レビ記1章 この書にはレビの子孫である祭司たちのつとめが書かれているので「レビ記」と呼ばれるようになりました。一章から七章はささげものについての規程で、一章には、五つのささげもののうち「全焼のいけにえ」のことが書かれています。全焼のいけにえというのは、文字どおり全てを焼きつくすので、そう呼ばれました。これは、キリストがご自身をささげつくされたことを表わしています。 もどる

レビ記2章 「穀物のささげもの」は動物のいけにえと一緒にささげられました。このささげものは、ささげる者に、動物であれ、植物であれ「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」(詩篇24:1)ことを思い起こさせたことでしょう。穀物のささげものにはパン種や蜜(または果汁)を入れてはならず、塩で味つけなければなりませんでした。それはささげものを腐らせないためでした。これは、神にささげられるものがきよいものでなければならないことを教えています。 もどる

レビ記3章 「和解のささげもの」は神への感謝や誓願のために自発的にささげられるものでした。それは脂肪だけが焼かれ、胸肉と右の腿肉は祭司のもの、他はささげた人が食べました。これは、神が義務以上のささげものを喜ばれること、そのささげものは神のわざに携わる人々への贈り物になり、ささげた人をも豊かにするということを教えています。私たちもささげることによってもっと豊かになることを体験しましょう。 もどる

レビ記4章 この章には「罪のためのいけにえ」のことが書かれています。祭司の罪のためのいけにえには和解のささげものと同じように雄牛の脂肪がささげられますが、残りはすべて灰捨て場に運ばれて焼かれました(12節)。イエスも私たちの罪を背負って呪われたものとなり、エルサレムの町の外に引き出されて十字架にかけられました(ヘブル13:13)。 もどる

レビ記5章 罪のためのいけにえは、祭司にも、会衆にも、上に立つ者にも、貧しい者たちにも求められました(7-13節)。これは、地位、立場などにかかわらず、神の前に人は等しく罪人であることを教えています。ですから、すべての人には、その罪を赦していただくためにイエス・キリストの救いが必要なのです。 もどる

レビ記6章 5章14節からは、五種類のささげものの第五番目、「罪過のためのいけにえ」のことが書かれています。「罪過のためのいけにえ」には「罪のためのいけにえ」とは違って「償い」という要素があります。罪は神のきよさ、正しさを損なうばかりでなく、他の人々に実際的、精神的損害を与えるものであり、それらも償われなければならないからです。キリストは私たちの罪過のための償いにもなってくださっています。 もどる

レビ記7章 祭司は祭壇にささげられたものを自分たちの食べ物としました。これは神に仕える者たちが神からのものによって養われることを表わしています(コリント第一9:13-14)。これは宣教師や牧師だけにあてはまることではなく、すべてのクリスチャンについても真理です。私たちは自分たちの職業から糧を得ているように見えても、実際は神から霊と肉の糧を得ているのであり、職業を通して神に仕えていることを通して、神からの養いを受けているのです。どんなに懸命に働いても、神に仕え、神にささげることのない人の生活は、霊的に豊かなものとはならないでしょう。 もどる

レビ記8章 祭司たちの任職の時にはまず、罪のためのいけにえがささげられました。これは、祭司といえども罪人であって、神に近づくためには罪のゆるしが必要なことを教えています。人間の祭司は「その弱さのゆえに民のためだけでなく、自分のためにも罪のためのささげ物をしなければなりません」(ヘブル5:3)でしたが、キリストは「自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日きえにえをささげる必要はありません」(ヘブル7: 26)。キリストは罪のないお方で、自分のために罪のいけにえを必要としなかったからこそ、私たちの罪のいけにえとなることができたのです。 もどる

レビ記9章 アロンは「罪のためのいけにえ」に続いて「全焼のいけにえ」をささげ、さらに「和解のいけにえ」である任職の雄羊をほふりました。神に仕えるには、それぞれのささげものが表わしていることがら、つまり、「罪のゆるし」、「献身」、「交わり」の三つが必要なのです。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(ヨハネ第一1:7)とあるように、日毎にきよめられ、神との交わりに生きることによって、私たちも祭司の役割を果たすことができるようになるのです。 もどる

レビ記10章 アロンの四人の子どもたちも祭司となったが、そのうちのふたりナダブとアビフは任職後まもなく神のさばきにあいました。それは、大祭司にしか許されていない香をたいたこと、その香を聖所の用具でない「自分の火皿」に盛ったこと、さらに、香をたくべきでない時にみだりに聖所に入ろうとしたこと、しかもその時酒に酔っていたかもしれなかった(9節)ゆえでした。神は「わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わす」 (3節)と言われました。正しい方法で神に近づくなら栄光と祝福が、誤った方法や邪悪な動機でするなら、さばきが臨みます。私たちにとっての正しい方法とは「キリストを通し、信仰によって」です。 もどる

レビ記11章 ここには、食べて良いものと悪いものとの区別が詳しく書かれています。このような規程がイスラエルに与えられたのは、第一には、衛生上の理由でした。動物はさまざまな伝染病の媒介となりましたから、予防や治療が確立していなかった古代では疑わしいものから遠ざかることが最も賢明なことでした。第二は宗教的理由で、当時の異教徒たちが様々な動物を神々としてあがめたり、食用ではない動物をいけにえとしてささげたりしていました。食べ物の規程は偶像礼拝にかかわらないためであり、食べ物の規定は、神の民が、身体ばかりでなく、魂も守るためのものだったのです。 もどる

レビ記12章 出産後のきよめの規程は、女性を汚れたものとする差別的な規程のように見えますが、実際は、産婦は、この規程によって産後、十分な休養をとり、体力を回復させることができました。そこには神の女性に対する思いやりがあります。この規程には現代の「産休」制度に似た精神があります。 もどる

レビ記13章 「衣服のらい病」、「家のらい病」という言葉から分かるように、聖書で使われている「らい病」というのは、今日ハンセン氏病だけでなく、さまざまな感染性の皮膚病を指していました。伝染病に対してなすすべのなかった古代には、病人を隔離するか、品物を焼くかしか、感染を防ぐ方法はありませんでした。らい病の診断は祭司の仕事でしたが、祭司は病気を診断することはできても、それをいやす力はありませんでした。いやしは神から来ます。祭司は、神のいやしがあったことを認めてそれを宣言するだけでした。しかし、イエスは「らい病」をきよめることによって、ご自分が、祭司や預言者以上のお方、救い主であることを明らかにされたのです。 もどる

レビ記14章 「らい病」のきよめのために「二羽の生きているきよい小鳥と杉の木と緋色の撚り糸とヒソプ」(4節)が必要でした。二羽の鳥のうち一羽は殺されて血を流しますが、血は罪のゆるしときよめを表わします。もう一羽は野に放たれ、罪からの解放を表わします。杉の木は腐敗に強いので、健康を表わし、緋色の撚り糸は鳥の血の色を補うためのものでしょう。ヒソプは水をよく含むので、きよめの血の混じった水を注ぐために使われました。こうした儀式は神の救いが、私たちに、ゆるしときよめ、解放と回復をもたらすことを示しています。 もどる

レビ記15章 出血性の病気を持った人々は、それによって汚れた者とみなされました。病気のために、肉体の苦痛ばかりでなく、霊的な苦痛も負わされました。イエスのもとに来た長血をわずらう女性(マタイ9:20-22)の苦痛が、こういう箇所を読むとよく分かるようになります。ほんとうのいやしは、単にからだの故障が直るというだけのことではなく、霊的、肉体的、社会的な回復が伴ったものでなければなりません。イエス・キリストがその女性に与えたいやしは、そのような本物のいやしでした。 もどる

レビ記16章 イスラエルの暦で毎年7月10日は「贖いの日」と定められました。この日、聖所と祭壇とがきよめられ、またイスラエルも罪からきよめられました。キリストのなしとげてくださった贖いも同様で、キリストはその贖いによって、私たちが汚した神の御名を聖なるものとし、私たちが損なった神の聖さを確保されました。そして、私たちを罪の奴隷から買い戻してくださったのです。旧約に示されていた「贖い」はキリストによって完成しています。 もどる

レビ記17章 「あなたがたは、誰も血を食べてはならない」(12節)というのは、「エホバの証人」が言うように輸血を禁じるものではありません。これは、動物の血を飲むという異教の儀式に加わらないようにとの戒めです。これは、使徒15:29に「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。」とあるように、新約時代にも守るよう求められています。犠牲の血は、罪の贖いのため、神との和解のため用いられる神聖なもので、断じて異教的な方法で扱われてはならないのです。 もどる

レビ記18章 「性」は神から人間に与えられたもので、私たちはこれを尊ばなければなりません。性の乱用は人々を罪のとりこにし、女性を蔑視したり、男性の尊厳を失わせたりします。神が、カナンの先住民を追い払うのは、彼らの性的な罪のためでした(24-25節)。古代の帝国が滅んでいったのも、外敵によるよりも、性的な罪を含む道徳の乱れによってでした。武力や経済を誇っても、その道徳が崩れては、国はなりゆかず、社会は成立ちません。 もどる

レビ記19章 この章には「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なるものとならなければならない。」(2節)「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」(18節)という大切なことばがしるされています。しかも、これらの戒めは「わたしはあなたがたの神、主である。」「わたしは主である。」という宣言が伴ったものです。どんな道徳も戒律も、それが生ける神のご命令でなければ相対的なもので終ってしまいます。神を信じる者の生き方は、道徳や戒律を守るだけのものではなく、生ける神に対して責任ある生き方をするものです。あなたは、神への応答としての生き方がどんなものかご存知でしょうか。 もどる

レビ記20章 道徳や宗教の世界では、良いものが悪いものを追い出すよりは、良いものが悪いものにとって代わることが多いようです。人類は、自然科学や機械技術の上では大きな進歩をとげましたが、霊的、精神的、道徳面では後退しています。イスラエルには「あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。」(23節)と厳しく戒められていますが、それは人間の弱さをご存知の神からのきわめて現実的な命令です。 もどる

レビ記21章 旧約時代には、身体的欠陥のある者は祭司として奉仕することができませんでした。現代では身体の不自由な方でも、立派に牧師として働いておられる方々があり、旧約の規定がそのまま当てはまるわけではありません。これらの規定は、神に仕える者が霊的に健全でなければならないことを、目に見える身体的なことがらで表わしたものです。私たちが身もたましいをもきよめて主に役立つものとならなければならないことはテモテ第二 2:21などにはっきりと記されています。 もどる

レビ記22章 祭司は、人々のささげものに欠陥がないかどうか調べる責任がありました(17-25節)。預言者マラキは、祭司が民衆と妥協して、欠陥のあるいけにえをささげていることを責めています(マラキ1:6-10)。祭司が民衆に迎合したり、妥協したりする時、神の民はたちまちにして、堕落に向かってしまうからです。祭司は、神のきよさが守られるために、自らをきよめ、また、民をきよめていく必要がありました。 もどる

レビ記23章 この章では時を聖別することが教えられています。イスラエルは週ごとの安息日の他、年三度の祭(過越の祭、初穂の祭、仮庵の祭)を守るよう命じられました。神を礼拝するために時間をささげることが命じられたのです。「忙しい」ということが、まるで「誇り」であり「徳」であるかのように思われ、それがあらゆることの言い訳に使われている現代ですが、何のために忙しいのかを考え直し、神とのまじわりを取り戻す必要があるように思います。 もどる

レビ記24章 祭司にはいけにえをささげるとともに、聖所にともしびやパンを整える仕事がありました。いけにえは人から神へのささげものを表わしますが、ともしびやパンは神から人への守りや養いを表わしています。ともしびは神が私たちを見守ってくださっていること、パンは神が私たちの必要のすべてを満たしていてくださることを意味しています。私たちが神を、ささげものをもって礼拝することができるのも、神の保護と養いがあればこそです。すべての栄光を神にお返しして礼拝をささげましょう。 もどる

レビ記25章 七日目が安息日、第七の月が安息の月であるように、七年目も安息年で、この年は収穫をせず、土地を休ませるよう命じられています。この命令は、実際には、ほとんど守られなかったようですが、もし、人々がこれを守っていたら、地球環境はもっと良いものになっていたでしょう。安息年が七回繰り返された年は大安息年で「ヨベルの年」と言われました。この年には土地を手放したり、自らを奴隷に売ったものは買い戻しの機会を与えられました。これは、キリストによって私たちが罪から解放される、救いの日を予告しています。 もどる

レビ記26章 神は「わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」(12節) と約束してくださいました。しかし、この祝福は自動的に与えられるものではありません。私たちが不従順になるなら、神はそれに報いを与えます。神は、わたしたちに一方的な服従の契約を与えてもよかったのですが、神は私たちに対等の契約を与えてくださいました。対等の契約には対等の取り扱いが伴うことを忘れてはなりません。神の真実な約束に対して、私たちもまごころをもってこたえましょう。 もどる

レビ記27章 誓願のささげものは、自発的にささげられるものですから、家畜の初子、聖絶のもの、十分の一からささげることはできません。初子については出エジプト13:12-15、十分の一については申命記14:22、聖絶のものについてはヨシュア7章を参照すると良いでしょう。十分の一献金は、当然神にお返しすべきものをお返ししているだけにすぎません。ですから、それを、いかにも立派なささげものをしたかのように勘違いしてはいけません。何事でも義務以上にすすんですることを喜びとしたいものです。 もどる