愛を越えて、神と神の民の愛の関係を学ぶことができます。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」(16節)ということばは、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」(出エジプト6:7、レビ26:12、エレミヤ7:23,11:4,30:22、エゼキエル2:2)ということばを思い起こさせてくれます。 もどる

雅歌3章 ここに栄華をきわめたソロモン王が登場します。この部分から、娘が若者を「ソロモン王」に見立てているという解釈と、ソロモンが娘をみそめて、その後宮に召そうとするのだが、娘は、若者への愛を貫こうとするという解釈とが生まれます。 もどる

雅歌4章 ここには、娘の美しさを表わすことばが続いています。愛とは、相手を大切なものと思う心です。神は、その愛のゆえに、ご自分のものに「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ43:4)と言ってくださるのです。 もどる

雅歌5章 娘は、夜回りが警戒にあたるころなのに、若者を求めて出かけて行きます。これは、神の民が神を求める姿、クリスチャンがキリストを求める姿を表わしています。聖書では、キリストが私たちを捜し求めてくださることが書かれていますが、同時に、私たちもキリストを恋こがれるように求めるべきことも教えられているのです。 もどる

雅歌6章 「高貴な人」(12節)は、若者を「王」になぞらえていることばとも、ソロモン王ともとれます。これをソロモンととるなら、4節からのことばはソロモンが「シュラムの女」、つまり、この娘に言い寄ったことばということになります。 もどる

雅歌7章 身分制度がまもられていた時代にも、結婚の時には、庶民であっても身分の高い者の服装をすることが許されました。今日、花嫁がウェディングドレスを着て、ブライドメイドを従えるのは、そのような名残りでしょう。結婚式においては、花婿は王、花嫁は「高貴な人の娘」(1節)とみなされるのですが、これは、天の婚宴において、教会が王の王であるキリストのものとされるということを表わします。 もどる

雅歌8章 「笑い」はお金では買えても、「喜び」はお金では買えません。「愛人」をお金で買うことができても、「愛」はお金で買うことはできません。誰も人の命に値段をつけられないように、本当に大切なものは、どれも、値段のつけられないもの、お金で買えないものばかりです。お金がすべてと思っている人は「ただのさげすみしか得られない」(7節)ことでしょう。 もどる