ネヘミヤ記1章 ネヘミヤはペルシャ王の献酌官でしたが、ユダの総督となってエルサレムに遣わされ、その再建にあたります。ネヘミヤ記1章は、彼のイスラエルのための祈りです。すべては、祈りから始まっています。 もどる

ネヘミヤ記2章 ネヘミヤは、王から「あなたは何を願うのか」と言われた時、即座に「天の神に祈ってから」(4節)王に願いを話しています。「絶えず祈りなさい」という聖書の教えは、一日中、他のことはしないで祈っていなさいということではなく、ネヘミヤのように、どんな場面でもすぐさま神に思いを向け、神に語りかける状態でいることをさすのでしょう。 もどる

ネヘミヤ記3章 城壁の修理のために働いた人々の名前があげられています。それぞれが自分に割り当てられた分を果たしました。エルサレムの城壁の再建を、ひとりでやろうとしたら、どれだけの労力と年月がかかることでしょうか。神のための働きも、不可能と思え、自分たちの手にあまると見えても、みんなで力をあわせるなら、たいていのことはなしとげることができるのです。 もどる

ネヘミヤ記4章 サヌバラテとトビヤは、エルサレムに攻め入って混乱を引き起こし、城壁の再建を中断させようとしました。このため、気をくじく人々もおり、家族も工事に携わっている人々を呼び戻そうとしました。しかし、ネヘミヤは護衛をつけ敵に備えたため、人々は工事に戻りました。敵にひるまない断固とした態度によって、たくらみを撃ち破ったのです。 もどる

ネヘミヤ記5章 城壁再建の労役は人々の生活を苦しめ、貧しい人々は借金に苦しみ、息子、娘を奴隷に売るようなことが起こりました。ネヘミヤはこれを解決するために奴隷の解放と、負債の帳消しを求めました。そして、みずからも、総督としての手当てを受けませんでした。人の上に立つものはいつもその模範によって良い働きができるのです。 もどる

ネヘミヤ記6章 サヌバラテ、トビヤ、ゲシェムは、手を変え品を変え、ネヘミヤをおどそうとしました。彼らはシェマヤを買収して偽りの預言を語らせています。ネヘミヤは何が神から出たことで、何が敵から出たことかを見分けることができました。このような霊的な洞察力も、リーダには必要なのです。 もどる

ネヘミヤ記7章 再建されたエルサレムにはまだ住む人も少なかったので、厳重な警備がなされました。この章にある名簿はエズラ2章とほぼ同じです。こうした名簿が用いられて、エルサレム市内への移住が推進されたものと思われます。天のエルサレムのためにも名簿があり、キリストの救いにあずかったものたちの名がしるされているというのは、なんとうれしいことでしょうか。 もどる

ネヘミヤ記8章 エズラが律法のことばを読んだ時、人々は「泣き」ました。それは律法によって罪を示された人々の、悔改めの涙でした。ネヘミヤやエズラは、主の救いとた恵みを喜ぶよう、人々を励まし、人々の中に大きな喜びがありました。神のことばを聞いて理解しすることから大きな喜びが来ることがわかります。 もどる

ネヘミヤ記9章 仮庵の祭りの後、人々は悔改めの祈りをささげました。「あなたは誠実をもって行われたのに、私たちは悪を行ったのです」(33節)とは、真実に悔改めた者のことばです。私たちも聖書の中の数々の祈りを手本にし、それを自らの祈りとしてささげましょう。 もどる

ネヘミヤ記10章 悔改めの祈りをささげた人々は神のことばに従う盟約を結びました。その盟約には異邦人との縁組をしない、安息日に売買をしない、安息年を守る、神殿のために献金をし、初物と十分の一とをささげるなどの具体的なものでした。これらの誓いの背後には、今も守るべき原理があります。ここには現代の私たちも学ぶべきものがあります。 もどる

ネヘミヤ記11章 今日では人々は町に住みたがりますが、この時代には、生活の糧を得る農地から離れてエルサレムに住むのは不便なことでした。しかし、エルサレムには神殿があり、神に仕えるものにとっては慕わしい場所でした。この章には、神を愛するゆえに、生活の不便を承知で、エルサレムに住んだ人々の名がしるされています。 もどる

ネヘミヤ記12章 この章には城壁の奉献式の様子が書かれています。二組の聖歌隊が歌い、また「女も子どもも喜び歌」いました。その喜びの声はエルサレムからはるか遠くまで聞こえました(43節)。神がしてくださった恵みを、私たちも、このように、声高らかに歌いましょう。神は私たちの賛美を喜んでくださいます。 もどる

ネヘミヤ記13章 ネヘミヤの留守中、イスラエルでは、人々が信仰から離れ、再び無秩序の中に戻ろうとしていました。ネヘミヤはその状況を嘆いて、果敢に改革を進めていきます。改革はいちどなされればそれでよいのでなく、たえず古いものと戦い、新しくなっていく必要があります。それは個人も、社会も、そして教会も同じです。 もどる