申命記1章 「申命記」の「申」には「再び」とか「重ねて」という意味があります。モーセが新世代のイスラエルに、もう一度、主のみおしえを与えているので、この名がつけられました。ここには他の書のくりかえしになる部分が多くありますが、聖書はくりかえしをいとわずに、書きとどめています。それは、主からのことばについて、先の世代の人々に与えられたものを引き継ぐだけでは不十分で、どの世代も、常に新しく、その時代の人々に与えられたものとして、神のことばを聞かなければならないことを教えています。私たちも、今、ここで神が語っておられるものとして、神のことばに聞きましょう。 もどる

申命記2章 カデシュで約束の地を悪く言った世代は、その地を見ることなく荒野で死んでいきました。それは神の厳しいさばきでしたが、そのさばきの中にも神のあわれみがあり、新しい世代が荒野で養われ、育てられていました。神は、荒野の中でも、新しいみわざを起こすお方です。荒野を歩くような体験をする時も、このお方に望みをかけましょう。 もどる

申命記3章 エモリ人の王シホンとバシャンの王オグへの勝利が回顧されています。オグはカナンへの偵察隊が「背の高い民」と言って恐れたレファイムの子孫で、彼の寝台は四メートル近い、大きなものでした。しかし、神は彼らをイスラエルの手に渡されました。偵察隊の恐れが不信仰から出たものであったことがよくわかります。この回顧は、イスラエルの信仰を励ますためのものでした。 もどる

申命記4章 モーセがイスラエルに伝えたみおしえの第一は「主だけが神であって、ほかには神はない。」(35節)ということでした。「きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。」(39節)と教えられています。さまざまな偶像で満ちたカナンに入っていく前に、主こそ、ただひとり、神と呼ばれるにふさわしいお方であることを、イスラエルは心に留める必要があったのです。 もどる

申命記5章 十戒のうち「安息日の戒め」は、「忙しい」というのが口ぐせのようになっている現代人には守りにくい戒めでしょう。しかし、この戒めに従わないなら、いつしか仕事の奴隷となって自由を失ってしまいます。安息日の戒めはエジプトで奴隷であったイスラエルが、そこから解放されたということに基づいています。奴隷のようにではなく、自由に働き、自由人として休み、また自らすすんで神に仕える喜びは、キリストによって罪の奴隷から解放された者だけが味わうことができるのです。 もどる

申命記6章 私たちは、逆境の時、主を覚えても、順境の日には忘れやすいものです。ものごとがうまく行き始めると、それが神の祝福であることを忘れ、まるで自分の力でなしとげたかのように誇り、神に頼らなくなります。神の慰めがなくても他のもので満足してしまうのです。それで聖書は「あなたが食べて満ち足りるとき…主を忘れないように」(11,12節)と戒めているのです。逆境の時ばかりでなく、順境の時にも、私たちは信仰をためされます。恵みの日々には、与えられたものを神に感謝し、それをささげて奉仕に励みましょう。 もどる

申命記7章 イスラエルは「宝の民」(6節)と呼ばれ、神に「恋い慕われ」(7節)、「愛され」(8節)ています。神はイスラエルにとって夫のようになり、イスラエルは神に対して妻のように扱われています。神と神の民は他のものが入り込んでくる余地のない愛で結ばれているのです。偶像に心を寄せることが厳しく戒められているのは、この愛のゆえなのです。 もどる

申命記8章 試練に会う時、私たちは「なぜ」このような苦しみがあるのかと考えます。しかし、「なぜ」という疑問にはすぐ答えが与えられない場合が多いようです。そんな時も、私たちは、試練の目的を忘れずにいたいものです。試練は「わたしたちをしあわせにするため」(16節)にあるのです。神が私たちを愛して、私たちのしあわせを願っておられることを忘れずにいましょう。 もどる

申命記9章 この章では、繰り返し「高慢になってはいけない」と戒められています。イスラエルが約束の地を受け継ぐのは、先住民の悪がきわまったためと、先祖たちへの約束のゆえで、彼らの正しさによるのではありませんでした。これを当然の権利と考え、先住民と同じ罪を犯すなら、イスラエルもまたその地から吐き出されるでしょう。私たちは選びの中にありますが、それは自動的に祝福を受け継ぐことを保証するものではありません。祝福は神の恵みに寄り頼む信仰によって与えられるのです。 もどる

申命記10章 私たちの救いが神の恵みによるということは、私たちを高慢の罪から救いますが、私たちを怠慢の罪に追いやるかもしれません。救いが恵みによるのなら、私たちにはなんの努力も必要でないと誤解する人が多くいるからです。神は私たちに「心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え」(12節)ることを求めておられます。恵みに頼ることは決して怠慢ではありえないのです。 もどる

申命記11章 エジプトで豊かな土地はナイル川沿いの緑地だけでした。そこは平地でしたので、川の水を汲むに足で水車を回す必要がありました。これに比べカナンの地は山と谷の地で、水が自在に流れ、土地をうるおしていました(10,11節)。これは、人間の努力で生きる人生と神の恵みによって生きる人生とを象徴しているようです。神から来る恵みに生かされる喜びを味わう人生はさいわいです。 もどる

申命記12章 カナンの地の宗教儀式は、イスラエルの簡素な儀式に比べると豪華なもので、人々の心をひくものでした。しかし、そこには本当の礼拝はありませんでした。本当の礼拝は神を喜び、神に喜ばれるものでなければなりません。「あなたの神、主の前で、あなたの手のすべてのわざを喜び楽しみなさい」(7,18節)と教えられています。これは、ひとことで言えば「喜びをもって主に仕える」ことです。このような礼拝は異教のどの礼拝にもありません。 もどる

申命記13章 神の民の中にも「にせ預言者」があらわれ、民をまどわそうとします。神は「にせ預言者」をはじめ、悪者たちの芽を摘むことをなさらないのは、それによって、神の民を試すためでした。神は、神の民を「無菌室」に入れて保護されるのでなく、現実の中に遣わされます。その中で、サタンのまどわしや、この世の悪に打ち勝つことを願っておられるのです。 もどる

申命記14章 ここには、服喪、食生活、十分の一、施しなどについての規定があります。これらの規定は信仰を土台とし、信仰の表現として定められました。信仰は、こころの中に宿るものですが、それは、そこに留まらないで、日常の生活にあらわされるべきもの、日々の現実の中で生きて働き、成長し、成熟すべきものなのです。 もどる

申命記15章 世界の多くの国々が外国から金を借りたものの経済が破綻して、それを返せないで困っています。借りた国ばかりでなく、貸した国も困るわけで、世界の経済がどうなるのか心配です。6節に「あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。」とあるのは、神がイスラエルに経済的な祝福も与えるとの約束です。しかし、この祝福を受けるためには、イスラエルが国内で互いに物惜しみしないで与え合う必要がありました。一部の裕福な者たちだけが富を独占することによって、神の祝福は失われるのです。 もどる

申命記16章 年に三度の祭が祝われる時には、息子、娘ばかりでなく、男女の奴隷、レビ人、在留異国人、みなしご、やもめにも良いものを分け与えるよう命じられています。これは、神の救いや祝福を受けた者が、それをひとりじめするのでなく、まわりの人々に、それを分け与えることを教えています。私たちが神の救いと祝福を感謝する時にも、苦しみと悩みの中にある人々を覚えましょう。 もどる

申命記17章 王を立てる時の規定が14節から20節に書かれています。イスラエルのまことの王は、神ご自身で、王は神をおそれ、神のことばを守る者でなければなりませんでした。しかし、イスラエルの王のほとんどはここにある基準にかなうことがなく、ことごとく失敗しました。それで、神は、神の民のためにまことの王であるイエス・キリストを遣わしてくださったのです。 もどる

申命記18章 異教徒たちは卜者や占い師に聞きましたが、イスラエルの民は預言者に聞きました。卜者や占い師のことばは、不確かで、暗く、人々を悪霊の教えに誘い込み、ついには神の怒りをもたらします。しかし、神からの預言は、確かで、明るく、私たちを励まし、慰め、幸いをもたらします。モーセが「私のようなひとりの預言者」(15節)と言ったのは、最終的にはキリストによって成就しています。キリストは、私たちにとって、祭司であり、王であり、預言者となってくださったのです。 もどる

申命記19章 「のがれの町」は、過失によって人を死なせた者が復讐から守られるために定められました。しかし、いくらのがれの町でも、わざと人を殺した者をかくまうことはできませんでした。町の長老たちは、その人を引き出し、復讐する者の手に渡さなければなりませんでした。のがれの町の規定の中に、神のあわれみと共に神のきびしさも表わされています。神が愛とあわれみに富んでおられるとともに、どこまでも正しく、また聖いお方であることを忘れてはならないのです。 もどる

申命記20章 この章は、イスラエルが戦争に出る時の指示です。イスラエルは、力に任せて他の国々を奪い取ってはならず、戦争の中でも、神の指示に従うことが求められました。神の定めに従うことが日常の中でなくてならないものなら、まして、非常時にはなおのことです。人生の戦いにおいても、神の指示に従う時に勝利があることを覚えましょう。 もどる

申命記21章 今日では殺人事件など兇悪な犯罪が日常茶飯事になり、そうしたものに慣れてしまい、「またか」という思いを持ってしまうことがありますが、それは恐ろしいことです。1-9節では、野で殺された人がいたなら、その人に最も近い町の人が、その人の血の責任がないことを証明しなければなりませんでした。罪のない者の血が流されることがどんなに恐ろしいことかを、人々は身をもって知らなければなりませんでした。他の国々では暴力が支配していても、神の民の間では、正義が支配していなければならないのです。神の民は、常に世とは違った基準で歩み続けるのです。 もどる

申命記22章 現代は「見て知らぬふり」(1節)が横行している時代です。いいえ、物事を「見て」いません。自分のことだけを見て、他の人にどんな必要があるかを見ていないのです。飢えに苦しむ人、医療を受けられない人、差別や迫害に苦む人が今なおいるという現実を見ていません。人から愛されたい、注目をあびたい、関心を引き付けていたいという気持にとらえられている時、ごく近くの隣人の切実な必要が見えないのです。しかし、神を見上げるなら、隣人の必要が見えてくるのです。 もどる

申命記23章 神は、私たちが神の前に「全き者」であることを求めています。旧約はそれを身体的な健全さを用いて教えるため、1-2節の規定が設けられました。新約では、エチオピアの宦官が救われたように(使徒8:26-39)、1-2節にあるような制限は取り除かれています。しかし、新約では旧約時代以上に、霊的な面で「全き者」であることが求められています(ヘブル10:22)。 もどる

申命記24章 在留異国人、みなしご、やもめなど貧しい人々への配慮が命じられています。これを進んで行うなら、それはその人の「義」となり(13節)、彼らの権利を侵すなら主からとがめを受けます(15節)。この原則は今も同じで、使徒ヤコブは「見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が叫び声をあげています。そして取り入れをした人たちの叫び声は万軍の主の耳に届いています。」(ヤコブ5:4)と言っています。主は常に貧しい人々の味方です。彼らをないがしろにすることは、主を敵にまわすことになるのです。 もどる

申命記25章 この章は新約に多く引用されています。「むち打ちの回数」(1-3節)、「脱穀している牛とくつこ」(4節)、「やもめの再婚」(5-10節)などは、パウロの手紙(コリント第二11:24、テモテ第一5:18)や福音書(マタイ22:23-33)に出てきます。このことから、申命記がモーセの著作として、人々に良く知られていたことがわかります。旧約が、長い歴史を通して神の民の中に生きてきた神のことばであることがよくわかります。 もどる

申命記26章 この章にある信仰告白文(5-10節)は心を静めて読みたい箇所のひとつです。救われる以前の自分がどのようであったか(6節)、そこから神がどのように救い出してくださったか(7-8節)、今、受けている救いがどんなに素晴しいものであるか(9-10節)、繰り返し思いみましょう。 もどる

申命記27章 ゲリジム山とエバル山はイスラエルの領土となるカナンの地のほぼ中央のシェケムの近くに並んでいる山々です。二つの山にまたがる大平原に人々は集まり、みことばに従うなら祝福 、それに逆らうならのろいが来ることを確認しました。右か左か、北か南か、ゲリジムかエバルか、選ぶことができるものは二つに一つで、中間はないということを、視覚的に学んだのです。信仰の道に中間はなく、祝福かのろいかを選ぶことが求められます。 もどる

申命記28章 神からの祝福は、自動的に与えられるものではありません。それは「主の御声に聞き従う」(2節)ことによって私たちのものとなります。そして、主の御声は、現代では聖書とそのメッセージから聞くものです。神のことばをただ読む、学ぶだけでなく、それに「聞き従う」人は大きな祝福を受けます。 もどる

申命記29章 主の御声に聞き従わない人は「私は自分のかたくなな心に従って歩いても、私には平和がある」と、高慢にも自分で自分を祝福するようになります(19節)。人間は神に造られ、神に依存しているにもかかわらず、このように、自分がひとりで立っているかのように考えるところに、その罪深さがあるのです。神はそうした高慢を捨て去って、へりくだることを私たちに求めておられます。 もどる

申命記30章 神は、イスラエルが神に従わないなら、外国に追い散らされると言われましたが、同時に、悔い改めるなら、イスラエルがたとえ地の果てにいても、そこから再び集められると言っています。「回復」は聖書の大切なテーマのひとつです。主イエスは「失われた人を捜して救うために」世にこられたお方です(ルカ19:10)。失われた者の回復の預言は、イエス・キリストによって成就しています。 もどる

申命記31章 神は霊であり、真実で、愛に富むお方です。私たちが神を知り、その恵みを体験するには、私たちも、その霊において、真実でなければなりません。真実を嫌う人々は、目に見えない霊なる神よりも、目に見える偶像の神々を持ちたがります。そのほうがてっとりばやく、安心を得、満足をえることができるからです。しかし、偶像は決して本当の平安と祝福を私たちに与えることはありません。それらは、見えない唯一のまことの神から来るのです。 もどる

申命記32章 神は、神の民にとって、「父」であり(6節)、「母」である(18節)お方です。神は、私たちの父となるために、ご自分のひとり子、イエス・キリストをお捨てになりました。神は、私たちを神の子どもとして生むために、御子を死なせました。神の民、神の子らに一番たいせつなことは、この神の愛を覚えていることです。神の愛から離れる時、私たちは神の民でなくなってしまうからです。 もどる

申命記33章 ヤコブが十二人の子どもを祝福したように、モーセもイスラエルの十二部族を祝福しました。イスラエルのさいわいは彼らが「主に救われた民」(29節)であることあります。主は、ひとたび救った者を、救い続け、守り続けてくださいます。主が盾となり、剣となってくださいます。この祝福は、今日も、イエス・キリストの救いを受け入た人々に注がれています。 もどる

申命記34章 申命記はモーセによって書かれましたが、この章は申命記がまとめられた時に書き加えられたものと思われます。なぜならここにはモーセの死のことが書かれているからです。モーセの死について申命記は「こうして、主の命令によって主のしもべモーセは、モアブの地のその所で死んだ」(5節)と言っています。「主の命令によって」というのは珍しい表現ですが、それは、私たちが世を去る時は私たちが決めることのできるものではなく、まさに「主の命令」によることを表わしています。モーセはその死においても「主の命令」に忠実でした。「主のしもべ」モーセにふさわしい表現です。 もどる