歴代誌第一1章 歴代誌はアダムからはじまってイスラエル十二部族の系図を書いています。この系図を見ると、イスラエルに王が立てられる以前からエドムには王たち、首長たちがいたことが分かります。イスラエルは政治的には他の民族にくらべて遅れていました。しかし霊的には選ばれた神の民でした。霊的なものは、かならずしも、この世の基準では測れないものなのです。 もどる

歴代誌第一2章 イスラエルの十二部族のはじめにダビデにいたるユダの系図がしるされています。ダビデはエッサイの七男で末っ子でしたが、神に選ばれて王となります。これは、ダビデに油を注いだサムエルも予想していなかったことでした(サムエル第一16:6-10)。神の選びは、私たちには常に「不思議」です。これは、「血筋」によらない救いがキリストによって与えられることを予告しています(ヨハネ1:12)。 もどる

歴代誌第一3章 ダビデの子孫の系図が書かれ、ダビデの子たちが約束の通り、イスラエルの王、またユダの王となったことが分かります。バビロン移住以降の系図はマタイ1:12-16に引き継がれ、キリストに至ります。ダビデに与えられた約束が本当に成就したのはキリストによってだったのです。 もどる

歴代誌第一4章 ここには有名な「ヤベツの祈り」があります(10節)。ヤベツは苦しみの中から神に祈り、その逆境を克服しました。逆境に会う時は、「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)とのみことばを思い起こしましょう。 もどる

歴代誌第一5章 ルベンはイスラエルの長子でしたが、長子の特権を失いました。それで歴代誌は系図を長幼の順でなく、ユダから書きはじめています。キリストはユダ族から出るからです。イサクもヤコブも長子ではありませんでしたが、神の選びにあずかっています。ここにも神の選びの不思議さを見ます。 もどる

歴代誌第一6章 レビ族は祭司として幕屋と神殿で主に仕えました。賛美は祭司たちの奉仕の大切な分野で、彼らは「歌をもって仕え」ました。キリストの犠牲がささげられた今は動物のいけにえをささげる必要はなくなりましたが、私たちも「賛美のいけにえ」はささげることができるのです。 もどる

歴代誌第一7章 ヨセフはエジプトの宰相となったのでイスラエルの系図には載らず、ヨセフのかわりに、彼の子どもたち、エフライムとマナセとがそれぞれ一部族となります。ヨセフは兄弟たちによって多くのものを失い、命までも失いそうになりましたが、神は彼に二倍の祝福を与えたのです。マナセが兄でエフライムは弟でしたが、ヤコブは弟のエフライムに右手を置いて祝福しました(創世記48:14-20)。エフライムからはイスラエルを約束の地に導き入れたヨシュアが出ます。イスラエルの系図を見ると人間の思いを越えた神の祝福が働いて、私たちの人生を豊かにしてくれることを知ることができます。 もどる

歴代誌第一8章 イスラエルの系図の最後はベニヤミン族です。ベニヤミンはヤコブの末っ子で小さい部族でした。しかし、ここからイスラエルの最初の王サウルが出ました。神は、小さい者であれ、大きい者であれ、共に用いてくださるお方であることが分かります。 もどる

歴代誌第一9章 「彼らの町々に最初に住みついたのは…」(2節)とあるのは、バビロンから帰ってきた人々のことです。ユダ、ベニヤミン、エフライム、マナセ族の人々と祭司、レビ人が荒れ果てたエルサレムに戻ってきてその再建を手掛けましたが、このとき指導的な役割を果たしたのが祭司やレビ人でした。彼らは「熟練した、力のある人々」(13節)でした。私たちも神のために、また他の人々のために奉仕するのに、熟練と力を求めましょう。受身的な奉仕だけでなく、リーダーシップをとることができる奉仕者となりましょう。 もどる

歴代誌第一10章 「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ」(13節)と、サウル王の悲しい結末がしるされています。「それで、主は彼を殺し」(14節)とあるように、サウルの死は神のさばきでしたが、同時に、それは彼の罪の結果でした。人は、みずからの罪のために死ぬのです。罪を悔い改めて救いを求める者に、神は命と祝福をくださいます。 もどる

歴代誌第一11章 「ダビデの勇士たちの名簿」(11節)が残されています。これを読むと、サウルが王であった時から、人々の心がダビデに向かっていたことがわかります。ダビデは権威によって人々を従えたのでなく、その誠意によって人々の信頼を勝ち取っていたことも知ることができます。ここは、本当のリーダーシップとはどのようなものかを物語っている箇所です。 もどる

歴代誌第一12章 人々は「心を一つにし」(33節)「誠実な心で」(38節)ダビデを王とするために集まりました。誠意は誠意によって答えられるのです。人々はダビデ王のもとに、ひとつの神の民となることができました。私たちも「ダビデの子」キリストのもとに、ひとつの神の民として一致をもって集まるのです。 もどる

歴代誌第一13章 王となったダビデが最初にしようとしたのは、神の箱をエルサレムに運びいれることでした。他の王なら、敵を滅ぼすことを第一に考えたかもしれませんが、ダビデは、イスラエルが神の民であることを知っていましたので、神への礼拝を第一にしたのです。社会にも、家庭にも、また個々の心の中にも「神の箱」、つまり神の臨在を第一にする時、平和と愛と信頼とを取り戻すことができるのです。 もどる

歴代誌第一14章 ダビデが王になったことを聞いたペリシテ人は彼の王国が定まらないうちにダビデを攻めておこうと考えて、イスラエルに攻撃をしかけてきました。彼らは神々の加護を願って、その像を戦場に持ってきましたが、ダビデに敗れて「自分たちの神々を置き去りにして」(12節)逃げていきました。目はあっても見ることができず、耳があっても聞くことのできない偶像に頼るものは恥を見るのです。 もどる

歴代誌第一15章 ダビデは、神の箱をエルサレムに運ぼうとして失敗しましたが、その理由を「レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。主は主の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。」(2節)と言っています。最初の失敗は、律法のとおりに、正しい方法とふさわしい人々を用いなかったことにありました。神のわざは、誰に、どのように働いていただくかが大切なのです。 もどる

歴代誌第一16章 契約の箱が運びこまれた時、数多くのいけにえがささげられましたが、同時に賛美もささげられました。この賛美は「毎日の日課」としてささげられました。「主に歌え。主にほめ歌を歌え。」(9節)「まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方」(25節)とあるように、日々、主を賛美しましょう。 もどる

歴代誌第一17章 ダビデは自分が立派な王宮に住んでいるのに、主の箱が天幕にあるのに心を痛めました。神殿を建てたいという彼の願いは、この時は聞き入れられませんでしたが、神はダビデの家を祝福し、永遠の王位を約束されました。主の家を愛する者は、その家が祝福されるとの約束があります。神の国とその義とを求める者には、自分のために求めた以上の祝福を受けるのです。 もどる

歴代誌第一18章 モアブは東に、ペリシテは西に、アマレクは南に、アラムは北にありました。イスラエルは四方を敵に囲まれながら、一刻、一刻主の守りによって生き延びてきました。このことは、神を信じる者も、この世にあっては、苦しみを避けられないことを教えています。それは、私たちが絶えず神に頼りながら生きていくためです。信仰によって生きるとは、神に頼らずともやっていけるところに置かれることではなく、絶えず、神に頼りながら生きることなのです。 もどる

歴代誌第一19章 聖書の戦争の記録は、私たちの人生の戦いにあてはめることができます。アモンはアラム兵を雇いましたが、彼らは自分の身を守ろうとするばかりでした。しかし、ダビデの家来たちはダビデに命をささげた人々で、劣勢をはね返してアモンに勝利しています。人生の戦いにおいても「主のために」という思いで事にあたるなら、私たちは思う以上の勝利を得ることができるのです。 もどる

歴代誌第一20章 この章にはヨアブ、シベカイ、エルハナン、シムアの子ヨナタンらの活躍がしるされています。ダビデには、このように多くの勇士たちがいて、彼らが力を合わせたので、勝利につぐ、勝利を得ることができました。信仰の戦いにおいても、主の兵士たちが、主のために心をあわせ、力をあわせるなら、どんなに強い敵にも立ち向かうことができるのです。 もどる

歴代誌第一21章 ダビデが民の数の多いことに頼った時、神は疫病で七万人もの民を打たれました。ダビデは、彼の慢心によって、かえって民の数を減らすことになってしまいました。私たちが神以外のものに頼ろうとする時、神は、私たちが頼るものを打たれるのです。 もどる

歴代誌第一22章 ダビデ自身は神殿を建てることができなかったが、そのために土地を買い取り、石材、鉄、青銅、杉材などを準備しました。神のための働きの中には、一世代だけで完成できないものもあります。それは世代から世代へと引き継がれていかなくてはなりません。そのためにも次世代に引き継ぐことのできる確かなヴィジョンを持ちたいものです。 もどる

歴代誌第一23章 ダビデは神の宮のために資材を用意しただけでなく、その宮で仕えるべき人々を備えました。つまり、レビ人たちを組織しました。神のわざのために建物や備品は必要です。しかし、すべてのものが揃い、整えられていても、それを主のために用いることのできる人材がなければ、それらのものは生かされません。神は、なによりも、人材を求めておられます。私たちも神の求めに答えて、その働きのために整えられようではありませんか。 もどる

歴代誌第一24章 ダビデによってなされた祭司の組み分けは、新約時代にまで続いています。バプテスマのヨハネの父ザカリヤは第八の組「アビヤの組」(10節)に属していました。神の宮での奉仕には長幼の区別がなく、かしら(長男)も弟も同じように扱われました(31節)。主への奉仕においては、熟練を目指すべきですが、若い者たちも経験がないからといって奉仕から退かず、それぞれが自分の最善をささげれば良いのです。 もどる

歴代誌第一25章 聖歌隊も二十四組にわけられて、それぞれ当番で奉仕をしました。「下の者も上の者も、達人も弟子も、みな同じように任務のためのくじを引」きました(8節)。賛美の奉仕においても、それぞれの技量に応じて、それぞれが最善を主にささげました。賜物に応じて皆が一致して主のために働く喜びにあずかりましよう。 もどる

歴代誌第一26章 レビ人は、門衛、宝物倉の管理人、地方のつかさとしても働きました。門衛は、その中で一番目立たない仕事だったかもしれませんが、ダビデは「あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」(詩篇84:10)と歌っています。主のための奉仕は、それによって人に認められるかどうかより、それによってどれだけ主の近くにあることができるかどうかが問われるべきものなのです。 もどる

歴代誌第一27章 レビ人の組織のあとに、軍団の組織がしるされています。これは、イスラエルがまさに「祭司の国」で、まず神に仕えることが優先されるべきことを教えています。ダビデの軍隊は優秀な軍隊でしたが、ダビデは軍隊だけが国を守るものではないこと、神からの霊的な守りがなければ、国が成り立たないことを良く知っていて、そのことを第一にしたのでした。 もどる

歴代誌第一28章 ダビデはソロモンに「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから—。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。」(20節)と言いました。これは、モーセがヨシュアにイスラエルの民を委ねて言ったことばとほぼ同じです(申命記31:8)。ダビデが世を去っても、時代が変わっても「主がともにいてくださる」のです。ソロモンは主によって神殿建設という大事業にとりかかるのでした。 もどる

歴代誌第一29章 「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳はあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。」(11節)とのダビデの賛美は、教会で唱える「主の祈り」に取り入れられました。ダビデはここで神殿のための資材をささげただけでなく、イスラエルの国のすべてをささげて神をほめたたえています。「主の祈り」を祈るたびに、主にささげる賛美の思いをこころに刻みましょう。 もどる