詩篇1篇 詩篇第1篇は、神に頼る者のさいわいを歌ったものですが、そのさいわいを何の苦労もない楽園の楽しみとして描いてはいません。信仰者が生きている現実はもっと厳しいものです。「悪しき者」「罪人」「あざける者」と言われる人々が神に従おうとする者のまわりを取り囲んでいるのです。神を信じてまっすぐに歩もうとしても、彼らに邪魔され、まどわされてしまうのです。まことの信仰者には、彼らのはかりごとに「歩まない」、その道に「立たない」、その座に「座らない」という、きっぱりとした決断が求められています。信じる者の幸いは、そのような信仰の戦いの結果として得られるものなのです。 もどる

詩篇2篇 詩篇には、キリストに関する預言が数多くあります。7節は、使徒13:33節に引用されており、そこで、パウロは、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。」ということばは、神がイエスに言われた言葉であり、これは、その後に続く「わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕くであろう。」という言葉が表わしているように、キリストが、復活の後、天にあげられ、全世界の王、すべての造られたものの主として、父なる神の右に着座されることを、あらかじめ言い表わしたものだと言っています。へブル1:5と5:5にもこの言葉が引用され、イエス・キリストは、ただひとり神の子とよばれるべきお方であり、人間の制度によって立てられたのではなく、神によって立てられた永遠の大祭司であると、論じられています。 もどる

詩篇3篇 悩みや心配なことがある時は、よく眠れないのが普通のことです。ところが、ダビデは四方を敵に囲まれても、「わたしはふして眠り、また目をさます。」と言っています。どうしてそんなことが言えたのでしょうか。それは、彼のまわりにどんなに嵐が吹き荒れていても、「主が(彼)をささえられるから」です(5節)。彼は、主が彼の「盾」となって彼を取り囲んでいることも知っていました。ダビデは、敵に取り囲まれているという「現実」とともに、主がささえ、取り囲んでいてくださるという「現実」にも、しっかりと、目を向けているのです。 もどる

詩篇4篇 「怒り」は私たちにとって自然な感情であり、神に造られた感情の一部です。それは、神の真理を守るため、他の人のコントロールから自分を守るために必要なものでさえあります。しかし、怒りをどう表現するか、それをどう処理するかについて注意深くなければなりません。それを間違えると、他の人を傷つけ、自分を傷つけ、神に対して罪を犯してしまします。詩篇4:4は「あなたがたは、怒っても罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。」と教えています。この節はエペソ4:26にも引用され、「怒ることがあっても罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」とあります。翌日まで怒りを持ち越さない、これが怒りの正しい処理方法です。夜休む前に、神の前に今日一日の自分の怒りを持ち出して、それを点検し、捨てるべきものは捨て、委ねるべきものは委ねましょう。 もどる

詩篇5篇 信仰者が「正しい者」と呼ばれているのは、私たちが生まれた時から何の罪も犯さなかったという意味ではありません。私たちもまたかっては「悪者」であり、彼らと同じ罪を犯していました。神のあわれみによって悔い改めに導かれ、罪を赦され、救われ、きよめられ「正しい者」とされるのです。すべての者が神の前には罪人であり、ただキリストの救いによってのみ、神の前に「正しい者」として立つことができるのです。自分の正しさではなく、キリストによって与えられた正しさによってだけ、私たちは、神のもとに近づき(7節)、神の祝福を得る(12節)ことができるのです。 もどる

詩篇6篇 ダビデは、自分の身に起こった苦難を神の自分に対する怒りであると理解しています。ダビデの良心に咎めを感じるものが何かあったのでしょう。神は、あわれみ深いお方ですが、決して甘いお方ではなく、きよく、正しいお方であって、人間の罪、社会の悪を徹底して嫌われるお方であることをダビデは知っていたのです。だからこそ、ダビデは真剣になって「主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください。」と神に訴えたのです。神を甘く見ていたら、こんな真剣な祈りは生まれなかったでしょう。しかし、罪に対して怒り、それを裁くのは神ですが、罪人をあわれみ、それを赦すのも神です。ダビデは、「主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。」と、神にしがみつきます。神を恐れる者、神の怒りを、神の厳しさを知る者だけが、本当の意味で、神のいつくしみとあわれみとを深く知ることができるのです。 もどる

詩篇7篇 ダビデは、神を裁き主とし、その神に祈っています。ダビデは確かに自分の敵に対する報復を求めていますが、それを神の怒りにまかせています。もし、ダビデに神への信仰、神への祈りがなかったら、彼は、神の怒りにまかせることができずに、自分の怒りや恨みで敵に向かい、その結果はひどいものになったことでしょう。この世には現実に罪があり、悪があります。罪や悪は神の正義やきよさと相いれないものです。善と悪は妥協できない面を持っているのです。「正義は勝つ」などと言われますが、多くの場合、悪は強く、善は弱いのです。正しい者は祈り無しには、神の助け無しには悪に勝てないのです。それに、正しい者が救われるためには、悪い者が裁かれなければならないのです。神の悪への裁きは、神の救いのみさざの一部分であって、正しい神には裁きのない救いはなく、あわれみ深い神には救いのない裁きもないのです。ダビデの「報復の祈り」とも見える祈りも、その実際は、正しい者たちの救いを求める祈りなのです。 もどる

詩篇8篇 「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星をみますのに、人とは何者なのでしょう。」と、大宇宙にくらべて人間の小ささが描かれています。けれども、ダビデの驚きは、この世界の大きさと人間の小ささの比較にではなく、神の偉大さと神のあわれみの比較にありました。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」この広大な宇宙とその中にあるすべてのものを創造されたお方が、この世界の何者にもまさって人間に「栄光と誉れの冠」をかぶせてくださったということなのです。(5節)人間のすばらしさは、この宇宙を理解しそれを探究できることだけにあるのではありません。この宇宙を創造された方を知り、想い、賛美できることにあるのです。ギリシャ語で「人間」は「アンスローポス」と言い、それは「上を見る者」という意味があります。天を見上げ、月や星を見る時、その上におられる神を仰ぎ見ることができる、そこに人間の素晴らしさがあり、「人とは何者なのでしょう」という問いへの答えがあります。 もどる

詩篇9篇 聖書で言う「貧しい者」とは、経済的に貧しいというだけでなく、苦しみに会い、よるべのない人のことを言います。そのような人は、神以外に頼るものがないので、神の前にへりくだって歩みます。そして、神は「貧しい者の叫びをお忘れにならない」(12節)のです。神が、貧しい者を決してお忘れにならず、覚えていてくださる。—これこそが、「悩む者の望み」(18節)です。この世では、金銭も、権力も、能力もない人には希望がないと思われています。コネやツテを無くし、健康を損ない、社会的信用を無くしてしまったら、もう絶望しか残っていないと言われます。しかし、神を信じる者には、希望はなくならないのです。悩み、苦しむ者のよりどころは「希望」しかありません。神はどんな場合でも、貧しい者、悩む者、神により頼む者をお忘れになりません。だから、どんな場合でも、私たちは希望に生きることができるのです。 もどる

詩篇10篇 詩篇九篇と十篇は、もともと一つの詩篇だったようです。これらの詩篇はヘブル語の「いろは歌」になっていて、詩篇九篇はヘブル語のアルファベットの最初の文字「アレフ」で始まり、十篇の最後はヘブル語のアルファベットの最後の文字「タウ」で終っているからです。詩篇九篇と十篇に共通しているのは「神は忘れない」という主題です。神は、貧しい者を決して忘れず、そして、悪者のしたことも決して忘れないのです。神のあわれみと裁き、このふたつのテーマは、詩篇一篇以来、詩篇の全篇を通して、ここにも流れています。 もどる

詩篇11篇 詩篇10篇の悪者の言葉は、実は、まだそれが彼らの唇にのぼる前の「言葉」、心の中の思いでした。しかし、神の耳には、それらはもう、彼らの言葉として届いていたのです。11篇4-5節に「その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。主は正しい者と悪者を調べる。」とある通りです。心にやましいことがある時、人は、相手の顔を見ながら話すことができません。相手の目から、自分の目をそらせてしまいます。しかし、神を信頼する思いをもって歩んでいる正しい人は、神の目を見つめることができます。「直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」というのは、なんと素晴らしいことでしょう。 もどる

詩篇12篇 言葉の巧みな悪者がのさばり、寡黙な正しい者たちがしいたげられているのを、主は、いつまでもお許しにはなりません。主は、悩む人、貧しい人の声なき叫びを心に留めて「今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。」(5節)と言われます。主が、正しい者を救うと誓われた約束の言葉は決して地には落ちません。なぜなら「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(6節)だからです。うそとへつらいが横行しているこの時代、私たちは時として誰の言葉も信じられないような気持になることがありますが、主のおことばは、いつの時代にもかわらず真実で、純粋なものであることを覚えていたいものです。神は、どんな時代にも、神の言葉に頼る者たちを決してお見捨てにならず、うそとへつらいから救い出してくださるのです。 もどる

詩篇13篇 「主よ。いつまでですか。」これは、いつの時代も、神に頼る者たちが祈ってきた言葉です。ヨハネの黙示録に殉教者たちのたましいが「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示6:10)と叫んでいる様子が描かれています。主はこの叫びに対して、神は「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言われました。正しい者は、世の終わりまで苦しみ続けることが定められています。悪が栄えて、その頂点に達する時まで、私たちは「主よ。いつまでですか。」と訴え続けなければならないでしょう。神がこのようにさばきの時を遅らせておられるのは、神が正義に対して熱心でないとか、私たちに対して無関心であるとかということではありません。それは使徒ぺテロが言うように、主が「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(ぺテロ第二3:9)からです。神は、私たちに、最後の審判と救いの日まで、「主よ。いつまでですか。」と問いつづけることを求めておられるのかもしれません。 もどる

詩篇14篇 注意して読んでください。詩篇14:1は「愚か者は、『神はいない。』と言っている。」ではなく、「愚か者は<心の中で>、『神はいない。』と言っている。」と述べています。イスラエルの中で「神はいない」と公言するなら、国家から、社会から抹殺されてしまいます。ですから、こういう人たちは口では「神は偉大なるかな!」と唱え、宗教儀式を守っているのでしょうが、心の中では「神なんかいるものか。」と思っているのです。この人たちは、思ったことをそのまま口に出すような「愚か者」ではなく、自分を偽り、他の人をだますことができるほど「賢い人」なのですが、神は、神を否定する人を「愚か者」と呼びます。いったい、神が存在されなくてどうしてこの「私」が存在できるというのでしょうか。神を否定するひとは、物事の一番根本の原理すら理解していない「愚か者」なのです。 もどる

詩篇15篇 ここに掲げられているひとつひとつのことは、誰にも分かる平易なものです。まずは、自分自身に対して「偽りのない人」であることがあげられています(2節)。次に友と隣人に対して誠実をつくすこと(3節)、悪を憎むこと(4節)、不正な利益を求めないこと(5節)です。聖なる山で、神の幕屋で神をあがめ、礼拝する者は、その山から降りても、礼拝者にふさわしく、神の民にふさわしい歩みをすべきことが、ここから教えられます。そして、そのような正しい歩みを積み重ねて再び、聖なる山に登り、神の幕屋に入るのです。このことは、今日のクリスチャンにとってもまったく同じで、クリスチャンにとって、主の日の礼拝は、七日に一度づつ置かれた飛び石のようなものではなく、主の日と主の日の間の六日間は、主の日と主の日をむすぶ大切な日々で、礼拝で得たものを実践し、次の礼拝に携えていくべき信仰を耕やす日々なのです。私たちの幕屋である教会を、礼拝を終えて出ていく時に、再び、礼拝のため教会に集う時に、この詩篇はじっくりと味わうべきものです。 もどる

詩篇16篇 詩篇の中には、死後の世界にまで続く神の恵みを歌ったものが数多くあります。詩篇16篇でも「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」(10-11節)と、永遠の命の希望が歌われています。しかも、この詩篇の10節は、使徒行伝2:31に、キリストの復活の預言として引用されています。使徒行伝が言うようにダビデは死にました。しかし、彼に復活の希望を与えた神は真実で、「ダビデの子」であるイエス・キリストを詩篇の言葉どおりに復活させ、私たちに永遠の命を示してくださったのです。ダビデがいだいた復活の希望はキリストの復活によって成就し、私たちの永遠の命もキリストの復活によって保証されているのです。 もどる

詩篇17篇 「目の中に入れても痛くない。」とは、ちいさな者への愛情の表現ですが、神は「目の中に入れても痛くない」ほどに、私たちを愛していてくださっていると、聖書は言っています。申命記32:10に「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。」とあり、ゼカリヤ2:8に「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。」ともあります。目に何かが入ろうとすると、私たちは、瞬間的にまぶたを閉じて守ります。また、ひとみは、眉毛や睫毛で守られ、涙が絶えず流れて乾燥から守られています。神は、そのように私たちを、たいせつなものとして守ってくださるのです。 もどる

詩篇18篇 「主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救いだされた。彼らは私より強かったから。」(17節)というのは、興味深い表現です。私たちは、私たちを苦しめるものと戦ってはみるのですが、それが自分の手に負えないことを悟ると、やすやすとそれに降参してしまいます。しかし、ダビデは「敵が強いからこそ、私は、神の救いを信じて戦うのだ。」と言っています。ダビデはまだ若かったころ、巨人ゴリアテと戦いましたが、その時も「私は、…万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」と言いました。敵の強さを知り、自分の弱さを知っている、だからこそ主を呼び求め、主の力を受けて、敵に立ち向かっていくというのです。そして、ダビデは信仰によって敵に勝つ力を得ました。「あなたによって私は軍勢に襲いかかり、私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(29節)とある通りです。敵の強さにひるまず、自分の弱さに閉じこもらず、主によって強められて勝利していく、そのような信仰の生涯を歩みたいものです。 もどる

詩篇19篇 自然界からの声は、それを聞こうとしない人にとっては、無視して通れるものです。また、自然界の声は、神の偉大さを教えることはできても、私たちの人生のさまざまな問題に答えることはできません。そこで神は、第二の声として、ご自分のことばを文字に書き表すことができるものとして、私たちにお与えになりました。それが聖書です。聖書は「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」と呼ばれています(7-9節)。聖書は「完全」「確実」で「正しく」、「きよい」もので「不変」「真実」です。聖書は純金よりも価値があり、蜂蜜より甘く、私たちは聖書によって「たましいを生き返らせ」「賢くなり」「心を喜ばせ」「目を明るくする」ことができるのです。聖書によって私たちは「戒めを受け」、大きな「報いを受ける」のです。 もどる

詩篇20篇 詩篇20篇は戦いに出る王のための祈りのようです。敵に取り囲まれた時に、助けがあるように、そのはかりごとが成就し、勝利が与えられるようにとの祈りがあります。しかし、こうした祈りは、自分たちの思いどおりに諸国を平定できますようにとの祈りではありません。これは、たんに軍事力で敵を平らげて凱旋して帰ってこれるようにとの願いではなく、神により頼み、神のみこころを行うことができるようとの祈りです。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」(7節)とある通りです。 もどる

詩篇21篇 詩篇20篇が戦いに出る王のための祈りとするなら、21篇は戦いに勝利して帰ってきた王を祝福する祈りと言えるでしょう。20:4で「主があなたの願いどおりにしてくださいますように。あなたのすべてのはかりごとを遂げさせてくださいますように。」と祈られた祈りは21:2で「あなたは彼の心の願いをかなえ、彼のくちびるの願いを退けられません。」との賛美に変わっています。みこころにかなった祈りは必ず答えられます。嘆き祈ることがあっても、神がそれを聞き届けてくださる時、それは喜びの賛美に変わります。 もどる

詩篇22篇 主イエスは十字架の上で、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」と叫びました。主が十字架の上で語られた七つの言葉のほとんどは聖書からとられたもので、この言葉が詩篇22:1から来ていることは、誰もが認めるところです。主は十字架の上で「わたしはかわく。」とも言われましたが、それは、「わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。」(15節)との言葉から来ています。「悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。」(16節)とは、ローマの兵士が主イエスの両手、両足を十字架に釘付けしたことによって成就しています。ローマの兵士は「彼らは互いにわたしの衣服を分け。わたしの着物をくじ引きにする。」(18節)とのことばの通りに、ローマ兵はイエスの着物をくじ引きにしたのでした。「すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、『彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ』と。」(7-8節)との言葉は、主の十字架を取り囲んだ群衆がしたことを、そのまま言い表わしています。主イエスの時代の何百年も前に書かれた詩篇が主イエスの十字架をこんなにも精確に預言しているのは、実に驚くべきことです。 もどる

詩篇23篇 人間は羊のように愚かで迷いやすい存在です。人間にとって本当に必要なものが何であるか、それをどのようにしたら手に入れることができるかを知らないのです。また、人間は、自らを守るためと軍備を拡大して、自ら作った大量破壊兵器に脅かされています。それで聖書は人間を羊にたとえて「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。」(イザヤ53:6)と言うのです。羊に、羊を守り、導く羊飼いが必要なように、人間にも羊飼いである神が必要です。イエス・キリストは私たちの羊飼いとなってくださいました。羊飼が、羊とともに寝起きし、一匹、一匹の羊の声を聞き分けて、それぞれを導くように、キリストは私たちの生活のまん中にいて、私たちひとりびとりを導いてくださるのです。 もどる

詩篇24篇 7〜9節は、契約の箱がエルサレムに運び込まれた時のクライマックスを歌っています。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。栄光の王とは、だれか。」という言葉が二度繰りかえされています。答えは、契約の箱がその臨在をさししめしている「万軍の主」です。聖書に、ダビデは、契約の箱を迎える時、王の衣服を脱ぎ捨て、亜麻布のエポデをまとって、「力の限り踊った」(サムエル第二6:14)とあります。ダビデはエルサレムの王座にすわるべきお方は「主」であって、彼はそのしもべに過ぎないと、告白し、力いっぱい主をほめたたえたのです。私たちも、私たちの心に、生活に、人生に、主を、主として迎えたいものです。 もどる

詩篇25篇 この詩篇は22節あり、詩篇9篇と10篇と同じように、各節は、ヘブル語のアルファベットで始まっています。こういう歌を「アルファベットの歌」あるいは「アクロスティック」と言いますが、日本式に言えば「いろは歌」ということになるでしょう。しかし、この詩篇は、そのような技巧が凝らされていることをまったく感じさせないほど、自然な流れを持っています。最初の7節は「祈り」です。ダビデは、困難の中で神を待ち望み、神の導きを求めています。「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。」(4節)と言われている「道」とは、神の真理をあらわします。次の節で「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。」と言われていることから、それが分かります。人生で困難に出会った時は、いたずらに自分の計画を押し進めないで、ここにあるように神を待ち望み、神の導きを祈るのがなによりです。 もどる

詩篇26篇 神こそが本当の審判者です。しかし、このことが分からない人々は、平気で正しい人を中傷し、苦しめようとします。そのような時、神は正しい者の弁護人となってくれます。正しい者は、敵にむかって、「神よ、正しい裁きをしてください。」と祈るとともに、「私を弁護してください。主よ。」(1節)と祈ることができるのです。「不信実な人とともにすわらず、偽善者とともに行かない」人(4節)は、詩篇1:1で歌われている通り、ほんとうに、さいわいです。 もどる

詩篇27篇 人生に目的や目標を持つ人はさいわいです。ダビデは、「いのちの日の限り、主の家に住み、主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける」(4節)ことを心の願いとしました。現代はなによりも忙しい時代で、あれこれの活動に追われて、神ご自身を深く知ることの乏しい時代、またそのようなことに心を向ける人が少ない時代であるように思います。そういう風潮をもういちど考え直す時がきているように思います。 もどる

詩篇28篇 ダビデは「私の手をあなたの聖所の奥に向けて上げる」(2節)と言いましたが、イスラエルの神殿の聖所の奥には、何があったでしょうか。それは至聖所であり、その至聖所には契約の箱がありました。契約の箱は、神と神の民との契約のシンボルで、神が「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という神の約束を表わすものでした。ダビデは、このような神との契約の関係に訴えて「手を上げた」、つまり祈ったのでした。今日の私たちも、イエス・キリストによって立てられた新しい契約を覚えて、「イエス・キリストの名によって」祈るのです。 もどる

詩篇29篇 「聖なる飾り物」(2節)ということばは、大祭司が身につけた装束を連想させます。神の間近に出る大祭司は、純金の冠や宝石のちりばめられた胸あてなどの「聖なる飾り物」をつけていました。現代では、「聖なる飾り物」は何にあたるでしょうか。私たちの悔改めや信仰、そしてそこから生み出される愛や真実でしょうか。神を礼拝する時の霊的な身支度についても一考が必要です。 もどる

詩篇30篇 詩篇29篇では「聖なる飾り物」について触れられていましたが、詩篇30篇では「あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました」(11節)と、「喜びの着物」のことが書かれています。「喜び」もまた、神の前に出るのに必要な身支度のひとつでしょう。しかし、この喜びは、自らつくり出すものではなく、神が与えてくださるものです。「あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました」とある通りです。神の救いを喜ぶことこそ、私たちにできる最高の身支度です。 もどる

詩篇31篇 「真実」−それは尊いものですが、なかなか見つけることができません。世の中にはあまりにも多くの「不真実」があり、「みせかけ」があります。人間の罪は、愛や親切さえも不純なもの、偽りのものに変え、一番たいせつな神や信仰についてさえ、偽りの神々や誤った教えを作りだし、広めているのです。そのような中で、「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。」(5節)ということばは、光を放っています。信仰とは、神の真実に、私たちの真実をもってこたえることです。私たちの真実は、神の真実とは違って欠けがあるかもしれませんが、精いっぱいの真実でこたえる時、神の真実が、真実な神が、私たちを恵みでおおってくださるのです。 もどる

詩篇32篇 詩篇には「幸いなことよ。」ということばが繰り返し出てきますが、この詩篇では、罪のゆるしの「幸い」が歌われています。主の祈りで、「日毎の糧」を祈ると共に、私たちは「我らの罪をも赦したまえ」と、罪のゆるしを願い求めます。罪のゆるしは、日毎に祈り求め、それを得、罪ゆるされた幸いを味わうべきものなのです。「正しい者たち。主にあって喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」(11節)とあるように、それを喜び、楽しみ、声をあげて神をほめたたえるべきものなのです。 もどる

詩篇33篇 33篇の1節は「正しい者たち。主にあって、喜び歌え。」と言っています。32篇の最後に「正しい者たち。主にあって喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。」とあったのを受けて、そう言っているようです。確かに、賛美は、罪のゆるしから来ます。神は、罪を犯したことのない天使たちによって賛美されているお方ですが、同時に、罪赦され、贖われた人間の賛美を受け入れてくださるお方です。贖いや赦しを体験していない天使たちよりも、それを体験している人間のほうが、ある意味では、ほんとうの意味で、神を賛美できるのかもしれません。 もどる

詩篇34篇 この詩の表題には「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気違いを装い、彼に追われて去った時」とあります。この時、ダビデはサウル王から逃れて、イスラエルの敵国あったペリシテの地をさまよっていたのです。その時のダビデは、あらゆる面で一番苦しい状況にありました。しかし、その時でも、ダビデは主をほめたたえました。「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」(1節)とは、素晴しい信仰の告白です。私たちも「あらゆる時に」「いつも」神をほめたたえましょう。なぜなら、神は「すべての恐怖」「すべての苦しみ」「すべての悩み」から救い出してくださるからです。 もどる

詩篇35篇 「主よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。」(1節)とはずいぶん自分勝手な祈りに聞こえます。強引に神を味方につけようとしているようにも聞こえます。しかし、この詩全体を読んでいくとそうでないことが分かります。ここでダビデは敵によってさんざん苦しめられ、神以外に助けを求めるところがなく、ひたすらに神に頼っているのです。また、彼は、神が憎むものを憎み、神が愛するものを愛してきました。ダビデは常に、神の味方として生きてきたので、苦しみの日に、神を味方として呼び求めることができたのです。 もどる

詩篇36篇 5〜6節に、神の「恵み」「真実」「義」「さばき」が、天よりも高く、山よりも堅固で、海よりも深いと歌われています。神の「恵み」「真実」「義」「さばき」のどれも、詩篇に、また聖書全体にくりかえし出てくる大切なことばです。私たちはこれらのことばを、たんなる「単語」としてだけでなく、その内容の高さ、豊かさ、深さを学び、思い見、そして、生活に生かしたいと思います。 もどる

詩篇37篇 詩篇のいたるところでは、「悪者」と「正しい者」が比べられていますが、ここでも「悪者」と「正しい者」とが何度も何度も比較されています。しかも、一時だけの比較ではなく、もっと長い期間、その人の生涯全体を見て比べられています。一時的に見れば、悪者が栄え、正しい者が苦しめられているように見え、正しい者が悪者に対して腹を立て、ねたみを起こすようになってしまいます。そのような落し穴に陥らないためにも、神の目で人生をみつめておきたく思います。 もどる

詩篇38篇 「人生は重き荷を負うて坂道を登るがごとし」ということばがあるように、私たちの人生にはさまざまな重荷があります。経済的な重荷、健康の重荷、家庭の重荷などさまざまありますが、それらの重荷さえも、私たちの心が強ければ、それがかえって人生のバネになり、大きな飛躍ができる場合もあるのです。私たちを駄目にしてしまうのは、私たちの心を駄目にしてしまう「罪」や「咎」です。罪や咎が私たちを襲う時は、この詩篇のように、ひたすらに神に救いを求めることです。 もどる

詩篇39篇 「あなたは私の日を手幅ほどにされました。」(5節)とは、人の生涯のむなしさを表わしたものです。人生の70年、80年も、神から見れば片手で計かることができるほどのものにすぎないというのです。この人生のむなしさを克服するのは、まことの神への祈り以外にありません。「私の祈りを聞いてください。主よ。」という祈りが、私たちの人生を生かすのです。 もどる

詩篇40篇 「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。」(8節)ということばは、「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。」(6節)ということばにつながっています。神が喜ばれるのは形式的な犠牲ではなく、みこころを行うことであるというのです。みこころを行うことは、どんな表面的なもの、形式的なものにまさるのです。 もどる

詩篇41篇 この詩は、病いの時の祈りとして知られています。「主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。」(3節)とあるように、病気の時、ほんとうの意味で私たちをささえるのは、いやし主である神です。神が私たちのこころを支えてくださらなければ、誰も病気と闘うことはできないからです。 もどる

詩篇42篇 「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」(2節)とありますが、すべてのものに命を与えておられる神は、どんな場合でも「生ける神」ではないのでしょうか。確かにそうですが、この詩を歌った人にとっては、他の人から「おまえの神はどこにいるのか。」と言われるように、神は彼のうちに生きておられるお方として体験できなかったのです。「おまえの神はどこにいるのか。」と言われ、「私のうちにおられる。私のうちに生きておられる。」と答えることができる者になりたいと、この詩の作者は願っているのです。 もどる

詩篇43篇 この詩は、もともとは、42篇とひとつだったようです。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。」ということばが、42篇と43篇を通して繰り返されているからです。詩人は、「わがたましいよ」と自分で自分に呼びかけ、自分を励ましていますが、それができるのは、彼が神を信じる者であったからです。信仰にある自分が、絶望の中にあるみずからを励ましているのです。神を信じる者は、このように自分自身を保つことができるのです。 もどる

詩篇44篇 「セラ」を区切りに、9節からは「それなのに、あなたは…」と、急に詩の調子が変わっています。詩人は、過去の神の恵みにくらべて現状のみじめさを訴えているのです。けれども、それは「昔は良かった」という回顧趣味でも、自己憐憫でもありません。詩人は「あなたの恵みのために私たちを贖い出してください。」(26節)と、昔も今も変わらない主が、同じ恵みで救いを送ってくださることを信じて祈っているのです。 もどる

詩篇45篇 「神よ。あなたの王座は世々限りなく…」(6節)という箇所はヘブル1:8で、キリストをさしていることばとして引用されています。この詩は、イスラエルの麗しさを歌ったものですが、同時に、まことの王であるキリストへの賛歌となっているのです。「王妃」や「王の娘」は、教会やクリスチャンをさすと考えて良いでしょう。「麗しい王」が私たちの霊的な「美」を慕ってくださいます。私たちは、キリストの麗しさを表わすような霊的な美しさを内面に持ちたいものです。 もどる

詩篇46篇 この詩は9・11の時に引用された詩です。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。」(1-2節)とのことばは大いに人々を励ましました。この励ましを受けた者たちは「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」(10節)と言われる神の前に厳かな気持で出るべきです。私たちの信頼の基礎が神にあることを心に刻みつけるべきです。 もどる

詩篇47篇 歌は、私たちの心を慰め、励まします。人々の心をひとつにします。しかし、歌は、それによって神をほめたたえる時、最もすばらしい役割を果たします。クリスチャンはどの宗教の人にも勝って神への賛美の歌を歌います。6-7節に「ほめ歌を歌え」ということばが繰り返されているように、それは、クリスチャンの勤め、喜ばしい勤めだからです。 もどる

詩篇48篇 この詩は、神殿のある神の都エルサレムのことを歌っていますが、エルサレムが特別な町であるのは、その中に神の宮があるからです。神殿が特別な場所であるのは、そこで神がご自分を示してくださるからです。「神よ。私たちは、あなたの宮の中で、あなたの恵みを思い巡らしました。」(9節)というのは、まさに、その神殿でなすべき中心的なことがらです。神への礼拝、それが中心となって神の都エルサレムは栄えるのです。私たちの人生もそうありたいものです。 もどる

詩篇49篇 詩人は「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。」(8節)と言いながら、「神は私のたましいをよみの手から買い戻される。」(15節)と言い切っています。キリスト以後に生きている私たちは、キリストがそのいのちを私たちの贖いにしてくださったことを知っています。キリストの復活のゆえに、永遠の命が確かなものとなったことも知っています。この詩をはじめ、旧約のなかにある永遠の命の希望は、キリストによって実質を与えられたのです。 もどる

詩篇50篇 神が私たちに求められるのは、外面的、形式的な礼拝ではありません。神は、「いけにえのことで、あなたを責めるのではない。」(8節)と言っています。人々は外面的には落度がなく、形式的にも、問題がなかったのです。しかし、そこにささげられたものには心からの感謝や、内側からの助けを求める祈りがありませんでした。表面は立派でも、背後では問題だらけの生活をしているのです。神の喜ばれるいけにえが何であるかを知りましょう。それが「感謝のいけにえ」と「正しい行い」であることを覚えましょう。 もどる

詩篇51篇 詩篇50篇で、神は外面だけのものを喜ばれないと言われていましたが、ここでは、「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(17節)と宣言されています。神の前に、言い訳けも、虚勢もなく、へりくだって悔い改める心、それこそが最高のいけにえであると歌われています。この内面のいけにえがあってこそ、目に見えるいけにえも神に受け入れられるようになるのです(19節)。 もどる

詩篇52篇 ダビデは、悪者との比較で、神に頼るみずからの幸いを「しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」(8節)と言っています。これは、一見して思い上がったことばのようですが、ダビデは、「私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。」(9節)と言って、自らの幸いが、神の恵みから来ていることを感謝しているのです。謙虚になることは、今ある幸いを喜ぶことを妨げるものではありません。 もどる

詩篇53篇 神を信じない者は、「神はいない。」と言いますが、それは「心の中」でのことです(1節)。イスラエルでは、無神論は認められませんから、公然と「神はいない」と言うことはなくても、「心の中で」神を否定することはあり得たのです。表面では神の民としてふるまいながら、その心では神を否定し、まことの民を食いつくそうとしています。しかし、そのような人物は結局「愚か者」であり、愚か者として滅びるのです。 もどる

詩篇54篇 ダビデは「御名」によって、「権威によって」(1節)、「真実をもって」(5節)、救いを呼び求めています。神の御名に頼り、神の権威を求め、神の真実に生きてきたダビデであればこそ、このように祈ることができたのでしょう。 もどる

詩篇55篇 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。」(22節)という部分は、新約に引用され、多くの人を慰めることばとなっています。神が、まるで、母親が子どものことを心配するように、細やかな愛情をもって心配してくださるというのは、心配ごとの多い私たちには大きな慰めです。 もどる

詩篇56篇 苦しみの日にこそ、信仰の真価が試されます。ダビデは「恐れのある日に、私はあなたに信頼します。」(3節)と言っていますが、主に信頼する時、「私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。」(4節)との確信を得ることができるのです。 もどる

詩篇57篇 親鳥は雛鳥をその翼で覆って外敵から守ります。そのように、神も、神に信頼する者を守ってくださいます。詩篇17:8には「御翼の陰に私をかくまってください。」、詩篇36:7には「人の子らは御翼の陰に身を避けます。」とありました。ダビデは「御翼の陰」を常に意識していました。私たちもそうありたく思います。 もどる

詩篇58篇 「正しい者は、復讐を見て喜び、その足を、悪者の血で洗おう。」(10節)というのは、ブドウ酒を作るときに、酒ぶねでブドウを足で踏みつける様子から来たことばです。黙示録にはキリストについて「この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」(黙示19:15)と言っています。今は、正義も悪も入り混じった時代で、正しい者たちが踏みつけられ、「神はどこにおられるのか」という声が聞こえていますが、やがて、神の審判が成就し、人々が「まことに、さばく神が、地におられる」と叫ぶ時がやってくるのです。 もどる

詩篇59篇 悪者はきまって暗闇で悪いことをします。しかし、正しい人は、朝の光と共に神を賛美します。「まことに、朝明けには、あなたの恵みを喜び歌います。」(16節)とあるとおりです。新約には「私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。」(テサロニケ第一5:8)とあります。昼の者、光の子どもとして、光に向かって歩みましょう。 もどる

詩篇60篇 この詩は表題によると、エドムに対して勝利を得た時の歌とされています。ダビデは、エドムとの戦いに不安を持っていたようで、この詩では、ひたすらに神の助けを求めています。「どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。」(11節)と、自分の力に頼らず、神に信頼しました。ダビデの勝利の秘訣は、このような信仰と祈りにあったのです。 もどる

詩篇61篇 心が衰え果てるとき、私たちは、神から遠く離れ、地の果てにいるような気持になるものです。それで、ダビデは「私は地の果てから、あなたに呼ばわります。」(2節)と祈っています。地の果てからのダビデの願いは「あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避ける」(4節)ことでした。神に近付き、神と共にあること、これが私たちの願いでありたいものです。 もどる

詩篇62篇 「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」(1節)と、ダビデは言います。神を待ち望むのは、単に我慢することとは違います。そこには、希望があります。「私の望みは神から来るからだ。」(5節)とあるとおりです。いたずらに動き回ることが将来を切り開くのではありません。「待ち望む」ことが将来を開くのです。 もどる

詩篇63篇 「いのちより大事なものはない」とは良く言われます。ところが、いのちよりまさるものがあります。それは神の恵みです。私たちのいのちは、神の恵みによってささえられているのですから、神の恵みはいのちにまさるのです。この恵みを知る者は、神を「あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。」(3節)と言うことができます。 もどる

詩篇64篇 悪者は常に言葉で人を攻めます。「彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。」(3節)とあるとおりです。しかし、神はそれに報い、「矢を彼らに射掛けられ」(7節)ます。苦いことばの矢は、やがて自分のところに戻ってくるのです。 もどる

詩篇65篇 神への礼拝には「静けさ」と「賛美」の両面があります(1節)。神への賛美は、声をあげ、楽器を鳴らし、からだを動かしてささげます。しかし、それと共に静かに神を思い見、神のことばに耳を傾ける面があります。このふたつが噛みあう時、礼拝は豊かなものとなるでしょう。 もどる

詩篇66篇 「神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は川の中を歩いて渡る。」(6節)という表現はエジプトを出て約束の地に入った時のことをさしていると思われます。「私たちは火の中を通り、水の中を通りました。」というのは、おそらくバビロン捕囚をさしているでしょう。救いの時も、困難の時も、主が共にいてくださったことを、詩人は感謝し、「さあ、神を恐れる者は、みな聞け。神が私のたましいになさったことを語ろう。」(16節)と、神の恵みをあかししています。「あかし」とは、自分の良いところだけを見せるものではなく、あるがままの神のみわざを語ることなのです。 もどる

詩篇67篇 神の民への祝福は、神の民だけが繁栄することだけで終わりません。救いが神の民からはじまって「すべての国々の間に知られ…国々の民がこぞって神をほめたたえる」ためなのです。神の民は、みずからの救いのためだけではなく、彼らを通してもっと多くの人々が救われるために選ばれたのです。「自分たちだけが救われる」という誤った選民意識を捨て、神の民本来の使命にたちかえりましょう。 もどる

詩篇68篇 神は「聖なる所におられ、恐れられる方」(35節)です。しかし、同時に神は「みなしごの父、やもめのさばき人」(5節)であり、「日々、私たちのために重荷をになわれる」(19節)お方です。神の優しさは、その力にささえられており、その力は、優しさを通して私たちに働きます。ほんとうに、「ほむべきな。」と、神を賛美せずにはおれません。 もどる

詩篇69篇 主イエスは「心の貧しい者は、幸いです。」と言われましたが、ここにも「心の貧しい人たちは、見て、喜べ。」(32節)とあります。ここで「心の貧しい者」とは、「神を尋ね求める者たち」(32節)「主のしもべ」「御名を愛する者」(36節)であることがわかります。 もどる

詩篇70篇 ここでも、「心の貧しい者」が「あなたを慕い求める人」「あなたの救いを愛する人たち」(4節)と言われています。「心の貧しい者」とは、文字通りに「悩む者、貧しい者」(5節)ですが、たんに貧しいだけでなく、自分の貧しさを知り、それゆえに神の恵みを求める人のことをさすのです。 もどる

詩篇71篇 老いていくということは、寂しいことです。以前は出来たことができなくなり、かつては大勢いた友を失い、孤独を味わいます。しかし、年老いた時も、しらがになっても、神は、神に頼る者を見放さず、捨てません。神に頼る者は、神が若い時から支え、導いてくださったことを思いかえし、いよいよ神を賛美するのです。 もどる

詩篇72篇 ここには王のための祝福の祈りがしるされています。そして祝福された王とは、たんに権勢を誇るだけでなく、悩む者、貧しい者を救う者であることが強調されています。上に立つものは、いつしか庶民感覚を失い、貧しい人々を忘れがちです。上に立つ人がそうならないよう、私たちも祈る責任があります。 もどる

詩篇73篇 「なぜ悪人が栄えるのか」─これはいつの時代にも正しい人々を悩ませてきた疑問です。この詩人もそのことで悩んでいますが、容易にその答えを見つけることはできませんでした。その答えは人間の世界にはなく、「神の聖所」でしか見つけることができませんでした。詩人は、悪人の滅びだけでなく、正しい者の救いを確信してこの詩を結んでいます。神を求める者は、疑問符「?」が感嘆符「!」となるのを体験するのです。 もどる

詩篇74篇 この歌は、バビロンによって神殿が破壊され、エルサレムが廃虚となった時のことを歌っています。苦しみの意味や目的を了解することができても、いつまでこの苦しみに耐えなければならないのかと思うと、私たちは忍耐をなくしてしまいます。詩13篇に「主よ。いつまでですか。」との叫びがありましたが、ここでも「神よ。なぜ、いつまでも拒み、あなたの牧場の羊に御怒りを燃やされるのですか。」(1節)「神よ。いつまで、仇はそしるのでしょうか。」(10節)との悲痛な叫びがあります。この叫びにも神は答えてくださいます。 もどる

詩篇75篇 詩74篇で、詩人は「いつまで…」と、神にむかって叫びましたが、この詩で、神は「わたしが、定めの時を決め、わたしみずから公正にさばく」(詩1:3)と答えておられます。神は私たちためのために時を定めてくださるお方です。それは神が時を越えて永遠のお方だからです。この神をほめたたえましょう。 もどる

詩篇76篇 ここでは、神は全地をさばく、恐ろしい方として描かれています。地の王たちはさばきの時を思って恐れおののいています。しかし、「貧しい者たち」にとっては、その時は救いの時です(9節)。力ある者たちが恐れおののく時、神に頼る者たちが喜び歌うことができるというのは、なんと素晴しいことでしょう。 もどる

詩篇77篇 苦難の日に、詩人は、思い煩いを捨て、神のわざを思いめぐらし、神のみわざを静かに考えました。そして、神の道が「聖」であり、神のように大いなるお方がないことを見出します。「思い起こし」「思い巡らし」「静かに考える」ことから、神への賛美が生まれてくるのです。 もどる

詩篇78篇 詩人は、神の恵みを思い起こすとともに、ここでは神の民の罪を振り返り、同じ過ちを犯さないようにと、次世代の人々に教訓を残しています。この詩に出てくる「それなのに」「にもかかわらず」(17、32、56節)などのことばは、神の民の頑迷さを表わしていることばです。けれども、この詩には「しかし」(23、38、52節)ということばも繰り返され、神の民の罪にもかかわらず、その民をあわれみ、赦し、導いてくださった神の恵みが歌われています。私たちの希望は、この「しかし」にあります。 もどる

詩篇79篇 詩78篇は出エジプトからダビデまでの神の導きを歌っていましたが、この詩では「国々は、ご自身のものである地に侵入し、あなたの聖なる宮をけがし、エルサレムを廃虚としました。」(1節)と、エルサレム陥落を歌っています。そして、今のみじめな状況は、みずからの罪によって引き起こされたものなので、イスラエルは、自分たちの正しさや功績に訴えて救いを願うことができないので、「御名の栄光のために」「御名のために」(9節)助けと救いと罪の赦しを願っています。「御名を呼ぶ」「御名によって祈る」こと以外に罪人の救いはないのです。 もどる

詩篇80篇 主イエスは「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15:5)と言われましたが、ここにも、神の民がぶどうの木にたとえられています。神がエジプトから持ってきて植えたぶどうの苗が大きく育ったのに、火で焼かれ、切り倒されました。しかし、神は、決して切り倒されることのない、まことのぶどうの木であるキリストを私たちに与えてくださいました。「このぶどうの木を育ててください。」との叫びが神に届いたのです。 もどる

詩篇81篇 雛鳥は、口を大きくあけて、親鳥が運んでくる餌を受け取ります。雛鳥は、親鳥に依存しながら、成長していきます。神の民も、同じように神への信頼によって強く、大きくなっていくのです。神は「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」(10節)と言われたのに、イスラエルは、神ならぬ神々に頼り、思うがままに歩んだのです。私たちを生かし、満たすお方は「わたしが、あなたの神、主である。」と言われるお方以外にありません。 もどる

詩篇82篇 諸外国に、あるいは、横暴な人々に支配されている神の民のために、詩人は「神よ。立ち上がって、地をさばいてください。」と祈っています。詩人は、そう祈る根拠が、神の全世界に対する主権にあることを知っていました。「すべての国々はあなたが、ご自分のものとしておられます。」(8節)このことを信じる者は、正しい者がどんなに翻弄されても、神にあって希望を持つことができるのです。 もどる

詩篇83篇 四方を敵に取り囲まれ、国家の存在さえ危うくなったイスラエルのために、詩人は、神の救いを祈り求めています。敵について「彼らを吹きころがせる枯れあざみのように、風の前の、わらのようにしてください。」(13節)と祈っていた詩人は、最後には「主よ。彼らがあなたの御名を慕い求めるようにしてください。」(16節)と祈るようになっています。神がすべてのものの上におられるお方であることを示すこと、それが神の民の目的であるからです。 もどる

詩篇84篇 この詩は、詩篇の第三巻の中でも、とりわけ明るい、輝くような詩となっています。「まことに、神なる主は太陽です。盾です。主は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。」(11節)との宣言はヤコブの手紙1:17〜18を思い起こさせます。神を信じる者たちが、神の光の中を歩む幸いを味わうことができますように。 もどる

詩篇85篇 「主よ。あなたは、御国に恵みを施し、ヤコブの捕らわれ人を、お返しになりました。」(1節)とあるように、この詩は、捕囚から帰ってきた人々の喜びを歌ったものです。神が回復してくださったイスラエルでは、「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。」(10〜11節)と言うことができるほど、神の恵みがあふれ、義が支配していました。しかし、地上の国ではそれは完全ではなく、イスラエルはふたたび、他国の支配に陥り、滅ぼされてしまいました。しかし、キリストによって立てられる永遠の御国では、神の恵みと義がとこしえに支配するのです。 もどる

詩篇86篇 「私は苦難の日にあなたを呼び求めます。あなたが答えてくださるからです。」(7節)とは、詩50:15への応答の祈りです。「私の心を一つにしてください。」(11節)との祈りは、思い煩いから解き放たれて、ひたすらに神に頼る信仰を求める祈りです。思い煩うとは、実に、心をバラバラにすることなのです。私たちの心が神にむかって一つになる時、神は私たちとひとつになってくださるでしょう。 もどる

詩篇87篇 イスラエルが捕囚から帰ってくる時には、すでに世代が交替していて、ほとんどがバビロンやペルシャで生まれていました。人々は外国生まれというコンプレックスを持っていました。しかし、神を信じる者は、「だれもかれもが、ここで生まれた。」「この民はここで生まれた。」と言われるのです。信仰者は、どこの国で生まれようが、霊的には神を父とし、神の国に生まれ、共通の父なる神と、母なるふるさとを持つのです。 もどる

詩篇88篇 「私のいのちは、よみに触れています。」(3節)というのは、瀕死の状態を表わしています。ヨブがそうであったように、愛する者や友は、詩人から離れ去りました。しかし、神は、祈る者を見捨てません。「朝明けに、私の祈りはあなたのところに届きます。」(13節)との確信が、詩人を支えています。 もどる

詩篇89篇 この詩ではダビデとの契約に訴えての祈りがあります。契約は、それによって私たちが神に訴えるようにと、神が与えてくださったものです。イスラエルは「契約の民」と呼ばれますが、神との契約をよりどころとし、それに基づいて神に近づいたからです。今日のクリスチャンは、キリストによる新しい契約を持っています。その契約に基づいて神に近づく人はさいわいです。 もどる

詩篇90篇 「私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。」(12節)とは、人生の残り時間を数えるということでしょう。短い人生をただ虚しく過ごすのでなく、神のあわれみを求め、その人生を喜びと確かなもので満たされたものにしていただく知恵を得ることです。その時、わたしたちは、人生は短く、はかないだけのものでないことを知るでしょう。 もどる

詩篇91篇 「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。」(詩50:15)とのことばに続いて、ここでは「彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。」(15節)という約束が繰り返されています。この神の約束を信じて、私たちも神の御名を呼び求めましょう。 もどる

詩篇92篇 詩91篇では、神に信頼する者は親鳥に守られた雛鳥にたとえられていましたが(詩91:4)、ここでは、「なつめやしの木」や「レバノンの杉」にたとえられています。「年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。」(14節)と歌われています。その秘訣は、それらが「主の家」に植えられ、「神の大庭」で育てられるからです。神のことばという水と養分、神の恵みという光を浴びて、神に頼るものの人生は、最後まで成長し、実を結ぶ人生となるのです。 もどる

詩篇93篇 神のご性質のすべては「聖なる」ということばで形容することができます。神の愛は「聖なる」愛であり、神のあわれみも「聖なる」あわれみです。神はご自身を「聖なる方」として示しておられます。「聖なること」は、神のご性質の本質にかかわることであると言ってよいでしょう。ですから、聖なる神は私たちにも「聖なる者」となるよう求められるのです(レビ記11;44〜45、ぺテロ第一1:15〜16)。「聖なることがあなたの家にはふさわしいのです。」(5節) もどる

詩篇94篇 神は見ない、神は気づかないとうそぶく者たちに、詩人は、「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。」(9節)と手厳しく語ります。神の目にはすべてのことを見ておられるということは、神にさからう者には恐ろしいことです。しかし、神を信じる者には、なんという安心でしょうか。神に目を注ぎ、神に耳を傾ける人は幸いです。 もどる

詩篇95篇 神への賛美の歌の中に突然のように、「きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(8節)との戒めのことばが、しかも「あのとき、あなたががたの先祖たちはすでに<わたし>のわざを見ておりながら、<わたし>を試み、<わたし>をためした。」(9節)と、神ご自身のことばとして書かれています。この詩の全体にそぐわない終結部分のように見えますが、これは「賛美に酔いしれるのでなく、神のことばをしっかりと耳を傾けよ。」との神からのメッセージなのかもしれません。 もどる

詩篇96篇 祭司たちは、特別な装束を身につけて神を礼拝しましたが、一般の礼拝者にとって、神を礼拝するときの「聖なる飾り物」とは何でしょうか。礼拝に出る時、服装を整えることも大切なことですし、生活を整えることも「聖なる飾り物」となるでしょう。しかし、最も大切なことは、「新しい人を着る」こと、そこから与えられるさまざまな徳を身につけること(コロサイ3:9〜10、12〜14)、もっと言えば「キリストを着る」(ローマ13:14)ことなのです。 もどる

詩篇97篇 神を信じることは、神を恐れることばかりでなく、神を喜ぶことに、その本質があります。詩人は、「地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。」(1節)と言っています。この全地の喜びに、「ユダの娘たち」(8節)、つまり、神を信じる者たちも「こおどり」するのです。思わずからだも踊りだすほどの喜び、それを味わう人は幸いです。 もどる

詩篇98篇 詩人は、神への賛美を、「全地よ。主に喜び叫べ。」(4節)と、あらゆるものに呼びかけています。立琴、ラッパ、角笛ばかりでなく、川も手拍子をたたき、山も歌うのです。神への賛美が、あらゆるものによってささげられるのなら、神を礼拝する者も、その人のうちなるすべてのものによって、神を賛美するのです。 もどる

詩篇99篇 「われらの神、主は聖である。」(9節)とは、「神は愛である。」(ヨハネ第一4:16)「神は真実である。」(コリント第一1:9)と並ぶ、大切なことばです。神が、どんな腐敗も汚れも持たない、純粋なお方であること、それを覚える時、私たちの歩みも聖なるものとされていきます。この偉大な宣言を忘れないようにしましょう。 もどる

詩篇100篇 礼拝の喜びは、「知れ。主こそ神。主が私たちを造られた。」(3節前半)と、神を知ることの幸いにあり、また、「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」(3節後半)と、自分が主のものであることの幸いを喜ぶことにあります。礼拝は、歯をくいしばって神をあがめるものではなく、神にあるみずからの幸いを十分に味わい、うれしく、楽しく、神に感謝を、賛美を、ささげずにはおれないというものなのです。あなたは、この礼拝の喜びを、味わっていますか。 もどる

詩篇101篇 「朝ごとに、私は国の中の悪者をことごとく滅ぼします。」(8節)というのは、ダビデの、王としての決意を語ったものです。悪や不法が主の都にあってはならないからです。このことは、聖霊が住まわれる、神の宮とされたクリスチャンにも真実です。神の宮である自分の内面から卑しいこと、曲がったわざ、曲がった心、そしり、高ぶる目、誇る心、欺き、偽りを追放しようとする決意が必要です。それは自分の力ではできませんが、聖霊がそれをしてくださるとの信仰によって可能なのです。 もどる

詩篇102篇 この詩の表題は「悩む者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの」とあります。この世には、程度の差はあっても、悩まない人はいませんし、気落ちしない人はいません。問題は、悩む時、気落ちする時、その嘆きをどこに持っていくかです。それを「主の前に注ぎ出す」人は幸いです。神は「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされない」(17節)お方で、その嘆きを受け止め、それに答えてくださるからです。 もどる

詩篇103篇 「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(2節)とありますが、ここで、「主の良くしてくださったこと」の中心にあるのは、「主は、あなたのすべての咎を赦し」(3節)とあるように、罪の赦しにあります。「主は…私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。」(10節)とありますが、神の寛大な取り扱いによって、はじめて私たちは神の前に立つことができるのです。罪の赦しの恵みをいつも心に刻みましょう。 もどる

詩篇104篇 103篇では、私たちの人生に対する神の恵みが歌われていましたが、104篇では、自然界に対する神の力が歌われています。「あなたがお与えになると、彼らは集め、あなたが御手を開かれると、彼らは良いもので満ち足ります。」(28節)ということばは、動物だけにではなく、私たち人間にもあてはまります。私たちも、神の御手で生かされ、満たされます。この神に向かって「私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。」(33節)と祈りましょう。 もどる

詩篇105篇 105篇と106篇は、歴史における神のみわざをふりかえって、神を賛美しています。ここには創世記と出エジプト記にしるされた神の約束と救いが歌われています。神は、自然界を通して私たちに語りかける共に、歴史を通して、とりわけ、神の民の歴史を通して、救いのみわざを示していてくださいます。私たちは、聖書にしるされた神の民の歴史の中から、それを学んでいます。 もどる

詩篇106篇 106篇は、出エジプト後の神の民の不従順を歌っています。神の力ある救いを体験しながら、不従順に陥った神の民を、神は見捨てないで導き続けてくださいました。神の民が叫びの声を上げたとき、「彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた」のです。どんな苦しみの中でも、神の恵みとあわれみによりすがり、そこから叫びの声をあげようではありませんか。 もどる

詩篇107篇 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(1節)と、こころから歌うことができるのは、いったいだれでしょう。それは「主に贖われた者」です。自分の罪を知り、惨めさを知り、そして、その中から救いを叫び求めた者だけが、本当の意味で、神のいつくしみと恵みを知ることができるのです。詩篇は、すべての人に共感を与える歌ですが、それを最も良く味わうことができるのは、やはり、「贖われた者」でしょう。 もどる

詩篇108篇 偉大な仕事をなしとげた人々の多くは、「あの人なら、あれだけのことができて当然だ。」と言うことができるような人々でなく、それぞれに弱さをもっていたり、境遇に恵まれなかった人々が多いように思います。しかし、それらの人々はハンディを克服して、大きな仕事を成し遂げています。特にクリスチャンの場合は、「神によって、私たちは力ある働きをします。」(13節)ということばのとおり、信仰によって、神の助けを受けてそれをしていることがわかります。 もどる

詩篇109篇 「人をのろわば穴二つ」という諺がありますが、聖書も「彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました。」(17節)と言っています。人をのろう者はそののろいが返ってくるだけでなく、人を祝福しない人からは、神の祝福はその人から遠ざかっていくのですしかし、主に信頼する人には、主はのろいにかえて祝福をくださいます(28節)。神の祝福に生きる人は、人を恐れることなく、人々に神の祝福を分け与えながら生きることができるのです。 もどる

詩篇110篇 この詩にある「メルキゼデク」は、キリストを表わしています。大祭司は、その死によってつとめを終えるのですが、キリストは「メルキゼデク」のように永遠に大祭司です。私たちの預言者であり、王であるキリストは、私たちの大祭司でもあって、キリストによって神に近づく者たちのためにとりなしをしてくださるのです。このことはヘブル人への手紙七章にくわしく説明されています。 もどる

詩篇111篇 神を信じる者は、同じように神にむかって正直な人々と共にいることをよろこびとします。それによって神への賛美がよりいっそう強められるのです。「私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。」(1節)神を信じる幸いとともに、神を信じる者たちが共につどう幸いを味わいましょう。 もどる

詩篇112篇 人に暖かく、自分に厳しくあることは、言うのはたやすいかもしれませんが、実行するのは難しいことです。しかし、「主を恐れる人」はそのことができるのです。「しあわせなことよ。情け深く、人には貸し、自分のことを公正に取り行なう人は。」(5節)とある「しあわせ」を知らないのは、「主を恐れる」こと(1節)、「主に信頼する」こと(7節)を知らないからではないでしょうか。 もどる

詩篇113篇 ここにも、偉大な神が身を低くして、弱いもの、貧しいものをあわれんでくださる姿が描かれています。私たちの神が他のどんな「神々」とも違っているのは、その偉大な栄光だけではなく、その深いあわれみによるのです。神のあわれみを体験した者だけが「だれが、われらの神、主のようであろうか。」(5節)と驚きの叫びをあげることができるのです。 もどる

詩篇114篇 モーセが杖をあげると、海は分かれ、ヨシュアによってイスラエルの民がヨルダン川を渡った時、ヨルダン川は上流でせき止められました。神が神の民に先だって進まれる時、海も、川も、山も、その前にふるえおののいたのです。神が先だってくださる時、どんな困難も、祝福へと変わっていきます。私たちもそのような人生を歩みたいものです。 もどる

詩篇115篇 イスラエルは目に見えない神を信じていましたが、それは偶像の神々をあがめている諸外国の人々には不思議なことでした。それで「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」(2節)ということばが生まれたのです。初代教会の時代にも、クリスチャンは目に見えない神を信じ、ギリシャやローマの偶像を拒否しましたので、「無神論者」と呼ばれて迫害を受けました。しかし、イスラエルも、クリスチャンも、目に見えない神を神からの恵みと祝福をもって人々に示しました。 もどる

詩篇116篇 罪のゆるしや恵みをいただきながら、それを確信できないでいる人が少なからずいます。そのような人は「私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。」(7節)とのみことばを心に留めると良いでしょう。ほんとうは惨めな状態なのにそれを認めないことは神に喜ばれませんが、神から受けている恵みと祝福を感謝して受け取らないことも、神を悲しませるのです。 もどる

詩篇117篇 ここは聖書の中で一番短い「章」です。聖書の一節でも暗記して唱えるのは大変なことですが、まして、一章全部を覚えるのはとても困難なことです。しかし、この詩篇なら、全部をまるごと覚えることができそうです。この詩篇を手始めにして、他の詩篇も暗唱していくなら、それは必ず祝福となるでしょう。 もどる

詩篇118篇 22節はマタイ2:42、マルコ12:10〜11、ルカ20:17で、主イエスによって引用されています。イエスはイスラエルによって捨てられましたが、教会の礎となりました。私たちは、キリストを土台とし、まことの神の宮として建て上げられていくのです(ペテロ第一2:4〜5)。 もどる

詩篇119篇1〜88節 詩篇119篇は8節づつが、それぞれヘブル語のアルファベットで始まっています。ヘブル語のアルファベットは22文字ありますので、この詩篇も8×22=176節あるというわけです。この詩篇の主題は「みことば」です。この詩篇では、みことばは、「みおしえ」「さとし」「道」「戒め」「おきて」「仰せ」「さばき」と表現されています。英語では、「すべて」を "A to Z" というふうに表現しますが、この詩はヘブル語アルファベットの "A to Z" を使うことによって、「みことば」の中に神のみこころのすべてがあり、「みことば」が私たちの人生の "A to Z" であるということを示しているのです。 もどる

詩篇119篇89〜176節 真っ暗な山道をドライブしていて、突然ヘッドライトが消えてしまったらどうなるか、想像しただけでも恐ろしいことです。そこから一歩も先に進めなくなります。同じように、私たちに人生も神のことばの光なしには先に進めないのです。私たちの人生を導く光である神のことばをいつもにぎりしめていましょう。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(105節) もどる

詩篇120篇 ここから「都上りの歌」がはじまります。エルサレムへの巡礼者が歌った歌とされていますが、これらの詩は神を求めて旅する霊的な巡礼者にとってもあてはまります。「メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らす」(5節)とあるように巡礼者はまだ外国にいます。そこは偽りのくちびる、欺きの舌に満ちたところです。それは、神に背いたこの世のことにあてはめることができます。霊的な巡礼の旅は、今あるところから救いの叫びを発することからはじまるのです。 もどる

詩篇121篇 巡礼者はいよいよエルサレムに近づきシオンの山を見上げています。しかし、巡礼者はエルサレムやシオンの山が彼を救うのでなく、その山を造られたお方、エルサレムにその名を置かれた神が彼を救うことを良く知っていました。それで5〜8節では「主は、あなたを守る」ということばが繰り返されています。エルサレムを望み見、シオンの山を仰ぎ見る時、その上に、その背後におられる神を仰ぎ見る人は幸いです。 もどる

詩篇122篇 巡礼者は、いよいよエルサレムの町の中に足を踏み入れ、まずエルサレムの平和と繁栄のため祈っています。主イエスが「その家にはいるときには、平安を祈るあいさつをしなさい。」(マタイ2:12)と教えたように、どこの町に入っても、どこの家に行っても、まずその町の繁栄、その家の平安のために祈ることは良いことです。 もどる

詩篇123篇 エルサレムで神を礼拝する巡礼者は「奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように」(2節)その目を神に向けています。へりくだってあわれみを求めること、ここに礼拝者の姿があります。 もどる

詩篇124篇 「もしも主が私たちの味方でなかったなら。」(1節)と考えてみたことがありますか。それを考えると、私たちの人生がいかに主の助けによって成り立っているかがわかります。そして、そこから「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)という確信が生まれます。 もどる

詩篇125篇 エルサレムは山々が町をとりかこむ自然の要害でした。山々がエルサレムを守るように、神も神の民を守ってくださいます。神の守りは、悪が正しい者をおびやかすことがなく、正しい者が悪に手を伸ばさないという、二重の守りです。この守りを信じて歩みましょう。 もどる

詩篇126篇 喜びは、神を信じる者に与えられた賜物のひとつです。しかし、それは、嘆くべき時に「から元気」を出すことでも、悲しむべきときにも「うすら笑い」をうかべるということでもありません。神を信じる者も、苦しみの時には嘆くのです。しかし、それを嘆きだけで終わらせないのは、涙の種が神にあって豊かな収穫に変わると信じるからです。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」(5節)とあるとおりに、やがて与えられる収穫を信じる者は、その信仰によって喜ぶことができるのです。 もどる

詩篇127篇 私たちの多くは「努力」が人生を豊かにすると信じています。しかし、聖書は人間の努力がすべてではないと言います。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」のです(1節)。本当の努力は、神への信頼の上にたてあげられるべきものです。そうでなければ、それはバベルの塔のように、神への反逆になってしまいます。 もどる

詩篇128篇 詩篇のテーマのひとつである「幸いな人」とは、「主を恐れ、主の道を歩む者」です。主を恐れる心と、神のみこころの道を歩み続ける生活とが結びついている人、そういう人が祝福を受けます。 もどる

詩篇129篇 イスラエルの歴史は苦難の歴史でした。「耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った。」(3節)という表現は、彼らの苦難をみごとに描写しています。しかし、神が味方となってくださったゆえに、イスラエルは苦しめる者たちから救われてきました。苦しめられた者は救い出され、苦しめた者たちは逆に苦しみを受ける者になりました。人に苦しめられるほうが、人を苦しめるよりは、良い結果を生むことを、わきまえて生きる人は幸いです。 もどる

詩篇130篇 神を「恐れる」というのは「恐がる」こととは違います。神の力や知恵、愛やあわれみに「驚き」、それに「打たれ」、神の前に「へりくだる」ことです。真実な信仰者は罪を責められますが、神を恐ろしいと思うからではなく、聖なる神が罪人をあわれみ、ゆるしてくださるということに、驚き、打たれて、神の前にひれふすのです。「赦し」、「恵み」、「贖い」といったことばが私たちから神への、愛のこもった恐れを引き出すのです。 もどる

詩篇131篇 この詩篇は「われはおさなご、われ主にたよらん」との聖歌の一節を思いおこさせます。ここには信仰者の、神にまったく信頼し、まかせきった姿が描かれています。しかも、それは老人が悟りをひらいたという枯れた姿ではなく、幼子のように活気に満ち、希望に満ちた姿です。神を信じる者は、このようにいのちにあふれ、いつもみずみずしくあるのです。 もどる

詩篇132篇 この詩はダビデへの契約を歌っています。神がダビデの子を王として立てるという約束こそ、人々が待ち望み、都上りのたびにその成就を神に願い求めていたことでした。しかし、イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入った時、そのことが成就したのを知る人は少なかったのです。「ダビデの子」イエスによる神の約束の成就を見る人は幸いです。 もどる

詩篇133篇 バビロン捕囚後、エルサレムは荒れ果て、人々はそこに住もうとはしませんでした。しかし、エズラやネヘミヤの努力によって、エルサレムが立て直され、人々が移り住んでエルサレムはようやく町らしくなってきました。この詩は、そうした町の様子を歌い、神の祝福を喜んでいます。私たちの住む町のためにも、同じ祝福を祈りましょう。 もどる

詩篇134篇 「主の家で仕える者たち」、つまり祭司やレビ人たちは、人々が礼拝を終えて家に帰った後も神殿に留まり、それを守りました。こうして、昼も夜も、主の御名がたたえられたのです。そして、ここでは、神ご自身が祭司たちを祝福されるようにとの祈りがあります。祭司たちには、人々の礼拝を導き、人々を祝福するつとめが与えられていますが、祭司たち自身が礼拝をささげ、神の祝福を受けなければ、そのつとめを果たすことができないからです。 もどる

詩篇135篇 神は、きよさ、正しさ、あわれみ、知恵、力、真実などさまざまなご性質をもっておられますが、私たちが忘れがちなのは、神が「麗しい」「美しい」お方だということです。神は霊であってその御姿は見えませんが、神のなさったみわざは、どれもみごとなものばかりです。それはどの芸術にまさって美しいものです。「主の御名はいかにも麗しい。」(3節)ということばをじっくりと想いみたいものです。 もどる

詩篇136篇 神のご性質を特徴づけているもののひとつは、その「永遠性」です。人間は神のかたちにつくられ、神のご性質の一部分を持っています。しかし、人間の真実や愛は移り変わり、神の真実や愛のように永遠のものではありません。この詩で「その恵みはとこしえまで。」と繰り返されているように、神がその恵みにおいて永遠に変わらないゆえに、私たちの救いがあることを覚えていましょう。 もどる

詩篇137篇 バビロンの人々が宴会の余興に「シオンの歌を一つ歌え。」と言った時、この人は「主の歌」を余興のために歌うことを拒みました。ルターは当時の民衆の歌を賛美の歌にしました。バッハも一般の歌を宗教曲に高めました。しかし、宗教曲を一般の音楽に使いませんでした。音楽の「聖別」ということも、礼拝においては大切なことです。 もどる

詩篇138篇 この詩には、詩篇のテーマのいくつかが含まれています。「私が呼んだその日に、あなたは私に答え…」(3節)と、祈りに答えてくださる神が描かれています。「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。」(6節)とのことばの中には、人となってこの世に来てくださった御子イエスに通じる、神のご性質がみごとに描かれています。 もどる

詩篇139篇 神は、私たちのすべてを知っておられます。もしそうなら「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」(23節)との祈りは無用なのでしょうか。決してそうではありません。私たちの側から神に向かって自分の心を開くのと、神が私たちの心を見抜くのとの間には大きな違いがあります。私たちの側から心を明け渡す人は、神が私たちのすべてを知っておられるということが大きな慰めになりますが、そうでない人は、それが恐怖になるのです。 もどる

詩篇140篇 「主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行われる」(12節)というのは、神についての大切な教えです。これを「知る」人は、神に頼り、神の助けを得て生涯を送ることができます。信仰はたんなる知識ではありませんが、神についての真理を知ることから始まります。 もどる

詩篇141篇 ここでは、祈りが「呼び求める」(1節)こと、「手を上げる」(2節)こととして描かれています。ユダヤの人々は手を上げて神の御名を呼び求めたのです。また、神殿では香がたかれ、犠牲がささげられましたが、祈りは、香のかおりのように、また、犠牲を焼いた煙のように神に届くのです。日毎に香がたかれ、朝夕に犠牲がささげられたように、祈りは、絶え間なくささげられるべきことが、ここで教えられています。 もどる

詩篇142篇 神へ祈りは常にきれいなことばであるとは限りません。それは「嘆きを注ぎ出し…苦しみを言い表わす」(2節)ことでもあるのです。どの時代の聖徒たちも、神の前に、嘆きも苦しみをも包み隠さず言い表して、神からの救いと恵みを受けています。私たちもそれにならいたいものです。 もどる

詩篇143篇 ダビデは、祈りの中で自分と神との関係をしっかりと確認しています。そのことは、「あなたこそ私の神」(10節)、「私はあなたのしもべ」(12節)という表現の中に言い表されています。神は私たちに、「わたしはあなたの神、あなたはわたしの民」と言ってくださるのですから、私たちも、「あなたは私の神、私はあなたのしもべ」と神に申しあげようではありませんか。 もどる

詩篇144篇 この詩の結論は「幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。」(15節)にあります。詩篇は、神を信じる者の幸いを歌い続けてきましたが、ここでは、神を信じる民族、国家、コミュニティ、また家族の幸いが歌われています。個々人が神を信じるだけにとどまらず、家族が救いにあずかり、地域に伝道がなされ、国として、民族として神に頼ることができたら、それ以上の幸いはありません。 もどる

詩篇145篇 これは詩篇に収められた「ダビデの詩」の最後のものです。この詩は、最後のものにふさわしく、ここには、彼の信仰のすべてが示されています。「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」(18節)とは、彼の生涯から出た結論です。私たちの近くにいてくださるお方にいよいよ祈り求めましょう。 もどる

詩篇146篇 詩篇の最後の五篇はすべて「ハレルヤ」ではじまり、「ハレルヤ」で終わっています。「ハレルヤ」とは、「主をほめよ」という意味ですが、一篇、一篇は、なぜ主をほめるのか、どのように主をほめるのかを教えてくれます。この詩では神の力ある支配、恵み深い支配のゆえに、主をほめるべきことが教えられています。 もどる

詩篇147篇 この詩には「主がヤコブには、みことばを、イスラエルには、おきてとさばきを告げられる。」(19節)とあって、神のことばのゆえに「ハレルヤ」と神を賛美すべきことが教えられています。神は、神の民には、自然や歴史や良心を通してだけでなく、はっきりとしたことばによって、ご自分を示してくださるのです。私たちも神のことばのゆえに、主をほめましょう。 もどる

詩篇148篇 賛美は、人間だけがささげるものではありません。それは「天使」も「天体」も、「海の巨獣」も、「火」も、「雹」も、「雪」も、「煙」も、「あらし」も、「山」も、「木」も、「杉」も、「獣」も、「家畜」も、「はうもの」も、「鳥」も神を賛美するのです。すべてのものの賛美に「主の聖徒たち、主の近にいる民、イスラエルの子らの賛美」が溶け込むのです。 もどる

詩篇149篇 主をほめたたえる理由のひとつは「主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる」(4節)からです。賛美は神の愛への応答です。神の救いを受けていることが、私たちの賛美の根拠です。それで、私たちは救いの衣を着、神の前で喜び歌うのです。 もどる

詩篇150篇 「角笛」、「十弦の琴」、「立琴」、「タンバリン」、「踊り」、「緒琴」、「笛」、「シンバル」など、すべてのものが賛美のために動員されます。神への賛美は、「息のあるもの」すべてによって、あらゆるものをもってささげる価値あるものなのです。すべてのものの主に、すべてをもって、すべてのものが賛美する。それが賛美の世界です。 もどる