サムエル記第二1章 ダビデの歌った、サウルとヨナタンへの追悼の歌は、心からのものでした。サウルはダビデを敵とみなしましたが、ダビデは終始サウルを「主に油そそがれた方」(14節)とみなしました。だからこそ、ダビデはサウルに代わってイスラエルの王となることができたのです。主を愛する愛を持っていたダビデは、主にあってサウルを見ていたのです。私たちも他の人をキリストにある人(ローマ14:15)として見ようではありませんか。 もどる

サムエル記第二2章 サウルの将軍アブネルはサウルの子イシュ・ボシェテを立てたので、ユダ族以外はそれに従い、イスラエルにはふたりの王が立つことになりました。また、アブネルがヨアブの兄弟アサエルを殺したため、アブネルとダビデの将軍ヨアブとの間にも無益な争いが起こるようになりました。同族どうしの憎しみほど始末におえないものはありません。兄弟がともに相和して住む平和(詩篇132:1)を祈り求めたいものです。 もどる

サムエル記第二3章 ダビデは平和のうちにサウルの家を統合しようと、アブネルと交渉をはじめたのですが、ヨアブは兄弟の仇をとるため、アブネルをだまし討ちにしてしまいました。ヨアブは、アブネルを迎えたなら、彼に自分の地位を奪われると考えたのかもしれません。ダビデの王国はまだ確立しておらず、ダビデはヨアブの独走を抑えることが出来ませんでした。 もどる

サムエル記第二4章 将軍アブネルの死によって後ろ盾を失ったイシュ・ボシェテはふたりの悪党によって殺されてしまいます。イシュ・ボシェテの首を持っていったふたりは、ダビデから恩賞をもらえると思ったのでしょうが、彼らは即座に死刑にされてしまいます。ふたりの悪党は、自分たちの基準でダビデの心を見ていたのですが、ダビデは、彼らとは違った基準でものごとを見ていました。彼はいつも主を前において物事を判断していたのです。 もどる

サムエル記第二5章 ダビデは全イスラエルの王となり、エブス人が占拠していたエルサレムを落とし、そこを新しい国家の首都としました。今までどの部族にも属していなかった町を選ぶことによって、どの部族にもかたよらない中立的な王国を作ろうとしたのです。彼は王になってもおごらず、ペリシテとの戦いも主に祈りつつ行い、「主は…私の敵を破られた。」(20節)と、神に栄光を返しています。ダビデの繁栄の秘訣は、人にではなく、主に頼ったことにあります。「万軍の神、主が彼とともにおられた」(10節)というのは、すばらしい証しです。 もどる

サムエル記第二6章 ダビデが、最初、神の箱をエルサレムに運び込むことができなかったのは、それを車に載せて運ぼうとしたからでした。契約の箱は聖書にあるとおり、祭司たちによってかついで運ばれなければならなかったのです。礼拝は、神を慕う熱い思いとともに、みことばの知識によってはじめて、正しく捧げられるのです。 もどる

サムエル記第二7章 契約の箱は、出エジプト以来の天幕に収められていました。ダビデはそのことに心を痛めて、神殿をつくりたいと願います。神は、ダビデの子が神殿をつくると預言されます。これはソロモンのことですが、同時に、ダビデの子孫として生まれ、霊的な神の家をつくられたキリストをさしています。キリストはご自分のからだを「神の宮」と呼びました。ですから、キリストのからだである教会もまた、神の家、聖霊の宮となるのです。 もどる

サムエル記第二8章 ダビデは戦利品を自分のものにせず、それを聖別して主にささげました(11節)。ここに、ダビデの私利私欲のない姿とともに、神のことばのとおり、それらを神殿の資材として捧げた彼の信仰を見ることができます。「あなたの子が神殿を建てる」との約束をダビデはその通り信じ、それに従って行動したのです。 もどる

サムエル記第二9章 ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデとヨナタンとの契約(サムエル第一20:14-15)のゆえに、ダビデの子のようにして迎えられます。政治家としてのダビデは、さまざまな駆け引きをしなければならなかったでしょうが、根底には、神との契約に生きる誠実な姿勢がありました。それがダビデの繁栄の秘訣でした。今日、キリストを信じる者も、キリストによって立てられた契約によって、神の家族に、神の子として迎えられます。メフィボシェテのことは、かわらない神の契約の愛を私たちに示しています。 もどる

サムエル記第二10章 ヨナタンに誠意をつくしたダビデは、アモンに対しても誠意をしめそうとするのですが、ナハシュはダビデに下心があるのだろうと疑い、そこから戦争がはじまりました。イスラエルとアモンの友好関係は崩れましたが、これを機にアモンとアラムの同盟はこわれ、この地域の脅威となっていたものが取り除かれます。ダビデのアモンに対する誠意は、アモンに受け入れられませんでしたが、無駄にはならず、結果として、周辺諸国の平和に役立ったのです。 もどる

サムエル記第二11章 いままで、主のみこころに従ってきたダビデは、ここで大きな罪を犯します。姦淫と殺人の罪です。しかも、自分の罪を隠すために、自分の忠実な部下を殺すという、まったくダビデらしくないことをしてしまうのです。他の国では、権力者には許されていたことでも、イスラエルの王にはこのことは許されてはいません。人の目をごまかせても、神の目から隠れていることはできません。「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。」(27節)とは、なんとも残念なことばです。 もどる

サムエル記第二12章 神は、預言者ナタンを遣わしてダビデに悔い改めを迫りました。もし、神が直接ダビデを戒めたなら、それは厳しいものとなったでしょう。神は、多くの場合、私たちの身近な人々を用いて、私たちを責められますが、それは、神のあわれみなのです。ダビデはナタンのことばを素直に聞いて「私は主に対して罪を犯した」(13節)と告白しました。ダビデとサウルの違いは、素直に悔い改めるか、悔い改めないかにありました。ダビデは悔い改めによってなお神の恵みにとどまることができました。私たちも、神のあわれみの示されている間に神に立ち帰りましょう。 もどる

サムエル記第二13章 多くの妻と子を持ったダビデはそのことで悩まされます。王の子たちは生まれながらの特権を持ち、わがままが生じやすいので、さまざまなトラブルがありました。アムノンとタマルのことは、アブシャロムがアムノンを殺して逃亡するという大事件に発展しました。ダビデの家に起こったこのような騒動の中でダビデはただ嘆き悲しむだけで、王として、また父親としての指導力を失ってしまいます。これは、罪がどのようにして私たちの力を失わせるかを示す一例です。 もどる

サムエル記第二14章 アブシャロムは三年の間、ダビデのもとから逃れていましたが、ヨアブの仲介によってエルサレムに戻り、二年の蟄居の後、ダビデにゆるされて、公けの場に復帰します。アブシャロムがエルサレムに戻ってきたことは、ダビデに大きな禍いをもたらすのですが、この時のダビデにはそれを見抜く目がありませんでした。 もどる

サムエル記第二15章 アブシャロムはアヒトフェルを参謀につけて、クーデターを決行しました。エルサレムを戦場にするのを避けるため、ダビデはエルサレムを逃れることにします。わが子に背かれ、王位を追われるダビデの心中はどんなだったでしょうか。この時、ダビデは神の箱を持ってきた祭司に命じてそれをエルサレムに戻させます。ダビデは神を自分の意のままに自分の味方につけようとしたのでなく、自分を神のみこころにかなうものにしようと決心したのです。 もどる

サムエル記第二16章 イタイのようにダビデに従い続けた人もあれば、シムイのようにダビデを呪う者もありました。ダビデが王である間は、だれしもその権威を恐れてダビデにひれ伏したでしょうが、王位を追われたダビデに対して、人々はその本性を表わしたのです。真実な人は、自分の友がどんな状態になってもその真実を変えることはありません。「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」(箴言17:17)。イエスは私たちの真実な友となってくださいます。 もどる

サムエル記第二17章 アヒトフェルの計略は、フィシャイによって覆されました。これはフィシャイの雄弁によるのでなく、「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものとしてください。」(サムエル記第二15:31)との祈りの答えでした。祈りは、どんな人間の知恵よりも力があり、神のみこころを成就させるのです。神は「エジプト人が心に計っていることは混乱する。わたしがその計画をくつがえす。」「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。」(イザヤ19:3、46:10)と言われます。 もどる

サムエル記第二18章 ダビデはアブシャロムの死を聞いて、「わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」と嘆きます。自分に逆らった子であってもそのために嘆き悲しむダビデの思いは、神に逆らい、離れていった罪人のために嘆いておられる神の思いでもあります。ダビデはアブシャロムの代わりに死ぬことはできませんでしたが、神は、御子イエスを罪人の身代りに死なせました。神のこれほどの愛を私たちはどう受け止めているでしょうか。 もどる

サムエル記第二19章 ダビデが王位に復帰すると、かつてダビデをのろったシムイは、ダビデに命乞いにやってきました。シムイの態度は謙虚に見えますが、それは保身のためにすぎませんでした。一方、追われてきたダビデをささえたバルジライは、ダビデから与えらえる報償を断わっています。バルジライは真実なダビデの友でした。人の真実は、報酬にどう応答するかによっても試されます。 もどる

サムエル記第二20章 アベルの町を救ったのはひとりの名もない女性でした。彼女には、反逆者をねじふせる力はありませんでしたが、その男を引き渡すだけの知恵がありました。聖書は多くの箇所で知恵のもつ力について触れていますが、このエピソードは神からの知恵がどんなに大きく働くかを教えています。 もどる

サムエル記第二21章 この章からはサムエル記の付録にあたる部分で、時間的順序のまちまちないくつかのエピソードがおりこまれており、まず、ダビデとサウルの家との関係が書かれています。ダビデはギブオン人との契約を大切にしましたが、同時にヨナタンとの契約を守ってメフィボシェテをギブオン人に引き渡すことをしませんでした。神との契約に忠実なダビデは、人との契約にも忠実でした。 もどる

サムエル記第二22章 ダビデは神を「わが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神、わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。ほめたたえられる方」(2-4節)と十の呼び名で神にかたりかけています。これはダビデが神と深くまじわり、神のあらゆる面を深く知っていたことを教えています。まさにダビデにとって「主は生きておられる」(47節)お方でした。 もどる

サムエル記第二23章 ダビデを支えた勇士たちの名があげられています。その中でも三人の勇士たちは、大きな働きをしました。どの世界でも、部下が忠実な人々でなければリーダは力を発揮することができず、リーダが誠実でなければ、部下もその能力を生かすことはできません。ダビデとその部下たちのチームワークがイスラエルを守り、支えたのです。 もどる

サムエル記第二24章 この時代の人口調査は統計のためではなく、徴兵のためであり、国民を王の奴隷にするためのものでした。イスラエルは、神の民であり、たとえダビデが良い王であったとしても、王の奴隷となってはならないのです。それで、神はダビデがしようとしたことに干渉されました。ダビデは神の干渉を受けるとそれを悔い改め、全国民とともに祈りました。「主が、この国の祈りに心を動かされた」ということばが25節にあるように、この国も神の心を動かす祈りをささげることができるなら幸いです。 もどる