ヨシュア記1章 神がヨシュアに「強くあれ。雄々しくあれ。」(6節)と命じたのは、ヨシュアが困難な状況にかこまれていたからでした。その困難とは、第一に、偉大な指導者モーセを失ったということ、第二に、カレブ以外は、みな出エジプトの時子どもだったか、まだ生まれていなかった新しい世代だったこと、第三に、こうした経験のない若い世代を導いて、高い城壁を持ち、十分な武器のあるカナン人と戦わなければならないということでした。しかし、神はヨシュアに「わたしは、…あなたとともにいよう。」と約束しました。神がともにいてくださること、これによってどんな困難も克服されるのです。 もどる

ヨシュア記2章 イスラエルは荒野を放浪してきた民で、十分な武器もなく、戦いにも慣れていませんでした。イスラエルには神がともにおられるのですが、彼らは、自分たちに与えられている力に気づいてはおらず、自信を失っていました。しかし、ヨシュアは彼が送った斥候の報告によって、ようやく自信を持つことができました。高慢は良くありませんが、自信や確信を失うのは良くないことです。自分を見下すのは、高慢より悪いかもしれません。神は、私たちに謙虚であれと教えるとともに、「主にあって誇る」ことも教えています。 もどる

ヨシュア記3章 出エジプトの時と同じように、イスラエルの前進をはばんでいた水がせきとめられました。出エジプトの時は、モーセの杖が用いられましたが、今度は契約の箱が奇跡の道具として用いられています。杖は権威をあらわしますが、契約の箱は神の臨在をあらわします。「神ともにいます」ということがどんなに力強いことかが、ここで教えられています。 もどる

ヨシュア記4章 祭司は最初に川の中に入り、民が渡り終るまで川の中にいました。祭司は先頭になり、またしんがりになりました。教会でも朝一番に来て準備をし、最後まで残って後かたづけをしてくれる人がいます。そうした「仕える心」が、主の祭司とされ、主のために奉仕するクリスチャンには求められています。 もどる

ヨシュア記5章 イスラエルがヨルダン川を渡って最初にしたことは割礼と過越でした。割礼の傷が癒えるまで時間がかかりますから、敵地に入ってからこれを行うのは主への信仰なしにはできない大胆な行為でした。しかし、神からの恐れがカナンを支配していたので、彼らはそのことができたのです。神の戒めに従う者を神は、まちがいなく守ってくださるのです。 もどる

ヨシュア記6章 モーセが主の前で靴をぬいで全権を主に委ねたように、ヨシュアも主の前に靴を脱いで全権を委ねました(5:13- 15)。その結果、エリコの城壁が人の力によってではなく、神の力によって崩れ去りました。カナンでの初戦で神がこのような奇跡を見せてくださったのは、主に委ね、主に従うことに勝利があることを教えるためでした。 もどる

ヨシュア記7章 エリコの勝利を体験したイスラエルはアイの攻略で手痛い敗北を味わいました。そこにはアカンの罪が隠されていました。罪はどんなに隠していても、どこかで姿を現わします。罪は「言い表して」こそ赦され、いやされ、きよめられ、解決にいたるのです(ヤコブ5:16、ヨハネ第一1:9)。 もどる

ヨシュア記8章 カナンの地、今日のパレスチナは、ヨルダン川ぞいの低地、中央部の高原、そして、地中海沿岸の平地という地勢を持っています。低地の町エリコを取ったイスラエルは高原の町アイを取り、エバル山、ゲリジム山に到ってそこで律法の書を読みました。イスラエルはみなヤコブの子たちですが、彼らはたんに血のつながりだけで国家を作ったのではありません。神のことばによって結ばれ、ひとつになったのです。 もどる

ヨシュア記9章 ギブオン人が計略をめぐらしたのは、彼らがイスラエルを恐れたからですが、イエスラエルがその計略に簡単にだまされたのは、イスラエルの長老たちが「主の指示をあおがなかった」(14節)からでした。目に見えることや、自分の判断だけに頼り、神のみこころを問うことを怠りがちな私たちは、このことを戒めとしたいものです。 もどる

ヨシュア記10章 ギブオン人と平和条約を結んだのは、彼らにだまされてのことでしたが、イスラエルはその条約を忠実に守って、ギブオンがカナンの連合軍に攻められた時、それを救いに行きました。この戦いによってイスラエルはカナンの王たちの領土を征服しました。神はイスラエルの不注意や失敗をも、その後彼らが誠実に歩んだ時に、益になるよう、取り計らってくださったのです。 もどる

ヨシュア記11章 イスラエルはカナン人の「馬の足の筋を切り、戦車を火で焼」きました(9節)。好戦的な民族であれば、馬や戦車はぶんどりものにして、次の戦争に使ったことでしょう。しかし、イスラエルの戦いは主の戦いであって、彼らは神が定めた領域を越えて領土を拡張しようとはしませんでした。また、イスラエルを守るのは主であって、彼らは馬や戦車に頼ろうともしませんでした。ヨシュアは優れた将軍でしたが、同時に平和を求めてやまない人でもあったのです。 もどる

ヨシュア記12章 この章は、イスラエルが打ち破ったカナンの王たちのリストです。モーセがエモリ人の王とバシャンの王をうちやぶり (1ー6節)、ヨシュアが31人の王をうちやぶった(7ー34)とあります。モーセとヨシュアの二人が、これだけの王をうちやぶることができたのは、神が彼らと共にいて助けてくださったからです。「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかける」(レビ26:8)との約束が果たされているのを見ることができます。私たちが神に従う時、神もまた私たちへの約束を守ってくださいます。 もどる

ヨシュア記13章 十二部族連合軍はカナンの中心部を占領しただけで、各地方は、それぞれの割り当て地を受け継ぐ各部族が自分たちでそれを自分のものにしなければなりません。「みんなでやる」ことは尊いことです。しかし、それは自分の分を果たすことをないがしろにすることではありません。「みんなで」「いっしょに」ということは、他の人に仕事を任せて自分の責任を逃れるということではありません。綱引き競技では、たとえ小さな力でも、それぞれが自分の力を出し切らなければならないように、信仰の共同体も同じようにして力を合わせあうのです。 もどる

ヨシュア記14章 カレブは85歳になっていましたが、ヘブロンの山地を願い出て戦いに出かけました。彼の信仰と情熱は年齢によっておとろえることがありませんでした。神はアブラハム、モーセ、ヨシュア、ダニエルなどを高齢になってからも用いました。神を信じる者は年齢を越えた働きができるのです。 もどる

ヨシュア記15章 「カレブは、その所からアナクの三人の息子、シェシャイ、アヒマン、タルマイを追い払った。」(14節)と、カレブの活躍がしるされています。カレブは、若いころ偵察隊の一員で、他の偵察隊員がアナク人を恐れても、彼は恐れませんでした。カレブは、あの時の勇気が本物の勇気であったことを、ここで実証しています。 もどる

ヨシュア記16章 各部族の境界線が細かく指定されています。これは、私たちが限られた地球のすみかをわけあって生活するようにとの神のみこころを示しています。聖書が「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の前面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」(26節)と言っているように、それぞれが自分に与えられた境界を守り、人の土地に踏み入らないことが世界に平和をもたらすのです。 もどる

ヨシュア記17章 エフライムとマナセは人口の多い部族となりました。それで、彼らは割り当て地が狭いと不満を述べました。この不満にヨシュアは「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている」のだから(17節)、その力でカナン人を追い払って領土を広げるようにと答えています。不満は、自分に与えられている祝福を見落し、自分に与えられている力を見過ごさせます。不満から解放される時、与えられた力を十分に発揮できるようになります。 もどる

ヨシュア記18章 イスラエルの陣営はギルガルからシロに移されました。そしてそこに出エジプト以来、イスラエルと共に歩んできた「会見の天幕」つまり、聖所が建てられ、契約の箱が安置されました。シロはヨシュアとその後の時代の中心地でした。イスラエルには荒野でも、約束の地でも、契約の箱を中心に生きるよう求められていました。今日の信仰者たちも同じように、神と神のことばを中心にして生きるよう求められています。 もどる

ヨシュア記19章 ベニヤミン、シメオン、ゼブルン、イッサカル、アシェル、ナフタリ、ダンの七部族は相続地に向かっていくのをためらっていましたので、彼らのためにくじが引かれ、それぞれの割り当て地が指定されました。どんな仕事でも、やりはじめるまで、おっくうなものですが、ひとたびやり始めると、案外簡単に終ってしまうものです。ためらいを捨ててやり始めることです。始めることなしには完成もないのですから。 もどる

ヨシュア記20章 主はヨシュアに「逃れの町」を指定するよう、重ねて指示を与え、ヨシュアはそれに従って六つの町を選びました。何も今、逃れの町を指定しなくてもカナン定着が進んでからでも良いのではないかと、人々は考えたかもしれません。しかし、逃れの町は、現代的に言うなら、法の秩序と人権を守るためのものでした。神は、イスラエルが神の民として、こうしたものを第一にすべきことを教えるため、カナン定着の早い段階で逃れの町を確保するよう命じたのです。 もどる

ヨシュア記21章 レビ人のための放牧地の割り当てについて書かれた後、「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、ひとつもたがわず、みな実現した。」(45節)としるされています。神がモーセに約束されたことがヨシュアによって実現したのです。「ヨシュア」のギリシャ名は「イエス」です。神が旧約で約束されたことは、新約の主イエスによって成就しています。イエスは私たちのためのヨシュアです。 もどる

ヨシュア記22章 ヨルダンの東に住むルベン、ガド、マナセの半部族と川西に住む十部族との間で争いがはじまろうとしましたが、その危機を逃れたことが書かれています。両者とも、神への信仰によって、その危機を乗り越えることができました。部族の利益や主張を優先するのでなく、共に、おひとりの神への信仰を確かめあっていくところに、問題の解決があります。 もどる

ヨシュア記23章 ヨシュアは世を去ろうとする時、イスラエルの人々にカナン人の風習に習って、彼らとまじわってはならないと、人々を戒めました(12節)。これは現代人の目には狭い考えに見えますが、神の民として歩みはじめたばかりのイスラエルには必要な戒めでした。堕落への道は遠くにあるのでなく、危険は身近かなところにあるのです。イスラエルはまず自分たちに与えられたものをしっかり守る必要があったのです。 もどる

ヨシュア記24章 聖書が言うように、私たちは何かのしもべとして生きています。私は誰のしもべでもないと言う人も、罪や欲望、ねたみや怒りのしもべになっている場合が多いのです。人は、仕えるものを選ばなければなりません。私たちも「私と私の家とは主に仕える」(15節)と、神を選びましょう。人は、神に仕えてこそ、ほんとうに自由になれるのです。 もどる