出エジプト記1章 ヨセフの時代には「客人」として歓迎されたイスラエルがエジプトで奴隷として厳しい労働で苦しめられるようになりました。そのような中でも「イスラエルの民はふえ、非常に強くなった」(20節)とあります。これは、神がアブラハムに「あなたの子孫は星のようになる」(創世記15:5)と言われた約束の成就ですが、神の約束は苦難の中で成就しています。平穏無事であることが神の祝福のしるしなのでなく、かえって苦難が祝福のしるしである場合も多いのです。 もどる

出エジプト記2章 この章にはモーセの八十歳までの生涯が短く要約されています。モーセは八十歳になってから、神に用いられるのですが、彼の生涯の三分の二は、残りの三分の一のための準備でした。若い人はすぐに神に用いられようとしますが、神は人をじっくりと練りきよめられるのです。 もどる

出エジプト記3章 かつては自分の腕力でイスラエルを救おうとしたモーセは、その失敗を思ってでしょうか、神の召しにしりごみしてしまいます。しかし、神が私たちを遣わされる時にはかならず、ご自身も共にいてくださいます。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ…わたしはあなたとともにいる。」(10-12節)神と共に使命に向かう人は幸いです。 もどる

出エジプト記4章 モーセは神の召しに素直に答えませんでした。神は不従順で、頑固なパロにモーセを遣わすのですが、モーセが不従順で、頑固であれば、どのようにして神に用いられることができるでしょうか。神は、神の民を苦しめる者たちに対して怒られる前に、神の民の不従順と頑固な心を懲らしめられます。それでモーセは従順の訓練を受けなければなりませんでした。 もどる

出エジプト記5章 モーセがパロのところに行った結果、イスラエルは以前よりも苦しめられるようになりました。神に従った結果、ものごとが悪くなれば、私たちもモーセと同じように「何のために私を遣わされたのですか。」(22節)と主に訴えたくなります。しかし、神には計画があり、ゴールは設定されています。見えるところはどうあれ、神に従い続ける時、最後に結果を得ることができるのです。 もどる

出エジプト記6章 この章には「わたしは主である」ということばが四回繰り返されています(2,6,8,9節)。パロの反対に直面しているモーセと、苦役のために落胆しているイスラエルに「わたしは主である」ということばは重みを持っています。神は「あってある者」「神の民とともにいてくださるお方」であることを、モーセもイスラエルも知るようになるのです。 もどる

出エジプト記7章 神はパロとエジプトについて、「エジプトはわたしが主であることを知るようになる」(5節)と言われました。これは、エジプトに裁きが臨み、彼らがいやでも主を認めざるをえなくなるという意味です。このようなかたちで主を知ったとしても、その知識は人を救いません。神を救い主として知る知識が人を救うのです。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6:3) もどる

出エジプト記8章 エジプトでの十のわざわいが始まりました。これらの災害はエジプトで良くあった災害で、ナイル川が血になるというのは川に赤い藻が増えひろがり、そこから出る毒物で魚が死ぬのだというように、自然現象として解釈する人々もあります。しかし、自然現象なら一年のサイクルで繰り返し起こるのですが、ここでは、モーセの指定した日に起こり、指定した日に終わっています。またこれらの災害はエジプト人を害しても、イスラエル人には害になりませんでした。これらは「神の指」によるものだったのです(19節)。 もどる

出エジプト記9章 疫病、腫物、雹のわざわいがエジプトに臨んでも、パロは神のことばに従いませんでした。パロは神の力に逆らい続けていますが、決して神の力に勝つことはできません。抵抗すればするほど、神の力はより大きなものになっていきます。神はパロの頑固さを通しても、ご自分の力の偉大さを示されました。 もどる

出エジプト記10章 専制君主であったパロの権威も落ち、ついに家臣たちの忠告を聞き入れなければならなくなりましたが、それでも彼は心を固くしたため、いなごの災いと暗闇の災いが起こりました。暗闇の災いはエジプトの主神アモン・レー(太陽神)と自らを太陽神の子としていたパロへの裁きであり、それによって、神こそがすべてのものの創造者であり、主であることが明らかにされたのです。 もどる

出エジプト記11章 最後の災いはすべての初子が殺されるというもので、パロにとって王位継承者が殺されるという、最も恐ろしい災いでした。今までの九つの災いは、この最後の災いへの予告であり、警告でした。神は、審判をくだす前にかならず、警告を与え、私たちに悔い改めをうながしてくださいます。最後の時が来る前に、悔い改めて従う人はさいわいです。 もどる

出エジプト記12章 子羊の血を門柱とかもいに塗ったイスラエルの家には、この最後の災いは臨みませんでした。災いがその家を過ぎ越したので、これは「過越」と呼ばれました。キリストは「過越の子羊」で、キリストの血は、私たちを最後の審判から救うものです。過越の子羊は、後に来るキリストの救いの雛型でした。 もどる

出エジプト記13章 イスラエルは大急ぎでエジプトから脱出してきたため、練り粉にパン種をいれないままかつぎ出しました(12: 34)。それで、約束の地に着いてからも、この時のことを覚えているため「種なしパン」を食べて祭をしました。「種なしパン」はおいしいものではなかったでしょうが、エジプトでの苦難と、そこからの救いを覚えているためにそうしたのです。日ごとの食事の中にも神の救いのわざを覚えるようにとの神のみこころがここにあります。「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光をあらわすためにしなさい。」(コリント第一10:31)とのみことばを覚えましょう。 もどる

出エジプト記14章 パロはイスラエルを去らせてしまったことを悔やみ、自分自身で戦車を率いてイスラエルを追いました。パロはイスラエルを去らせたことを「悔やむ」のでなく、神に逆らったことを「悔いる」べきでした。神に向かって悔い改めるなら失うものはなかったのに、パロは心を固くなにしために、エジプトの家畜、農作物、財宝、そして初子ばかりか、今度は戦車と騎兵をも失ってしまったのです。 もどる

出エジプト記15章 イスラエルは水の中を通って救われましたが、エジプトの騎兵はその水に呑まれて滅んでしまいました。救いと滅びが同時に起こっています。バプテスマ(洗礼)の水も、罪の中にあった古い人の滅びと、キリストにある救いとを表わすものです。出エジプトは、キリストの救いを表わしていますが、キリストの救いは、常に罪に死に、義と聖とに生きることにあるのです。 もどる

出エジプト記16章 白人がオーストラリヤにいる奇妙な動物に驚いて、現地人に「あれは何だ」と聞きましたが、その現地人は白人の言葉がわからなかったので、「あなたの言っていることは分からない」と現地の言葉で答えたところ、それがその動物の名前、「カンガルー」になったそうです。荒野に降った食べ物も、ユダヤ人が驚いて「マー・ナー」(「これは何だ」)と言ったことが、その食べ物の名となりました。このマナは朝ごとに集めないと腐ってしまい、次の日まで持ち越すことができませんでした。霊的な糧、みことばの糧も同じです。日ごとに聖書を読み続けることによって、私たちは養われていくのです。 もどる

出エジプト記17章 アマレクとの戦いに若いヨシュアが出て行って戦い、老モーセは丘の上に立って祈りました。モーセとヨシュア、年配者と若い人々との良いチームワークが見られます。年老いて何もできないと考えてはいけません。祈りの奉仕があるのです。若い人々も自分の力に頼って、年配者の祈りを軽んじてはいけません。祈り、祈られる良い関係を大切にしましょう。 もどる

出エジプト記18章 舅イテロはモーセに「組織」や「管理」を教えました。組織至上主義、管理主義はいただけませんが、良い組織をつくり、正しい管理をすることによって、より良く神に仕え、人々に奉仕することができるなら、組織や管理も良いものになります。大切なのは、何のためにそれをするかということです。大切なのは「目的」であり、その「目的」は神から与えられるのです。 もどる

出エジプト記19章 イスラエルがエジプトから救い出されたのは「祭司の王国」(6節)になるためでした。本当の自由はたんに何かからの自由だけではありません。イスラエルは「奴隷から」自由になるだけでなく、「祭司」になるために自由になりました。祭司は神と人との仲立ちをするもので、イスラエルは諸国を代表して神にとりなしをし、また、神の代理となって諸国に神のことばを伝えるため選ばれたのです。神の目的に向かって生きる時、人は、はじめて自由になることができます。 もどる

出エジプト記20章 十戒はおもに「…してはならない」という禁止の表現が使われていますが、だからといって禁止されていることをしなければそれで良いというものではありません。人を殺さなければそれでよいのではなく、積極的に人を生かすこと、偽証をしないだけでなく、積極的に真実を語ること、むさぼりを避けるだけでなく、他の人に与えることなどを、神は、私たちに求めておられます。 もどる

出エジプト記21章 21〜23章は十戒の細則になっています。5〜6節に自分の意志で主人に仕え続ける奴隷のことが書かれていますが、これはクリスチャンの姿を表わしています。クリスチャンは罪の奴隷から解放され、自由な者となりましたが、自ら進んでキリストのしもべとして、キリストにその身をささげるのです。 もどる

出エジプト記22章 神は「在留異国人、やもめ、みなしご」など、弱い立場にある人々を常に心にかけておられます。こうした人々を悩ませるなら、神の怒りはイスラエルに対して燃え上がります(24節)。私たちの社会は、神を怒らせている社会でしょうか。それとも神を喜ばせている社会でしょうか。 もどる

出エジプト記23章 「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷になっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」(5節)とは、たいへん興味深い言葉です。律法は、私たちの気持がどうあれ、正しいことは、正しいこととしてするよう命じています。その時の自分の気分や感情、損得や人の評価によってでなく、正しいことを正しいこととして行う意志を、神は、私たちに求めておられます。 もどる

出エジプト記24章 神がシナイ山に臨まれた時、全山は煙り、激しく震えました。それは、神が威厳と聖さに満ちたお方であることを示しています。ところが、そのような聖い神の前でイスラエルの長老たちは「神を見、しかも飲み食いをした」(11節)というのです。神は、罪ある者たちを遠ざけ、斥けるだけではなく、人の罪を聖め、人を神の聖さにあずからせようとしておられます。今は、キリストによって神に近づく道が開かれています。私たちも聖い神を仰ぎみ、神を喜ぶことができるのです。 もどる

出エジプト記25章 ここから移動式の神殿、「幕屋」についての指示が与えられています。幕屋の中心は契約の箱で、その中で一番大切なのは「贖いのふた」でした。ここに犠牲の血が注がれ、罪のゆるし、神と人との和解が成り立つのです。ローマ3:25にはキリストが「なだめの供え物」であると書かれていますが、宗教改革者カルヴァンはそれを「贖いのふた」と訳しています。私たちは、私たちの「贖い」であるキリストによって、罪のゆるしを得、神との和解を得るのです。 もどる

出エジプト記26章 幕屋は垂れ幕によって聖所と至聖所に区切られました。この垂れ幕は神の聖さを守るものですが、同時に罪ある者たちが神の臨在から遠ざけられていることも示しています。キリストの死の瞬間、神殿の垂れ幕が二つに裂けましたが(マタイ27:51)、それはキリストによって、私たちが神に近づくことのできる道が開かれたことを示しています。キリストは十字架の上で、ご自分のからだを裂いて神への道を開いてくださったのです。 もどる

出エジプト記27章 聖所の入り口には青銅の祭壇が置かれました。人々はこの祭壇にささげものをして、神を礼拝しました。多くの人は、礼拝を、神から恵みを受け取るところと考えていますが、礼拝とは、まず、神にささげるものであることを、この祭壇は物語っています。神に賛美を、感謝を、また悔い改めをささげて、神に近づく私たちでありたく思います。 もどる

出エジプト記28章 この章には祭司の装束のことが詳しく書かれています。この装束は、神がキリストによって私たちに与えてくださる救いや聖さを表わします。「主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださる」(イザヤ61:10)とあるように、キリストを信じる者は、霊的な祭司の衣を着せていただき、神に仕えるようになるのです。 もどる

出エジプト記29章 祭司は任職の時、水で洗われ、血で聖められ、油注ぎを受けました。「メシア」あるいは「キリスト」というのは「油注がれた者」という意味で、イエスがキリストと呼ばれるのは、、聖霊の注ぎを受け、私たちのために、大祭司となり、神との人との仲立ちになってくださったからです。 もどる

出エジプト記30章 幕屋の設計の指示は、契約の箱からはじまって、香壇や洗盤で終わります。中心的なものから周辺のものへと移っています。これは、神の真理は、そのように中心的なものから順に学ぶべきものであることを示唆しています。まず、キリストの贖いのみわざからはじめ、それによって聖書の他の教えを解き、それらを生活に当てはめていくのです。 もどる

出エジプト記31章 幕屋の工作に携わるのはベツアルエルとオホリアブで、彼らはそのために神の霊に満たされました(3節)。聖霊の満たしは、指導だけでなく、奉仕する人にも求められています。エルサレム教会で選ばれた七人の奉仕者たちは食卓のことに携わるのにも「聖霊と知恵とに満ちた」人でなければなりませんでした(使徒6:3)。どの奉仕にも御霊の満たしが必要です。 もどる

出エジプト記32章 モーセが聞いた声は「勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でも」ありませんでした(18節)。神の民は神の救いを喜ぶか、神に従えなかったときには真剣に悔い改めて嘆くかのどちらかでなければならないのです。「冷たくもなく、熱くもない」(黙示録13:15)というのは、このような状態をさすのでしょう。神に熱心であるか、冷静に自分を顧みるかでありたく思います。 もどる

出エジプト記33章 モーセは自分の名前が消されてもよいからイスラエルを赦して欲しいと、神にとりなしの祈りをささげました (32:32)。パウロも、ユダヤ人のために同じようにとりなしをしています(ローマ9:3)。偉大な指導者とはたんに人々の上に立つだけでなく、モーセやパウロのように人々のためにとりなし祈る人です。神は、今日も、このようなとりなしの祈りをささげることのできる指導者を求めておられます。 もどる

出エジプト記34章 モーセは神と顔と顔とをあわせて過ごしたため、彼の顔は神の栄光を反映して輝いていました。神との交わりに時を費し、神と共に歩んでいる人々の顔には、神の恵みが反映されます。そこには、言葉で表わされない愛や平安がにじみでてきます。私たちもそのような表情を持つ者でありたいと思います。 もどる

出エジプト記35章 幕屋は「感動した者と、心から進んでする者」(21節)によって作られました。幕屋は教会の雛型で、今日の教会も救いの喜びにあふれた人によって形づくられていくのです。 もどる

出エジプト記36章 人々は自発的に幕屋の材料を差し出し、それは十分すぎるほど集められ、もう何も持ってこないようにとふれを出さなければならないほどでした(3-7節)。私たちの神への奉仕も、そのようなものでありたいと思います。また、神は、神のわざのためには、あり余るほどのものを与えてくださると信じましょう。 もどる

出エジプト記37章 幕屋の中心的なものはベツアルエルによって作られました。幕屋が様々な材料から作られても、神を礼拝するためというひとつの目的のために作られたように、教会も、さまざまな人によって形づくられますが、神に仕えるというひとつの目的のために建てあげられます。私たちも「生ける石」(ぺテロ第一2:5)となって神の住いに建てあげられていきましょう。 もどる

出エジプト記38章 オホリアブは彫刻、設計、刺繍に力を発揮してベツアルエルを助けました。工事の記録はイタマルの指揮のもと、レビ人の奉仕によって果たされました。この他に、名もない数多くの人々が幕屋のために働いています。どんな仕事もチームワークなしには果たされることはありません。チームワークは聖書の原則です。ビジネスの世界でも聖書の原則に従って成功を収めているのに、教会でチームワークが出来ていないとしたら、それは恥ずかしいことです。 もどる

出エジプト記39章 ここには「主がモーセに命じられたとおりに」ということばがくりかえし使われています。神のわざは、進んでする奉仕の心(35章)、目当てに向かっていく一致した思い(36章)、すぐれたリーダシップ(37章)、チームワーク(38章)、そして、この章に示されている神のことばに忠実な信仰によって進められるのです。 もどる

出エジプト記40章 イスラエルがシンの荒野に入ったのは、エジプトを出て一ヶ月後(16:1)、シナイの荒野に入ったのが二ヶ月後 (19:1)、モーセはそれぞれ四十日間、二度シナイ山に登りましたので(24:18、34:28)、幕屋を作り始めたのは、出エジプトから、およそ六ヶ月後になります。幕屋が完成したのは年が改まって、正月元旦でしたから、およそ六ヶ月で幕屋が作られたことになります。荒野で、しかも、このような短期間で幕屋が完成したのは驚くべきことです。時代や状況がどんなであっても神の助けがある時、どんなことも可能になるのです。 もどる