サムエル記第一1章 ハンナは主の宮に来て、嘆きと涙をもって、激しく神に求めました。しかし、神からの答えを得た後は、晴れやかな顔になって、喜びのうちに食事をしました。「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」(18節)とあります。こころからの祈りと礼拝は、このように、私たちを造り変える力をもっています。神の約束を得るまで、私たちのこころが変えられるまで、祈り求め、神に近づきましょう。 もどる

サムエル記第一2章 エリの息子たちは「よこしまな者」(12節)で、神はすでに彼らを退けていました。そして、かわりにサムエルを育てていました。神は、邪悪な人々がいつまでも上に立つのを許されません。次世代の指導者を育てています。私たちも次世代の指導者のため祈りましょう。 もどる

サムエル記第一3章 人とのコミュニケーションで大切なのは「聞く」ことだと言われます。「話す」ことよりも聞くことにつとめたら、お互いの関係はもっとよくなるだろうと言われます。それは神とのコミュニケーションでも同じです。「お話しください。しもべは聞いております。」(10節)と、神の語りかけを聞こうとするこころがあるなら、私たちは神のことばを自分のものとすることができるのです。 もどる

サムエル記第一4章 ユダヤの人々は、契約の箱を担ぎ出せばペリシテ人に勝てると考えました。ところが、神の箱が来たことを知ったペリシテ人は、それによってかえって危機感をいだき、死にものぐるいで戦ったので、イスラエルは惨敗してしまいました。契約の箱は偶像ではありません。勝利は、神への信頼という内面の信仰から来るのです。 もどる

サムエル記第一5章 イスラエルは契約の箱を使って敵に勝とうとしましたが、神は契約の箱をイスラエルの思うままには使わせませんでした。契約の箱は魔法の箱ではなかったのです。しかし、神はぺリシテ人には、それがただの箱ではないことを示しました。契約の箱のゆえにさまざまな災いがペリシテに臨んだのです。イスラエルは契約の箱によって神の栄光をあらわさなかったので、神ご自身が、契約の箱を用いて栄光をあらわしたのです。 もどる

サムエル記第一6章 ぺリシテ人は、彼らに災いをもたらしたのが、イスラエルの神の箱なのか、それとも偶然なのかを知ろうと、乳を飲ませている雌牛に契約の箱を運ばせました。普通なら子牛のほうに向かていくはずの雌牛が、子牛には目もくれず、イスラエルのほうにまっすぐ向かいました。これは、ぺリシテに起こった災いが偶然ではなく、神によるものであることを証明しました。契約の箱は、神みずからの力によってイスラエルの地に戻りました。 もどる

サムエル記第一7章 「私にできるのは祈るだけです。」と申し訳けなさそうに言う人がいますが、こころを込めたとりなしの祈りは、他のどんな奉仕にもまさる奉仕です。人々は、無意識のうちにも祈りの力を知っています。祈られるのは迷惑だと考える人はごくわずかで、私たちの祈りに期待を寄せています。イスラエルの人々がサムエルに「主に叫ぶのをやめないでください。」と願ったように、無言のうちにも、私たちの祈りを要請しています。人々のため祈り続けましょう。 もどる

サムエル記第一8章 神の民は他の国を見てそれにならうのでなく、神のことばを聞いてそれに従わなくてはならないのに、彼らは「ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」(5節)とサムエルに願い出ました。イスラエルのまことの王は神であるのに、人々は神に頼るかわりに、目に見える王に頼ろうとしたのです。神は、イスラエルに王を与えますが、神は、彼らが正しい動機で、神のしもべである王を求めることを願っていました。 もどる

サムエル記第一9章 サウルはろば捜しを発端にしてサムエルのもとに導かれます。サウルはサムエルのことを知りませんでしたが、サムエルにはサウルのことが知らされていて、サムエルはサウルに、神の選びを告げました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)とのみことばが思い浮かびます。わたしたちも神の選びの目で自分を見、与えられた使命を確認していきましょう。 もどる

サムエル記第一10章 神は全知全能のお方です。神は私たちの能力や知識に頼らずとも、偉大なみわざをなさることができます。神が私たちに求めておられるのは、神を信じる心、神を愛する心です。神は、サウルを用いる前に「サウルの心を変えて新しくされ」(9節)ましたが、私たちも同じようにしていただく必要があります。「用いてください」と祈る前に「用いられるにふさわしいものとしてください」と祈りましょう。 もどる

サムエル記第一11章 ヨルダンの川東にあったヤベシュ・ギルアデの人々はアモン人に苦しめられました。この町からの使者がサウルのところまで来た時、サウルは神の霊に満たされ、イスラエルの兵を指揮してアモン人を破りました。サウルを軽蔑した人々もサウルが王とされたことを認めざるを得なくなりました。士師の時代にさばきつかさによって民を救われた神は、今度は王を通して神の民を救い始められました。そして、ついに王の王であるキリストによって私たちを救い出してくださるのです。 もどる

サムエル記第一12章 イスラエルのリーダシップがサムエルの手からサウルに渡されようとする時、サムエルは厳しく民を戒めました。民が王に頼って神への信頼を忘れないためでした。サムエルは一線から退きますが、それでも、預言者、また祭司としての役割は続けます。人々のために祈るのは祭司のつとめだからです。現代の祭司とされた私たちも人々のために「祈るのをやめて主に罪を犯す」(23節)ことのないよう、務めましょう。 もどる

サムエル記第一13章 この時代、ペリシテ人は強く、ヘブル人の中にはペリシテ人に味方するものさえいました(14:21)。サウルは、ペリシテ軍の大きさに心を奪われ、神の助けを求めることをしませんでした。アモン人との戦いの時のように聖霊に満たされて敵に向いませんでした。神の力なしに、人は無力です。聖霊に満たされたという過去の体験を持っているだけでは不十分です。常に新しく聖霊の満たしを求めていくことによってのみ、勝利があります。 もどる

サムエル記第一14章 ペリシテ人との戦いではサウルの息子ヨナタンの活躍が目立ちます。ヨナタンは「主がわれわれに味方してくださる。」「主がお救いになる。」(6節)「主が彼らをわれわれの手に渡された。」(10節)と言っています。サウルは不信仰のゆえにペリシテ人を恐れましたが、ヨナタンは信仰によって恐れを乗り越えました。信仰のあるところに恐れはなく、恐れのない信仰が勝利をもたらすのです。 もどる

サムエル記第一15章 サウルはペリシテ人との戦いでも、アマレク人との戦いでも神のことばを守らなかったので、王位から斥けられました。彼は戦場で自ら命を絶つまでは形の上では王でしたが、王としての働きはできなくなってしまっていました。サウルが王であるのは、彼自身の力によってでなく、神の選びによってでした。ですからサウルが王であり続けるためには、神に従うことが必要だったのです。リーダにとって何よりも必要なものは、謙遜と服従をもって神との関係を保つことです。 もどる

サムエル記第一16章 サムエルはエッサイの長男を見て、彼こそ神が選んだ者だと思いましたが、神は、そうではないと答えました。人の見るところと、神の見るところは違うのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(7節)私たちはうわべを飾ることに懸命で、心を磨くことを怠りがちです。主が私たちをごらんになる時、主が私たちを喜んでいただけるような者でありたく思います。 もどる

サムエル記第一17章 ダビデがゴリアテに立ち向かったのは、神の名がさげすまれたからで、兄たちが言うように野心を持っていたからではありませんでした。神を愛したダビデは、神の名がさげすまれることは自分がさげすまれているように感じました。彼は、自分の名をあげることよりも、神の名があがめられることを願いました。この神への思い、つまり、信仰によって、ダビデはゴリアテを打ち負かしたのです。 もどる

サムエル記第一18章 ダビデはサウルにとって脅威になりました。それはダビデに人気があったからではなく、「主がダビデとともにおられた」(12,14,28)からです。主から離れている人は、主とともにある人を恐れ、憎みます。しかしヨナタンはダビデを愛しました。ヨナタンは主を愛したので、主を愛するダビデを愛したのです。神を信じる者たちは、主を愛さない人から憎まれることがあっても、主を愛する愛たちから、本当の愛で愛されるのです。 もどる

サムエル記第一19章 サウルはダビデに娘を与え、自分の婿にすることによって、ダビデを味方につけておこうとしました。しかし、それでも安心できず、ついにダビデを殺そうとします。サウルはダビデを捕まえるためにでかけていきますが、神の霊がそれをとどめました。聖霊に逆らっては人は何もできないことをサウルは学ぶべきだったのです。 もどる

サムエル記第一20章 ヨナタンは王子でしたが、王位は親から子へと引き継がれるのではなく、神から与えられることをわきまえていました。しかし、頭でわかっていても、王子の立場にある者が、他の人に与えられた神の選びを認め、そのゆえにその人を愛し、支援することは、容易にできることではありません。けれどもヨナタンはそれをなしとげました。ヨナタンはダビデに劣らない偉大な信仰のあかしを残しています。 もどる

サムエル記第一21章 祭司はダビデに備えのパンを与えました。ダビデはキリストのひな型として、王でありながら祭司に等しいものとして扱われたのです。主イエスはこの事例を引用して、「ここに宮よりも大きな者がいるのです。…人の子は安息日の主です。」(マタイ6,8)と言いました。主イエスは、王であり、祭司であり、預言者であるお方ですが、同時にそれ以上のお方、安息日に神の宮であがめられるべき主ご自身であると宣言されたのです。 もどる

サムエル記第一22章 ダビデのもとに彼の一族と困窮している者たちが集まり四百人ほどになりました(1,2節)。ダビデのまわりには常に彼をサポートする人々がいました。ダビデを支えたのは神ご自身ですが、ダビデは彼を支える人々をも与えられていました。私たちの人生と信仰の歩みも、このように私たちを励ましてくれる人々によって支えられています。そのことのゆえに神に感謝し、こうした人々とのまじわりを大切にしましょう。 もどる

サムエル記第一23章 ダビデのもとに集まった人たちは四百人から六百人に増えました(13節)。ダビデはこれらの人に支えられるとともに、彼らの指導者として行動しました。ダビデはサウルに追われる身であり、自分の安全を第一に考えなければならないのに、常に自分に従う人々のことを気遣いました。危険をかえりみないでケイラの町を助けに行きました。「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者はそれを救うのです。」(ルカ9:24)とのことばはここにもあてはまります。 もどる

サムエル記第一24章 サウルは何度もダビデを殺そうとしましたが、神はそれを許しませんでした。それとは反対にダビデにはサウルを手にかける機会が何度もありましたが、ダビデはそれを用いませんでした。神に逆らう人は神が禁じておられることを成し遂げようと力をふりしぼり、神に従う者はたとい機会があっても、神が禁じたものに手を出しません。神に従う者とそうでないものの違いがここにあります。 もどる

サムエル記第一25章 ナバルの妻、アビガイルはダビデに、王となるべき者が怒りにまかせて無駄な血を流すことがないよう説得しました。この説得は功を奏し、ダビデはナバルへのしかえしを神にまかせることができました。私たちもやがて天でキリストとともに王となると約束されています。このことを信じるなら、今、地上で感情のまま行動するのでなく、神が与えてくださった身分、立場にふさわしく行動しようではありませんか。王者の自由をもって主に仕えようではありませんか。 もどる

サムエル記第一26章 ダビデは今回もサウルを手にかけずに逃します。一度だけでなく二度も同じようなことがあったのは、ダビデの誠意が確かなことを示しています。ダビデは「私が主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対できないことだ。」(11節)と言っています。ダビデがどんなにか主を意識しながら生きていたかがわかります。「私はいつも、私の前に主を置いた。」(詩16:8)ということのできる歩みをしていたのです。 もどる

サムエル記第一27章 サウルは、ダビデに害を加えないと誓ったのに、またもやダビデを追い廻しています。サウルの「悔い改め」は神への信仰の伴わない、人間的な後悔にすぎませんでした。悔いるだけでは悪から離れることはできません。自分の行なっていることが神の前に罪なのだと認め、神がその罪から立ち返らせてくださると信じる、本当の悔い改めだけが人を造りかえるのです。 もどる

サムエル記第一28章 サウルはペリシテ人を恐れ霊媒に頼ろうとします。神のことばのないところには恐れと不安が支配します。人々はそれをいやそうとして占いに走ります。しかし、占いは人をますます恐れに誘い込み、不安を助長するだけです。神のことばを読み、学び、それに従うことによって、そこから解放されましょう。 もどる

サムエル記第一29章 イスラエルとペリシテの戦いが始まろうとしていた時、ダビデはペリシテに身を寄せていました。ペリシテの一員としてイスラエルと戦うことはできないので、ダビデは大変困りましたが、ペリシテの首長たちがダビデを戦列に加えることを拒んだので、ダビデは苦境から救われました。これはダビデにとってたんにラッキーであった以上のこと、神の助けでした。詩篇34篇などで、ダビデはペリシテの地で体験した数々の神の助けに感謝をささげています。 もどる

サムエル記第一30章 ペリシテの戦列から離れて自分の町に帰ってみると、なんとそこはアマレク人の略奪にあっていました。ダビデと部下の心はくじけてしまいましたが、やがてダビデは「彼の神、主によって奮い立」つことができました(6節)。神の助けを知る者は苦境に立ってもなお強くあることができます。逆境にくじけず、それをはねのける力を神からいただきましょう。 もどる

サムエル記第一31章 サウルはペリシテ人に殺されることを恥じて自ら命を絶ちました。武人としての誇りを強く持っていた人でした。それは彼の長所でしたが、神の前にへりくだることを知らなかったのが、すべての不幸のみなもとでした。サウルは表面は「謙遜な人」でした(9:21; 10:21,22)。しかし、内面では常に自分のメンツを気にし、他と比較していたのです(15:30; 18:8,9)。サウルは、信仰者として持つべき最も大切なものを失っていました。 もどる