伝道者の書1章 「箴言」は、知恵、教訓の世界から神を示しましたが、「伝道者の書」は人生や哲学の世界から神を指し示しています。「箴言」や「伝道者の書」が一般の人々に良く知られ、共感を与えるのは、一般の世界に共通するものを持っているからでしょう。 もどる

伝道者の書2章 「伝道者」は、さかんに「むなしい」という言葉を使っています。知恵も、富も、快楽も、また大きな事業や労苦でさえ、それは「むなしい」と言います。知恵や富は人の望み求めるものであり、快楽も人が追求してやまないものです。労苦でさえも、達成感を得るために人はそれを忍びます。しかし、それらを究めても、その後に待っているのは、「むなしさ」でしかないというのです。この「むなしさ」から解放されるには、どうしたらいいのか、それをこの書は私たちに問いかけています。 もどる

伝道者の書3章 すべてに「時」があります(1〜8節)。「時」を見極めていくと、それは「永遠」につながっていきます。「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(11節)とある通りです。「時」と「永遠」を思うことから、「むなしさ」より回復されていくのです。 もどる

伝道者の書4章 「むなしい」世界の中でも耐えていくことができるのは、互いに支えあうからです。「ふたりはひとりもまさっている。」(9〜12節)というのは、真理です。しかし、ふたりや三人が、もし、いがみ合い、争い合っていたら、どうなるでしょうか。それこそ、むなしさの極みと言わざるをえません。 もどる

伝道者の書5章 ヨブは「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。」(ヨブ1:21)と言いましたが、伝道者も「母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。」(15節)と言っています。人は死ぬとき、その労苦によって得たものをすべて手放さなければならないのです。しかし、キリストにあっては、労苦は無駄になりません。黙示録は「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。…彼らの行いは彼らについて行くからである。」(黙示録14:13)と、主にあってなしたことは永遠に残ると言っています。 もどる

伝道者の書6章 人はかならず死にます。しかし、人生をむなしくさせるのは、死ではありません。たとえ「多くの年月を生き」たとしても、その人生がさいわいでなければ、それはむなしいと言うのです(3節)。人生はたんにその長さで量ることのできるものではなく、その質によって量るべきものだからです。 もどる

伝道者の書7章 「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」(2節)というのは逆説的な表現ですが、案外、ほんとうにそうかもしれません。結婚式に出てもあまり学ぶことはありませんが、葬儀に出席しますと人生において多くのことを学ぶことができます。司式をする立場から言うと、結婚式よりも葬儀のほうがうんと大変ですが、人生のしめくくりの時にかかわることによって、司式者も多くのことを教えられます。 もどる

伝道者の書8章 「何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかをだれも告げることはできない。」(7節)というのはまさにその通りです。パスカルも「最も確かなのは、人はかならず死ぬということで、最も不確かなのは、それがいつ起こるかということだ。」と言っています。人間は明日を保証することはできず、明日のことを誇ることはできません。だからこそ、人間には神を恐れて歩む謙虚さが必要なのです。 もどる

伝道者の書9章 「すべての事はすべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえをささげる人にも、いけにえをささげない人にも来る。善人にも、罪人にも同様である。誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様である。」(2節)というのは真実です。神を信じる者も、そうでないものも、おそらく同じ確率で病気になったり、事故にあったりするでしょう。モーセの十の災いのように、神を信じる者には及ばない災いはないでしょう。神は平等に人を取り扱われます。しかし、同じ病気にしても、事故にしても、神を信じる者とそうでない者には、それを受け止める受け止め方が違います。両者ともに死ななければならないとしても死のかなたにあるものが違うのです。 もどる

伝道者の書10章 伝道者が見た「悪」は、愚か者が国を治めることでした。「私は、日の下に一つの悪があるのを見た。…愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に着けられている。」(5〜6節)とある通りです。上に立つ者の資質いかんで全体がおおきく影響を受けます。それが社会というものであり、組織というものです。良い指導者を持つために、指導者を選ぶ私たち自身が高い資質を持ちたいと思います。 もどる

伝道者の書11章 「朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。」(6節)との言葉は、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(詩篇126:5)や「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(テモテ第二4:2)などのことばを思い起こさせます。「むなしい」を連発していた伝道者も、ここでは、私たちの「労苦が、主にあってむだでないことを」(コリント第一15:58)教えています。 もどる

伝道者の書12章 3〜6節にある「家を守る者」「力のある男」「粉ひき女」「女の目」などは、腰や膝、歯のことを表わし、「アーモンドの花」は白髪を表わしていると言われます。「銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。」とは、臨終の様子を表わしているのでしょう。伝道者は人の生涯の終りを示すことによって、人はどう生きるべきかを教えています。伝道者の結論は「神を恐れよ。神の命令を守れ。」です。これを人生の基本姿勢としましょう。 もどる