ヨブ記1章 神が私たちに与えておられる良きものはすべて恵みであるはずです。そうなら、その恵みが差し控えられたとしても、私たちは決して神に不平を言うべきではありません。しかし、受けることに慣れてしまった私たちは、「主は与えられる。主の御名はほむべきかな。」と言うことができても、「主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ということは出来ないでいます。与えられる幸いばかりでなく、取り去られる幸いもきっとあるはずです。それを知り、主の御名を賛美するものでありたく思います。 もどる

ヨブ記2章 ヨブは財産も、こどもも、そして健康も失いましたが、妻だけは失いませんでした。このような苦しみの時、配偶者の慰めほど、力になるものはありません。しかし、その妻も「神をのろって死になさい。」とヨブに言っています。これほど残酷なことばはありませんが、これもまた、神のヨブに対する試みのひとつだったのでしょう。配偶者が冷たいことばをかけたからと言って、それですぐ相手を退けず、その背後にある試みに信仰によって打ち勝つなら、配偶者との関係を壊さずに済むかもしれません。 もどる

ヨブ記3章 三人の友人が来た時、ヨブは口を開いて、「こんな苦しみに遭うなら、私は生まれなかったほうが良かったのだ。」と語り出します。死を願うほどの苦しみというものがあります。ヨブは、自分の生まれた日をのろいながらも、命が神から来ていることを知っていました。神はヨブの財産や健康が奪われることを許しましたが、サタンに、彼の命に触れることは、決してお許しになりませんでした。このことのゆえに、神を信じる者は、みずから命を絶つようなことはしないのです。神が私たちの命を守られるゆえに、私たちもみずからの命と、他者の命を守るのです。 もどる

ヨブ記4章 「ヨブの友人」という言葉があって、それは、人を慰めるふりをしていながら、その実、人を攻めている人々を指すのに使われます。エリファズは、「さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。」(7節)と、ヨブが苦しんでいるのは、ヨブの罪のためであると、ヨブを責めています。自分の過ちを責めてくれる友人がいることは有難いことです。しかし、それが、的外れで遭った場合、友人から責められることほどつらいことはありません。ヨブと友人たちのやりとりの中から、そんなことを考えてみるのも益があると思います。 もどる

ヨブ記5章 「不幸はちりから出て来ず、苦しみは土から芽を出さない」(6節)とのことばには、因果応報の思想があります。ヨブの苦しみは、彼が蒔いた種子が芽を出したものだと、エリファズは言っているのです。確かに人は蒔いたものを刈り取る(ガラテヤ6:7)のです。しかし、人生のすべてにこのルールが当てはまるわけではありません。苦しみの背後に秘められた神のご計画を、通り一遍の定規で量らず、苦しみの意味を深く主に問うていく私たちでありたく思います。 もどる

ヨブ記6章 ヨブはエリファズに対して、自分の苦しみを訴え、「落胆している者には、その友から友情を。」と、友に同情を求めています。そしてヨブはなおも、「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。」(24節)と、潔白を訴えます。エリファズはヨブの訴えにもっと耳を傾けるべきだったのです。苦しむ者を助けるのは、語る口びるよりは、聞く耳だからです。 もどる

ヨブ記7章 エリファズへの返答はいつしか神への祈りとなります。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。」(17節)という言葉は詩篇8篇にもありました。神が人を神のかたちに造られたゆえに、人は病いに倒れても、苦難の中で嘆いていても、ヨブのようにちりの中に横たわっていても、その人生から尊厳は取り去られることなく、常に神に覚えられているのです。ここでヨブは、神に覚えられていることをうっとおしく感じましたが、後には、彼を見放さなかった神の御目、御手に感謝するようになります。 もどる

ヨブ記8章 ビルダテは、神に信頼し続けるなら、神は正しい者を回復されると説きます。「あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。」(7節)とは、事実で、神は後にヨブの病いをいやし、彼に多くの財産を与えます。しかし、苦しみの真中にいる時には、苦しみの後の栄光を考えることは難しいのです。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(コリント第二4:17)とあるように、苦しみを通って栄光に入られたキリストから来る希望だけが、私たちの目を永遠に向けさせてくれます。 もどる

ヨブ記9章 ヨブは彼の人生における神の全能や主権を認めていますが、ここでは、絶対者である神の前に、人間はなすすべがないと、あきらめの言葉を語っています。神と人との間の「仲裁者」がいないと嘆いています。しかし、私たちは、今、「神と人との間の仲介者」(テモテ第一2:5)であるイエス・キリストを持っています。旧約時代には十分に知らされていなかったこの真理が、今、明らかになっていることを喜びましょう。 もどる

ヨブ記10章 ヨブは不平をぶちまけます。しかも、それを神に向けます。そこに、ヨブと神との交わりを見ることができます。神は、ヨブにとって、不平も不満も、疑問もつぶやきも訴えることができるほど近い存在だったのです。「模範生」のようにしていなければ神に近づけないのであれば、私たちが弱くなった時、失敗した時に、私たちは神から力をいただくことができません。あるがままの姿で神の前に出ることを神は喜んでくださるのです。 もどる

ヨブ記11章 ヨブの三人目の友人ツォファルは、ヨブが潔白を主張するのをいさめ、罪を認めてそれを捨て、神の回復の時を待てと言います。彼のことばは、この時のヨブにはあてはまりませんでしたが、一般的真理にはかなっています。罪を捨てるなら「堅く立って恐れることはない」(15節)です。「望みがあるのであなたは安らぎ、あなたは守られて安らかに休む」(18節)とあるように、過去の罪を赦され、将来の守りと救いを信じるところから確信と平安がやってきます。過去には赦し、将来には望みを得て、現在の平安が来るのです。 もどる

ヨブ記12章 友人たちの言うことはもっともなのですが、苦しみの中にあるヨブには何の答えにもなりませんでした。ヨブの心を悩ませていたのは、「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである」(6節)という現実、矛盾でした。信仰とは、社会の矛盾に目をそらせることでも、それをとおりいっぺんの「論理」でかたづけてしまうことでもないはずです。その矛盾に苦しみながら、神の解決を求めていく、そのような姿勢を忘れずにいましょう。 もどる

ヨブ記13章 ヨブは、友人たちを「偽りをでっちあげる者」「能なしの医者」(4節)と呼びました。からだはおとろえていても、その唇はなお盛んで、ヨブは、友人たちに反論しています。しかし、ヨブが本当に語りたいのは神であり、ヨブが聞きたいのは神からの語りかけだったのです。ヨブの苦しみは神がヨブに答えてくださらないことであり、神の御手だけは彼の上に重くのしかかっているのに、神の御顔が見えないということでした(22-24節)。私たちの苦しみは、神の御顔にある光によってしか解決しないのです。私たちはキリストにあってそれを得ています(コリント第二4:6)。 もどる

ヨブ記14章 ヨブが「自分に罪はない」と言ったのは、友人たちが「あなたがこれほどの苦しみを受けているのは、それだけの罪を犯したからだ。」と責めたのに対して言っているのであって、ヨブ自身は神の前に自分の罪を知っていました。そして「私の罪に目を留めず、私のそむきの罪を袋の中に封じてください」(16-17節)と祈っています。古代人は川袋に飲み物を入れ、それがこぼれないようにしっかりと口を閉めました。そのように神は私たちの罪を封じ込め、それがこぼれ出て、私たちを毒することがないようにしてくださるのです。このような神の恵みの取り扱いを感謝しましょう。 もどる

ヨブ記15章 ここからヨブと友人たちとの討論の第二ラウンドに入り、ふたたびエリファズが登場します。エリファズはヨブに「あなたは信仰を捨て、神に祈ることをやめている」(4節)と批判し始めています。ヨブは、苦しみの中で神に向かって叫び、祈っているのに、エリファズは「型にはまった」祈りをヨブにおしつけて、ヨブを裁いています。信仰はその人の心の最も奥深いところにあるもので、私たちは簡単に人の信仰や祈りを裁くことはできないのです。 もどる

ヨブ記16章 エリファズに対してヨブは「あなたがたはみな、煩わしい慰め手だ」(2節)とやりかえします。ここから「ヨブの慰め手」(人を慰めるつもりでかえって人の悲しみをつのらせる者)という言葉が生まれました。ヨブは子を失い、妻に見捨てられ、今、友人たちも彼を理解してくれません。そのような中でヨブは、自分の支え手を上に求めます。「今でも天には私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます。」(19節)と、天の慰め主に信頼を置いています。 もどる

ヨブ記17章 ヨブはいよいよ切実に「どうか、私を保証する者をあなたのそばに置いてください。」(3節)と祈りました。新約聖書には「私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられる」(ヘブル4:14)とあって、この祈りがイエス・キリストによって答えられていることを、私たちは知るのです。キリストは、十字架の上で、私たちのために救いをかちとってくださったばかりでなく、よみがえり、天に帰って、その救いの保証となっていてくださるのです。 もどる

ヨブ記18章 ビルダデは二度目の弁論でも、相変わらず同じことを繰り返しています。「彼には自分の民の中に親類縁者がなくなり、その住みかにはひとりの生存者もなくなる。西に住む者は彼の日について驚き、東に住む者は恐怖にとりつかれる。」(19-20節)という言葉は、悪者の運命について言っているものですが、これは、一日のうちに子どもを亡くし、重い病気にかかって形相も変わってしまったヨブの現状をさしているように聞こえます。ヨブの友人のことばは決してヨブを慰めるものではなかったのです。 もどる

ヨブ記19章 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」(25節)は、ヨブ記の中で最も有名な箇所のひとつです。「贖う方」というのは、ルツを買い戻したボアズのような親族のことを指します。ここでの「贖う方」は、ヨブが今まで「仲裁者」「証人」と言ってきた方を指します。ヨブは、神が人となってやがて地の上に立つことを待ち望んでいました。それは、今ではキリストにおいて成就していますが、ヨブは、キリスト以前にもキリストを待ち望む信仰によって、救いを得たのでした。 もどる

ヨブ記20章 ツォファルは二度目の弁論で、「悪者の喜びは短く、神を敬わない者の悲しみはつかのまだ」(5節)と言いました。ツォファルの定義によれば、「悪者」とは「神を敬わない者」のことでした。今日では、罪や悪は、社会との関係でとらえられていますが、聖書では罪や悪が、神との関係で考えられています。社会は常に変わるものですから、それによって善悪も変わるのだとしたら、私たちには絶対的な基準がなくなり、社会もそのよりどころを無くします。私たちは、神との関係で善悪を見ることを、もっと学ぶ必要があるようです。 もどる

ヨブ記21章 悪者たちは「全能者が何者なので、私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが彼に祈って、どんな利益があるのか」と言います。今、十分に幸福であって、何も窮屈な思いをして神に仕える必要はないと言うのです。そう言う人は、神がその人を造り、あらゆる必要なものを与えていておられることを見落としています。神に祈ることによって、私たちは、目に見える祝福だけでなく、祝福の与え主のもとに行くことができるのです。これほどの「利益」が他にあるでしょうか。 もどる

ヨブ記22章 ここから、ヨブと三人の友人との第三回目の論争がはじまります。エリファズは「あなたは理由もないのにあなたの兄弟から質を取り、裸の者から着物をはぎ取り、…」(6-9節)と言っていますが、これはヨブには当てはまりませんでした。エリファズはヨブがこんなに苦しい目にあっているのは、彼に隠された罪があるからだという前提を持っていたので、ヨブがしてもいないことまで、ヨブがしたかのように思い込んだのでしょう。人を先入観で見ることは恐ろしいことですが、私たちに陥りやすい過ちのひとつです。 もどる

ヨブ記23章 ヨブは、友人たちの議論によっては、解答を見つけることができませんでした。友人たちは論理を展開することは出来ても、神を示すことはできなかったのです。それでヨブは、神を求めます(3-7節)。しかし、ヨブは神を見出せないでいます(8-9節)。しかし、神はすでにヨブを見出し、ヨブのことを調べつくしています(10節)。「神は私を知っておられる」ということを知るのが、神を知る第一歩なのです。 もどる

ヨブ記24章 悪人は「光に反逆する者で光の道を認めず、その通り道にとどまらない」(13節)と言っていますが、そのとおりです。まことの光であるキリストが来られた時も、人々は光を憎み、光であるキリストを受け入れませんでした。私たちも「以前は暗やみ」だったのです。しかし、キリストを信じるものは、キリストにあって光となり、光の子どもらしく歩むことができるのです(エペソ5:18)。ヨブには小さな啓示の光しかありませんでしたが、私たちにはもっと大きな光が与えられています。この光にそむいてはなりません。 もどる

ヨブ記25章 ビルダデの三度目の弁論。これはエリファズが先に語ったことの繰り返しにすぎません。彼は、神の前に人が正しくもきよくもなく、うじや虫けら同様であると言っています。それは、ある意味では真実かもしれませんが、ビルダデは、神が人間を月や星よりもすぐれたものとして造り、人が神を信頼し、神もまた人間を信頼してくださり、神と人とか心と心を通わせあうことのできる関係にあることを見落としています。ヨブが神に語りかけ、神の語りかけを求めて苦しんでいるのを、彼は理解できませんでした。 もどる

ヨブ記26章 ヨブは、友人たちの弁論の中に知恵を認めませんでした。友人たちのことばは人間の次元から語られたものでしかなかったのです。本当の知恵は、神のことばにしかなく、真に知恵ある者は神を示す人であるべきからです。ヨブは、神にさからっているように見えますが、実は、神の思いの深みを求め、神に向かって叫び求めているのです。私たちの心にも神を求めてやまない思いがあります。私たちはその思いを素直にあらわし、神のことばに聞くことによって、それを満たしている必要があります。 もどる

ヨブ記27章 ヨブは自分の義を主張し、友人たちに「あなたがたを義と認めることは、私には絶対できない」(5節)と言い、彼らを「敵」と呼びます(7節)。悪者や神を敬わない者はたちまち滅ぼされると言った友人たちに、そのことばを返し、彼らこそそのように滅びるのだと言いました。善人は神に報いられ、悪人は裁かれるという主張は、どうかすると神の報いだけを求めて、神ご自身を求めないということになります。しかし、ヨブはそうでなく、苦しみの中でも神を呼び求めたのです。 もどる

ヨブ記28章 ヨブはここで知恵について議論します。人間はその知恵はその知恵で地底から金銀鉱石をとり出します。動物たちは地上にある食べ物しか目に留めることができませんが、人間の知恵は隠れたものを探し出します(1-11節)。しかし、知恵そのものは金銀鉱石を掘り出すように得られるものではありません。それは高価な宝石でも買えません。「知恵はどこから来るのか」(20節)との答えはヤコブ1:17、3:17にあります。人々は昔の書物に知恵を求め、先端技術の中に知恵を求めます。しかし、本当の知恵は、上から来るのです。 もどる

ヨブ記29章 ヨブは以前の自分の栄光をふりかえっています。今、すべての栄光を失ったヨブにとって、それらはどんなにか値打ちのあるものだったでしょう。私たちはこのことから、神としての栄光をお捨てになった主イエスを捨て去って、それを振り返ることもしませんでした。その栄光が偉大であればあるほど、捨て去ることが難しいのに、主は私たちの救いのためにそれを捨て去ってくださいました。私たちも、すべての名声を捨て、パウロのように「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって」(ピリピ3:13)生きようではありませんか。 もどる

ヨブ記30章 ヨブはなお自分の不幸を嘆きます。ヨブは自分のしもべたちからさえもあざけられ、笑われ、きらわれ者となりました(9-15節)。彼の皮膚は黒ずんでは剥げ落ち、骨は熱で焼けます(30節)。ヨブは自分の心もからだも廃墟のようだと言います。しかし、ヨブは「それでも廃墟の中で人は手を差し伸べないないだろうか。その衰えているとき、助けを叫ばないだろうか」(24節)と言います。ヨブは絶望的な状態の中にあるからこそ、神に呼ばわっています。そして、祈るかぎりはそこは絶望の淵ではありません。祈る人は途方にくれても行き詰まらないのです(コリント第二4:8-9)。 もどる

ヨブ記31章 ここにはヨブの最後のことばがあります。ヨブは、人を欺かなかった、姦淫の罪を犯さなかった、しもべやはしための言い分をないがしろにしなかった、寄るべのない者や貧しい者を助けた、自分の財産により頼まなかった、日や月を拝まなかった、人々を呪わなかった、異国人に親切にした、自分の罪を隠さなかった、勇気をなくして身を隠さなかったと言いました。ヨブの具体的な行為から、神の前に正しくあることがどんなことかを教えられます。 もどる

ヨブ記32章 ヨブと友人たちの議論を黙って聞いていたエリフが語り出しました。エリフは「ラム族のブズ人、バラクエルの子」でした。ブズ人はアブラハムの兄弟ナホルの子孫と考えられます(創世記22:10)。ウツもまたナホルの子で、おたがいに兄弟でした。神は兄弟たちの中からアブラハムを選びましたが、他の兄弟たちにも神を知る知識を与えてくださっていました。神は、主を知る知識が全地をおおうことを願っておられるのです。 もどる

ヨブ記33章 エリフは、ヨブの友人たちと違って、苦しみを罰としてではなく、訓練としてとらえていました。それは「人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる」(17節)のです。ヘブル人への手紙が「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」(ヘブル12:10)と言っているのと同じです。どんなに正しく生活している人でも、まだ完成の余地を残しており、きよめられる必要があります。神からの試練は、人の罪を指摘するためではなく、人をきよめ、高めるためにも用いられるのです。 もどる

ヨブ記34章 エリフは三人の友人たちよりも正しいことを語りましたが、ヨブの人格や行いを正しく認めていたとは思えません。エリフは「彼はあざけりを水のように飲み、不法を行う者ともとよく交わり、悪人たちとともに歩んだ」(7-8節)とヨブを責めていますが、エリフがどれだけヨブのことを良く知っていたかは疑問です。エリフは、神へ熱心のあまりヨブを責めましたが、エリフには、神にかわってヨブを裁くことは許されていませんでした。私たちは、裁きは神の主権に属することを肝に銘じておく必要があります。 もどる

ヨブ記35章 ヨブの友人たちは、神の報いを説くあまり、ご利益宗教的な考えに陥っていましたが、エリフはそれを正して、「私が罪を犯さないと、どんな利益がありましょう」(3節)と問うのは愚かなことだと言いました。良い物を得るために神を信じ、それが得られなければ神を捨てても良いということではありません。しかし、ヨブの信仰がご利益信仰でなかったことは、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(1:21)「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない」(2:10)などのことばから明らかです。 もどる

ヨブ記36章 エリフは「心で神を敬わない者は、怒りをたくわえ、神が彼らを縛るとき、彼らは助けを求めて叫ばない」(13節)と言いました。苦しみの時こそ、神に助けを求めるべきなのに、「神がいるなら、なぜこんな目に遭うのだ」とくってかかるのが、不信仰な人間の本性です。苦しみに遭って、神に対して目が開かれる人もいれば、苦しみによってかえって心をかたくなにする人もあります。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」(詩篇50:15)との、神のことばに応答する人はさいわいです。 もどる

ヨブ記37章 エリフは、神は自然界のさまざまな出来事の中に大きな知恵を働かせ、それによって私たちに語り書けておられる、と言いました。ヨブは、自分の主張を述べることに熱中して、神からの語りかけに聞かなかった、とエリフはここでヨブをいさめています。ヨブは、エリフのことばに反論していません。反論できなかったのです。それは、神がエリフの弁論を中断して、直接ヨブに語りかけたからです。では、エリフの弁論は無意味だったかというとそうではなく、ヨブはエリフのことばによって神に聞く心の備えができと思われます。どんなに語っても、最後には神に聞く、それが信仰の態度です。 もどる

ヨブ記38章 神はエリフのことばに続いて語り出されました。主イエスの宣教の前にバプテスマのヨハネの活動があったように、エリフは神の直接の語りかけの導入者となりました。神は、私たちのまわりの、神を信じる人々のことばを通して、語りかけてくださいます。それが人のことばだからといって軽んじることなく、そこに神の語りかけを聞きとるものとなりましょう。そして、神を信じる者たちが、人々が神のことばに耳を傾けることができるための「声」となることができたらさいわいです。 もどる

ヨブ記39章 主は、野やぎ、雌鹿、野ろば、野牛、だちょうを飼い慣らすことができるかと、ヨブに問いかけます。これは、この世には人間の知識や力の及ばないことがある、しかし、それらもまた神が支配しておられるということを言おうとしたものです。同じように、この世になぜ苦しみがあるのかという問題も、人間の知恵、知識ではかりしることができるものではないし、まして、この世の善悪を人間はコントロールすることができないものです。しかし、神は、この世の悪に手を焼いておられるのでなく、それらもご自分の支配のうちにおいておられるのです。ヨブは、ここで、身近な自然界のことがらから、霊的なことを学ばされているのです。 もどる

ヨブ記40章 古代中東の衣服は、日本の着物のようにボタンがないので、帯を締めなければ、「締まりのないもの」になってしまいました。主はヨブに「腰に帯を締めよ」(7節)と激励し、しっかりせよ、力を強くせよと、迫っておられます。パウロが「腰には真理の帯を締め」と言い、ペテロが「心の腰に帯を締め」と言ったように、私たちも、主なる神の前に立つ備えをしたいものです。 もどる

ヨブ記41章 ここで「わに」と訳されている「レビヤタン」は、40章で「河馬」と訳されていた「ベヘモス」と同じように、恐竜のようなものと考えられます。これらは、サタンが「巨大な竜」と呼ばれ、反キリストが「獣」と呼ばれるように、通常の動物とは違って、霊的な世界を表わすものとして、ここにとりあげられています。神がこれらの恐竜たちをも支配しておられるように、霊的な世界も、神が支配しておられ、サタンにヨブの命に触れることを許されなかったことを、ヨブは悟ったことでしょう。 もどる

ヨブ記42章 ヨブは悔改めました(6節)。しかし、これは、ヨブが友人たちのことばのようにヨブが過去に働いた悪事を悔改めたということではありません。ヨブの正しさは、神が再度、認めていてくださるからです。ヨブは自分の無知を悔改めたのです。罪人として神の前にへりくだる以前に、被造物として、創造者のまえに低くなったのです。そしてヨブは、この悔改めとへりくだりによって、さらに神を知る者となったのです。私たちも神の前にヨブと同じ思いで出るものとなりましょう。 もどる