歴代誌第二1章 神はソロモンに「あなたに何を与えようか。願え」(7節)と言われました。主イエスが「あなたがたの父なる神は、あなたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」(マタイ6:8)と言われたのは、神は願わずとも与えるという意味ではありません。神がソロモンに「願え」と言われたのは、ソロモンに自覚的に知恵を求めさせるためでした。知らない間に与えられたものは正しく用いることはできないでしょう。求めて与えられたものでなければ身に着きません。神は私たちが願うこと、祈ることを求めておられます。 もどる

歴代誌第二2章 ソロモンはツロの王フラムに「私たちの神はすべての神々にまさって偉大な神」(5節)であるとあかしし、フラムも「天と地とをお造りになったイスラエルの神、主はほむべきかな」(12節)と返答しています。フラムはダビデやソロモンとの交友を通して、まことの神に心を寄せるようになったのでしょう。ダビデやソロモンは、政治の世界の中でも神をあかししました。私たちも、それぞれの場所で神をあかしするものとなりたいものです。 もどる

歴代誌第二3章 神殿の壁、至聖所の中、至聖所の垂れ幕にはケルビムが彫られたり、鋳造されたり、縫いつけられ(7,10,14節)、神殿の扉にもなつめやしの花模様と共に彫りこまれていました(列王第一6:32,35)。ケルビムは天使の一種で、神のそば近くいて、神を礼拝し、神の栄光と聖さをあらわしています。神殿のケルビムは、神殿が神の栄光が表わされるところであり、この栄光の神を礼拝するところであることを示しています。神殿のケルビムは、神の民を礼拝に招いているのです。 もどる

歴代誌第二4章 神殿には、祭司が身体を洗うための「海」と、全焼のいけにえを洗う「洗盤」が置かれていました。ヘブル人への手紙にある「きよめの洗い」(ヘブル6:2)は、祭司やいけにえの洗いについて触れていると思われます。このことは、神にささげられるものや神のために働く者が、きよめられたものでなければならないということを教えています。 もどる

歴代誌第二5章 神殿に契約の箱を運びこむことは、聖書の規定のとおり、レビ人たちによってなされました。レビ人は、また、シンバル、琴、立琴、ラッパ、さまざまな楽器とともに賛美を歌いました。「主の栄光が神の宮に満ちた」(14節)のはその時でした。この章は、神が私たちに心からの礼拝を、聖書の規定にしたがってなされることを求めておられることを教えています。 もどる

歴代誌第二6章 ソロモンは、罪を犯して敵に打ち負かされた時、罪を犯して雨が降らなかった時、わざわいや病気の時、外国軍に捕らわれていった時のことを祈っています。神への祈りは、勝利や繁栄、健康や安全を願い求めるだけのものではありません。それらが取り去られた時も、自分を振り返り、悔い改めて、なお神に近づくものでなければなりません。単に祝福を求めるだけでなく、「私を祝福された者にしてください」と祈るのです。 もどる

歴代誌第二7章 六章のソロモンの祈りに神は答えて、「わたしの名を呼び求めているわたしの民みずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(14節)と約束してくださいました。祈りには、謙虚さや悔い改めが必要ですが、何より、祈りを聞いてくださる主ご自身を求める信仰が必要です。主の「顔を慕い求める」ということばが、それを表しています。 もどる

歴代誌第二8章 ソロモンは「父ダビデの定め」に従い、「神の人ダビデの命令」のとおりに神殿を建て、そこでの礼拝様式を確立しました。ソロモンは、たんに父の遺志をついで神殿を建てたのではなく、神の命令に答えて神殿とそこでの礼拝を定めていったのです。神を信じる者たちは、親しい家族の中でも、気心の知れた教会の交わりの中でも、人間的な情愛だけで動くのでなく、その中に働く神の権威を認めてそれに従って働くのです。 もどる

歴代誌第二9章 ソロモンはその「知恵」によって広い地域を支配しました。私たちも人生のさまざまなことがらに振り回されるのでなく、それを治めるために、神からの知恵が必要です。神とそのご計画を知り、自分の人生の意味や目的を知ることのできる「知恵」を与えるのは、神のことば、聖書です。みことばによって敵より賢く、師より悟りがあり、老人よりわきまえのあるものとなることができるのです(詩篇119:97-100)。 もどる

歴代誌第二10章 ソロモンの治世はイスラエルに繁栄をもたらしましたが、あいつぐ大事業は国民の負担になりました(4節)。ソロモンの子レハブアムは長老たちの意見を斥け、若者たちのことばをとり入れました。長老たちの助言に示された神の知恵を求めなかったのです。「指導がないことによって民は倒れ、多くの助言者によって救いを得る。」(箴言11:14)とあるように、指導者は助言に耳を傾けなければ、レハブアムのように、国を二分してしまうのです。 もどる

歴代誌第二11章 北王国では主への礼拝が捨てられ、祭司たちは解任されました。それで北王国の祭司たちと主を求める人々とは南王国に移住しました。熱心な信仰者たちを迎え入れた南王国はそのことによって主の祝福を受けました。今日の韓国の教会が祝福を受けているのは、北朝鮮から逃れてきた熱心なクリスチャンたちによると言われているのと同じです。迫害を耐え、信仰を守り通した人々によって神のみわざがおしすすめられるのは、昔も今も同じです。 もどる

歴代誌第二12章 ユダの王レハブアムは、王国が確立すると、主の律法を捨てました。神に従う信仰者たちによって国が祝福されたのに、彼は、その祝福のみなもとである神への信仰を捨てたのです。そのため、ユダはエジプトに仕えなければならなくなりました。ものごとが順調に進むとき、それが当り前になり、自分を支えている神の恵みを忘れてしまいがちです。捨ててはいけないものが何であるかを知り、覚えるべきものをしっかりと覚えていましょう。 もどる

歴代誌第二13章 ヤロブアムのほうが、あきらかに優勢で、アビヤはヤロブアムの伏兵に背後から攻められました。この時、アビヤはヤロブアム軍の挟み撃ちにあったのですが、アビヤの軍が主に助けを求め、ヤロブアム軍を撃ち負かしました。主が味方しておられるものを、誰も撃ち負かすことはできないのです(ローマ8:31)。 もどる

歴代誌第二14章 アサ王は「力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません」(11節)と祈りました。信仰者は、これぐらいなら出来そうだ、こんなことはとてもダメだと判断する前に、神の力を考えに入れます。神の助けがなければ九十パーセント大丈夫と思えても残りの十パーセントのために失敗することがありますし、主の助けがあれば十パーセントの力しかなくても可能になります。主の力によってすべてが可能となるのです(ピリピ4:13)。 もどる

歴代誌第二15章 アザルヤは「力を落してはなりません。あなたがたの働きには報いが伴っているからです」(7節)と言ってアサ王を励ましました。アサは、神からの預言のことばに力づけられて、宗教改革を断行しました。神は、常に、神のことばによって私たちを励ましてくださいます。神のことばに従う時、そこには報いがあります。神のことばは結果をもたらすのです。 もどる

歴代誌第二16章 アサ王を慕ってイスラエルからユダに移住する人々が絶えなかったので(15:9)、イスラエルの王バシャはラマに要塞を築いて国境の監視を厳重にしました。アサはこの要塞を破壊するのに、アラムの王ベン・ハダデに頼りました。しかし、このことは主のみこころを損ないました。神は「その心がご自分と全く一つになっている人々に、御力をあらわしてくださる」(9節)お方です。目先の策略に頼らず、いつも神の思いを自分の思いとするようつとめましょう。 もどる

歴代誌第二17章 ヨシャパテは、一般民衆にみことばを教え、人々が信仰を成長させることができるようにと、つかさ、レビ人、祭司をユダの各地に遣わしています。このように、みことばの知識や信仰の訓練は、今日の教会においても、一般信徒のレベルから高められていかなくてはなりません。キリスト教会は歴史の中ですぐれた指導者を生み出し、それらの人々は社会に良い感化をもたらしました。それは素晴しいことですが、それとともに、どのクリスチャンもしっかりとキリストをあかしできる者になっていくことも大切なことなのです。 もどる

歴代誌第二18章 イスラエルにも主の預言者がいましたが、彼らは神のことばを求めるよりは、王が気に入ることだけを語るようになっていました。その中でミカヤだけがまことの預言者として神からのことばを語りました。イスラエルの王アハブはミカヤのことばの通り、アラムの王との戦いで命を落してしまいます。アハブは、ミカヤが常に神のことばを語るのを知っていながら、それに聞かなかったため、滅びを招いたのです。 もどる

歴代誌第二19章 ヨシャパテは敬虔な王でしたが、イスラエルのアハブの婿になることによってアハブのバアル崇拝に加担する者になってしまいました。預言者エフーは「悪者を助けるべきでしょうか。あなたは主を憎む者たちを愛してよいのでしょうか。」(19:2)とヨシャパテを責めました。クリスチャンは、愛やゆるし、交わりや一致を大切にしますので、信仰的に異義のあるものでも、強く反対しないで受け入れてしまう傾向があります。クリスチャンには、愛に背き、ゆるしを台無しにし、交わりを傷つけ、一致を損なうものを拒否する勇気も必要です。 もどる

歴代誌第二20章 ヨシャパテは、外国軍に囲まれた時、神に助けを呼び求めました。なぜなら、神はたんにイスラエルの神だけではなく、諸国を治めておられる、全世界の主であるからです(6,7節)。次に、ヨシャパテは祈りに聞いてくださるという神の約束を信じて祈っています(8,9節)。そしてヨシャパテは、ただあるがまま、自分たちの無力を神の前にさらけ出しています(10-12節)。このような徹底したへりくだりが、ユダを救ったのです。 もどる

歴代誌第二21章 ヨシャパテがアハブ家と縁を結んだため、彼の子ヨラムの時代にはバアル礼拝がユダにも入りこみました。ヨラムと妻アタルヤは各地にバアルの礼拝所をつくり、バアルの祭司を任命し、バアル礼拝のために主の宮の聖なる器具を使いました。神の民が自分たちの神を捨て、偶像礼拝に向かったことは「淫行」と呼ばれました。神の愛を受けているものが、他の神々を礼拝することは、神の愛への裏切りだからです。神は、神に背いた者たちが神に立ち返るのを待っておられます。神に愛されている者は、神を愛すること以外には幸せにはなれないからです。 もどる

歴代誌第二22章 ヨラムが死にヨラムの子アハズヤが王となりましたが、アハズヤもヨラムと同じように悪を行いました。彼もまたアハブ家を縁を結び、アハブ家の人々の助言を聞いたからです(3-4節)。神から出た正しい助言は、国を富ませますが、間違った助言は国を滅ぼします。私たちも、誰に聞くべきか、何に耳を傾けるべきか、よく考えて行動しなければなりません。神のことばに聞き、神に従う人々の助言に耳を傾けることをこころがけましょう。 もどる

歴代誌第二23章 アハズヤの死後、その母アタルヤが王位に着き、ユダの家に属するものを皆殺しにしようとしましたが、祭司エホヤダはヨアシュをかくまい、わずか七歳のヨアシュを王に立てました。この時、エホヤダはヨアシュに王冠をかぶらせるとともに「さとしの書」を渡しました。それは、神の民の王は、人の上に立つとともに神のしもべとなって神のことばに従うものであることを教えるためでした。ヨアシュは幼い時から神に従うことを教えられたのです。 もどる

歴代誌第二24章 アハブ礼拝のために神殿がはぎとられたので、神殿はみすぼらしい姿になっていまいた。ヨアシュは主の宮の修築を手掛けましたが、十分なお金がなかったので、それは進みませんでした。それで、献金の箱を設け、ユダとエルサレムの人々によびかけたところ、献金箱は毎日いっぱいになりました。主の宮は、常に、すすんでささげる人々のささげものによって建てられていくのです。 もどる

歴代誌第二25章 ヨアシュはエホヤダの死後、主から離れたため、アラム軍に負け、病気になり、家来に殺されてしまいます。ヨアシュにかわって王となったアマツヤも主に対して全き者ではありませんでした。彼はユダの軍を強くするためにイスラエルから銀百タラントで、十万人の兵士を雇いました。アマツヤは、神の人(預言者)から、イスラエルの兵士を共に戦わせてはいけないと言われた時、彼らに与えた銀百タラントを惜しみました。しかし、預言者の答えは「主は、それよりも多くのものをあなたに与えることがおできになります。」(9節)というものでした。これは、この世の小さなものを惜しんで神の大きな祝福を逃しやすい私たちへの警告のことばでもあります。 もどる

歴代誌第二26章 ウジヤは農業と軍事に力を入れ、新兵器を開発して国を強くしましたが、強くなるにしたがって高ぶり、祭司の領域を侵そうとしました。ウジヤは神の「助けを得て」強くなったのに(15節)、その神の定めに挑戦し、自らに滅びを招いてしまったのです(16節)。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:12)とあるとおりです。 もどる

歴代誌第二27章 ウジヤの後に王となったヨタムは、神に従う王でした。民は滅びに向かってはいましたが、ヨタムは、国を復興させました。ヨタムが勢力を増し加えたのは「主の前に、自分の道を確かなものとしたから」(6節)です。神によって自分の歩むべき道を与えられている人、その道を踏み外さずに歩む人はさいわいです。 もどる

歴代誌第二28章 アハズは父ウジヤと違ってあらゆる外国の神々を拝みました。その結果、アラム、イスラエル、エドム、ペリシテに攻め込まれ、窮地に立たされました。それなのに、神に助けを求めず、アッシリヤに頼りました。アッシリヤはユダを助けるどころか、ユダの弱みにつけこんで、ユダを悩ましました。これらはすべてアハズの不信の罪から来ているにもかかわらず、彼は悔い改めることもせず、強い国の神々を拝めばユダも強くなれると考えて、ますます偶像礼拝に落ち込んでいったのでした。 もどる

歴代誌第二29章 ヒゼキヤはアハズが閉じた主の宮の戸を再び開き、主の宮を「聖別」しました(3節)。祭司やレビ人たちは、多くのいけにえをささげ、さんびを歌い、かってのような礼拝が再開されました。本当の礼拝には聖別が伴わなければなりません。礼拝とは聖なる方を聖なる方としてあがめることですから、時間を聖別し、場所を聖別し、礼拝する者も自らを聖別するのです。聖なる方をあがめる礼拝は、私たちが自らを聖別していくことでもあるのです。神への礼拝のつどいが「聖会」と呼ばれるのは、このような意味から来ています。 もどる

歴代誌第二30章 ヒゼキヤの治世のはじめに、北王国イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、人々はアッシリヤに連れていかれました。ヒゼキヤは残されたイスラエルの人々を過越の祭に招きましたが、人々は招きのことばを聞こうともせず、使者を物笑いにし、あざけりました。使者を拒む者は、王をも拒むのです。王であるイエスは、そのしもべたちを用いて、私たちを救いに招いておられます。王なるお方の招きにこたえ、私たちも大きな喜びの祭に加わりましょう。 もどる

歴代誌第二31章 祭司たちはイスラエルのうちに割り当て地を持たず、十分の一のささげものによって養われていました。人々の信仰が低迷し、十分の一がささげられなくなると、祭司たちは、生活のため祭司の務めに専念できなくなっていました。しかし、人々の信仰が復興し、十分の一のささげものが山のように積まれ、それによって祭司たちへの分配が行き届き、祭司たちはふたたび本来の務めに専念できるようになりました。信仰のささげものが、国を豊かにし、ひいてはささげる人をも祝福する良い例がここにあります。 もどる

歴代誌第二32章 アッシリヤが攻めてきた時、ヒゼキヤは「彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である」(8節)と言って人々を励ましました。「肉の腕」というのは「人間の力」という意味です。人の腕は弱まり、折れ、ついには支えきれなくなるでしょう。しかし、神の「永遠の腕」(申命記33:27)は決して弱まることなく、私たちを支え続けるのです。 もどる

歴代誌第二33章 マナセは父ヒゼキヤの行なった良いことをすべて壊し、主の目に悪を行いました。イエスラエルの歴史にかぎらず、後継者が前任者の打ち立てた良いものを引き継ぎ、それをさらに立てあげていくことをせず、それを壊していくのは、悲しいことです。良いものを何代にもわたって育てあげていく努力が欲しいものです。 もどる

歴代誌第二34章 ヨシヤはエルサレムから偶像を取り除き、荒れ果てた宮を修理しました。その結果ヨシヤは神のことばを見つけ出しました。みことばは、捨てるべきものを捨て、守るべきものを守る信仰のコミットメントによってはじめて、私たちのものとなるのです。 もどる

歴代誌第二35章 イザヤはヒゼキヤ王と深いかかわりがあり、エレミヤはヨシヤ王の死を悼んで哀歌を作っています。イザヤやエレミヤといった預言者たちが祭司たちと共に、信仰復興にかかわった王たちを支えました。リバイバルのためには、王と祭司、そして預言者にそれぞれに果たすべき役割があるように思います。あなたの役割は何でしょうか。 もどる

歴代誌第二36章 歴代誌は、エルサレム陥落で終わらず、クロス王の託宣で終わっています。エルサレムは人々の罪のゆえに滅び、神殿は壊されました。しかし、神の恵みは、はるかに高く、エルサレムはふたたびあわれみを受け、神殿再建の良いおとずれを聞くのです。歴代誌のテーマは「復興」です。この書から信仰復興の鍵を学ぶ人は幸いです。 もどる