エズラ記1章 エルサレムの神殿再建は、イスラエルの人々の願いによってではなく、ペルシャの王の託宣によって開始されました。これはユダヤ人にとっては思いもかけないことでした。神は、イスラエルのためにあの大きなペルシャ帝国を用いられたのです。小さなもののために大きなものさえ、自由にお用いになる神を信じる私たちは、自分たちの小ささを嘆くことなく、神に信頼して、そのあわれみを待ち望みましょう。 もどる

エズラ記2章 荒野の幕屋も、ソロモンの神殿も、人々が進んでしたささげ物によって建てられました。同じように、再建されるべき神殿も人々のささげ物によってその準備がなされました。神の宮は、いつの時代も、自発的な、喜びをもってなされるささげ物や奉仕、礼拝によって建てられることを覚えていましょう。 もどる

エズラ記3章 ゼルバベルは総督としてペルシャより戻ってきた人、ヨシュアは祭司として立てられた人です。神はこのふたりに聖霊のあぶら注ぎを与えて、神殿再建のため用いました。このことはゼカリヤ3〜4章に詳しく書かれています。神のための偉大な事業は、神の力によって、また、指導者たちの一致したリーダシップによってなしとげられるのです。 もどる

エズラ記4章 神のために何かをなそうとする時、かならず、それを妨げるものがやってきます。神殿の再建も、それを望まない人々の訴状によって、中断されてしまいました。しかし、それであきらめてしまうなら、敵対する者たちが喜ぶだけです。神の民は、そのような時にこそ信仰と忍耐をもって反対や困難をのりこえていくのです。 もどる

エズラ記5章 中断されていた神殿の再建は、神のことばによって再び開始されました。神のことばを語る者と、そのことばに進んで応答する者たちが力をあわせる時、神のわざは進んでいくのです。 もどる

エズラ記6章 川向こうの総督が神殿の再建を妨害しようとして送った手紙は、クロス王の命令を確認させるものとなり、ダリヨス王の命令により、妨害が取り除かれました。ここに、妨げさえも益に変え、ご自分のことばを成就される神の力を見ることができます。 もどる

エズラ記7章 神殿再建の後、アルタシャスタ王の時、エズラがエルサレムにやってきました。民に律法を教え、律法にしたがって民を整えるためでした。神殿は、神が、その民と共にいてくださることの目に見えるしるしでした。エズラがしようとしたことは、神の民を霊的に再建して、ほんとうの意味での神の宮とするためでした。 もどる

エズラ記8章 エズラの一行は神殿に奉納する金銀、青銅の器を携えていましたので、途中、盗賊に襲われる危険がありました。しかし、エズラは王に護衛を求めるかわりに断食をして主の守りを求めました。人間的な判断では無謀だったかもしれませんが、信仰による決断は、王へのあかしとなり、一行の確信となりました。 もどる

エズラ記9章 イスラエルのつかさたちは、周辺の民族との縁組をすすめることによって安全を守り、利益を得ようとしていました。しかし、これは異教のならわしを再びイスラエルに持ちこむことになり、神のみこころを痛めることでした。物質的な再建が進んでも霊的には再建されていない状況をエズラは嘆いて、涙ながらに悔改めの祈りをささげました。 もどる

エズラ記10章 神殿での祈りから立ち上がったエズラは、果敢に事を行い、周辺の民俗と縁を結んだものたちを調べあげ、その処分に向かいました。神の前に座して祈ることと、そこから立ち上がって事を行うこと、このふたつはいつも信仰によってむすびつけられていなければなりません。 もどる