箴言1章 「神を教えない教育は賢い悪魔を育てるだけだ。」ということばがありますが、現代は知識だけを与えて、神を恐れることを教えない時代になってきました。しかし、聖書は「主を恐れることは知識の初めである。」(7節)と明言しています。これは、昔も今も変わることのない大原則です。 もどる

箴言2章 「主が知恵を与え、御口を通して知識と英知を与えられるからだ。」(6節)とあるように、神が知恵と知識のみなもとです。知恵の欠けた者は、誰でも、「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神」に願うことができます(ヤコブ1:5)。「銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出す」(4節)とは、知恵のみなもとである神に願い求めることなのです。 もどる

箴言3章 主を恐れて生きる人には、霊的な祝福ばかりでなく、健康と富の祝福も添えて与えられます。「それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。… そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」(8,10節)とあります。私たちにとって大切なのは、健康と富ではなく、それ以前に神の知恵です。まず神の知恵を求めましょう。 もどる

箴言4章 ある人の聖書に「これを守れ。そうすれば、これがあなたを守る。」と書いてありました。わたしたちが神のことばを守るなら、神のことばが私たちを守るのです。箴言も「思慮があなたを守り、英知があなたを保って、悪の道からあなたを救い出し、ねじれごとを言う者からあなたを救い出す。」(4節)と言っています。 もどる

箴言5章 この章には「他国の女」から遠ざかるようにとの教訓があります。ソロモンが「他国の女」を召し集め、そのため主から離れていったこと、捕囚後、人々がユダヤ人の妻を出して、「他国の女」を迎えたことなど、この教訓を例証するものは聖書に限りなくあります。神に忠実である者は、結婚関係においても誠実であるべきこと、また、正しい結婚関係が正しい神との関係を育てることが教えられています。 もどる

箴言6章 20-35節には、人妻との不倫の関係について教えられています。「不倫」は決してもてはやされるべきものではなく、それは「火をふところにかき込む」こと、「熱い火を踏む」ことにたとえらえています。それは大きな火傷となり、自分自身を滅ぼします。 もどる

箴言7章 ここには遊女の誘いが言葉巧みに書かれています。こうした誘惑から自分を守るには、神のことばを心にたくわえ、それをひとみのように守り、指に結び、心の板に書き記す(1-3節)ほかありません。「私の命令を守って、生きよ。」と言われる神に思いを向けるほかありません。 もどる

箴言8章 新約聖書に、「キリストは神の力、神の知恵なのです。…キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」(コリント第一1:24,30)とあります。箴言では知恵について「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。」(22節)とありますが、これは、天地創造の前から存在しておられた、「神の知恵」であるキリストを描いているということができます。 もどる

箴言9章 知恵も、「愚かさ」もともに人々を招いています。「わきまえのない者はだれでもここに来なさい。」と(4,16節)。どちらの招きに答えるかは「自由」です。私たちの選択にかかっています。しかし、私たちには、自分の選択の結果を決めることはできません。一方は命を与え、一方は死をもたらします。 もどる

箴言10章 ここからは「ソロモンの箴言」と呼ばれる部分です。箴言のひとつひとつは短いことばですが、短いだけに心に入ってきます。単なる教訓だけでなく、「主の祝福そのものが、人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。」(22節)などと言った信仰のステートメントなども多くあります。 もどる

箴言11章 善と悪、正義と不正とが入り乱れているのが、この世です。「欺きのはかり」もあれば「正しいおもり」もあります(1節)。それを見分け、正しいものを選び、不正をしりぞけていく「選択」が私たちに求められています。そして、その選択は、「知恵」によって、また「信仰」によってなすことができるのです。選択の積み重ねが、その人の人生を決定し、ある人は「義を追い求め」、またある人は「悪を追い求め」るようになります(19節)。私たちは、今日、何を選択するでしょうか。 もどる

箴言12章 この章には知恵のことばの持つ力が、「正しい者の口は彼らを救い出す。」(6節)、「人はその口の実によって良いものに満ち足りる。」(14節)、「知恵のある人の舌は人をいやす。」(18節)、「真実のくちびるはいつまでも堅く立つ。」(19節)、「親切なことばは人を喜ばす。」(25節)などと表現されています。「口は禍いのもと」などとは言いますが、神の知恵によって語られることばは、祝福のもととなるのです。 もどる

箴言13章 箴言は「友」についても、多くのことを書いていますが、ここでは「知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。」(20節)とあります。私たちはみな、一緒にいる人々から影響を受けますから、誰とともに歩むかはとても大切です。神の知恵を教え、またそれを求めている教会のまじわりや、聖書の学びのつどいに、つとめて参加しましょう。 もどる

箴言14章 「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(4節)というのは、表面的にものごとが整ってさえいれば良いとする、消極的な物の考え方に対する警告です。行動を起こさなければ失敗もしないでしょう。しかし、それではどんな生産的なものも生まれません。より良いものを生み出すためにもたらされる生活の変化を恐れてはならないのです。 もどる

箴言15章 「幸福」というものは決して目に見えるものだけで計れるものではありません。「わずかな物を持っていて主を恐れるのは、多くの財宝を持っていて恐慌があるのにまさる。野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」(16-17節)とあるとおりです。幸福はその人の心のあり方に依存する部分が多いようです。「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」(15節)心の奥底からの平安や喜びを持つ人こそ幸いです。もどる

箴言16章 「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。…あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(1,3節)は、私たちの人生の主権者が神であることを覚えるようにとの教えです。神は私たちに計画を立てることを許し、また、奨励しておられます。しかし、神を度外視した計画は決して成り立たないことを知らなければなりません。神のために、神のみこころにそった計画を、神とともに立てていく時、その人生は神に導かれた豊かな人生となります。 もどる

箴言17章 8節に「わいろは、その贈り主の目には宝石、その向かう所、どこにおいても、うまくいく。」とあるのは、わいろを是認しているのではなく、わいろの危険性を語っているのです。23節には「悪者は人のふところからわいろを受け、さばきの道を曲げる。」とあり、正しくないさばきについては15節や26節で否定されています。箴言には、ところどころに、悪を是認しているような表現がありますが、全体を読んで行くとき、その正しい意味が明らかになってきます。 もどる

箴言18章 10節と11節は、神に頼るものと、自分の財産に頼る者とが比較されています。自分の財産に頼るものは、それが堅固な城のように思っては、いても、本当は頼りにはならないのです。一夜にして財産を失うこともあるのです。しかし、主こそ堅固なやぐらです。主に頼るものは、本当の安全を得ることができます。「主の名は堅固なやぐら。正しい者はその中に走って行って安全である。」(10節) もどる

箴言19章 箴言には、夫婦のこと、親子のことが数多く出てきます。「愚かな息子は父のわざわい。妻のいさかいは、したたり続ける雨漏り。」(13節)あるいは「父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である。」(26節)ということばは、まるで現代社会を描いているようです。だからこそ、神の祝福が家庭に必要であり、神の知恵による教育が子どもには必要なのです。 もどる

箴言20章 「異なる二種類のおもり、異なる二種類の枡」(10、23節)というのは、物を買う時には大きな枡、軽いおもりを使い、物を売るときには、小さな枡、重いおもりを使うことを意味します。私たちは、何かの判断をくだす時、人には厳しく、自分には甘くするという二種類のおもりや枡を使いわけているかもしれません。自分に対して使うのと同じはかりを人にも使うよう、主イエスは教えています。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:2) もどる

箴言21章 この章の最後の二節は、詩篇33:13-17と内容も、言葉遣いも似ています。イスラエルの王は、多くの馬を蓄えてはならないと戒められています(申命記17:16)が、詩篇や箴言といった文学書もまた、律法の書に基づき、律法の書を反映しているのです。 もどる

箴言22章 聖書は常に「貧しい者」「悩む者」をいたわるようにと教えています。社会的に弱い者たちは、権力者たちから虐待されやすいのですが、彼らには、どの権力者よりも偉大な、主権者である神が弁護者としてついておられることを忘れてはなりません。「主が彼らの訴えを弁護し、彼らを奪う者のいのちを奪うからだ。」(23節) もどる

箴言23章 29-35節に、酒に溺れる人々の姿が、みごとに描かれています。箴言は「ぶどう酒は、あざける者。強い酒は、騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない。」(20:1)「快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。」(21:17)などと、いって酒に溺れることを戒めています。 もどる

箴言24章 「外であなたの仕事を確かなものとし、あなたの畑を整え、そのあとで、あなたは家を建てよ。」(27節)というのは、堅実な生活を推奨する言葉です。仕事もないのに、家を建てはじめても、それを完成させることはできません。主イエスも「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。」(ルカ14:28-30)と言っています。 もどる

箴言25章 「銀から、かなかすを除け。そうすれば、練られて良い器ができる。かしい思いをさせる。」(4節)というのは、人間を器にたとえ、自分の品性を鍛錬するようにと教えているものです。かなかすを取り除くため、銀がるつぼにかけられるように、私たちも苦しみや困難によって自らをきよめていきます。神からのそうした鍛錬を避けてばかりいる人は、自らをきよめ、高めることができないで終わります。 もどる

箴言26章 ここには「愚か者」(1-12節)、「怠け者」(13-16節)、「他人に干渉する者」(17-28節)の姿が描かれていますが、こうした人たちに共通しているのは、「自分を知恵のある者と思う」(5、16節)ことにあります。自分の姿を正しく知り、神の前にへりくだること以外に、正しく生きる道はないのです。 もどる

箴言27章 「朝早くから、大声で友人を祝福すると、かえってのろいとみなされる。」(14)というのは、「心配している人の前で歌を歌うのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、ソーダの上に酢を注ぐようなものだ。」(25:20)と似た表現です。それ自体は悪いことでなくても、状況によっては人を傷つけ、罪となることあります。注意したいものです。 もどる

箴言28章 「おしえを守る者は分別のある子、放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさせる。」(7節)とありますから、まして、放蕩者になってしまった子はどんなに父親をはずかしめてしまうことでしょうか。しかし、主イエスのたとえ話の父親は、自分の恥もいとわず息子を受け入れ、自分をはずかしめた息子を赦しています。放蕩息子の父親は父なる神を表わしていますが、私たち罪ある者を受け入れてくださった神の愛の大きさを思わせられます。 もどる

箴言29章 「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」(18節)の「幻」は、「黙示」あるいは「預言」と訳されていることばです。神の民は、神のことばによってはじめて、神の民となっていくのです。神の民にとって一番恐ろしいのは、パンのききんでも、水に渇くことでもなく、「主のことばを聞くことのききんである。」(アモス8:11)なのです。 もどる

箴言30章 「ヤベツの祈り」が良く知られるようになりましたが、ここにある「アグルの祈り」も覚えておくべきでしょう。「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」(8節)つつましい祈りですが、現代の私たちが忘れがちな祈りです。 もどる

箴言31章 「しっかりした妻」の姿が10節以降に描かれています。「この女性はあまりにも理想的すぎる」と思う人もいるでしょうが、理想の姿を見つめることによって、理想に一歩でも近づくことができますから、この箇所は貴重です。そして、この理想の女性が「主を恐れる女」(30節)であったことを忘れないようにしましょう。神が私たちに求めておられるのは、実に、「主を恐れる」ことにあるのです。 もどる