創世記1章 創世記は今から三千年以上も前に書かれた書物です。そのころ、人々は、太陽や月、星が天上から人間を支配する神々であると信じていました。今日でも、日本の主神は天照大神(太陽の女神)であり、星占いをしている人々は、天体が個々人の運命をつかさどっていると考えています。ところが、創世記は、太陽、月、星について「神はそれらを天の大空に置き、地上をてらさせた。」(17節)と言っています。それらをこともなげに作られた神の全能の力が、この表現の中に表わされています。宇宙や自然が神ではない、それを造られた神がおられるという創世記のメッセージは、きわめて現代的なメッセージです。 もどる

創世記2章 神は人を「神のかたち」に造り、神とのまじわりを持つことができるものとしてくださいました。しかし、人はまた、他の人とのまじわりが必要であり、神はアダムにエバを与えてくださいました。この時、人と人とのまじわりは人と神とのまじわりに支えられて幸せなものでした。人がそれぞれに神とのまじわりを深める時、互いのまじわりを深めることができるという原則があります。 もどる

創世記3章 エバを「私の骨からの骨、私の肉からの肉」(1:23)と呼んだアダムは、ここで彼女を「この女」(13節)と言って、彼女に責任をなすりつけ、「あなたが私のそばにおかれた…」と言うことによって神をさえ批難しようとしています。神は、アダムが責任を転嫁しようとした「女」から「女の子孫」(15節)を生まれさせ、彼を「第二のアダム」として、人がその罪を誰か他のせいにしてきたものを引き受けさせました。この「女の子孫」とは救い主キリストです。人間が最初に罪を犯した時から、神はすでにその救いを計画していてくださっていたのです。 もどる

創世記4章 人類はここではじめて死を体験しています。アダムの次男アベルの死は病死でも事故死でもなく、殺人によるもの、しかも、長男カインによる「兄弟殺し」という恐ろしい出来事でした。この時、アダムは「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)ということを改めて悟ったことでしょう。 もどる

創世記5章 ここにある「アダムの系図」は、ほとんどすべて「こうして彼は死んだ。」という言葉で終っています。これは「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった」(ローマ5:12)とあるのを思い起こさせます。しかし、その中でエノクだけは死を見ることなく、天にあげられたようです。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。」(ローマ6:23)とあるように、キリスト以前にも、キリストにある永遠の命を指し示すものがあったのです。 もどる

創世記6章 「神の子ら」(2節)とはセツの子孫で神を信じる人々、「人の娘」とはカインの子孫で不信仰な人々を指します。信仰を持つ人々が、不信仰な人々と混ざりあってしまう時、「地は、暴虐で満ちる」(11節)のです。世の中が悪くなっていくのは、神を信じない人が増えたためでしょうが、それと同時に、神を信じる者が世の光、地の塩としての役割、キリストをあかしするという責任を放棄しているからかもしれません。神も、世の悪を裁く前に、クリスチャンの怠慢を責められます。 もどる

創世記7章 箱舟は、幅がおよそ13メートル、長さが22メートル、そして高さが12メートルぐらいだったと思われます。この比率は現代のタンカーなどと同じで、大波に対しても安定したものになります。ノアと動物たちは、未曾有の大洪水にもかかわらず、神の設計された箱舟の中で守られました。箱舟は、キリストの救いを象徴するもので、キリストの救いもまた神の万全の設計によって、神ご自身の手で造られたものです。ここに来るものはかならず救われ、守られるのです。 もどる

創世記8章 大洪水はいつまでも続きませんでした。「神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。」(1節)とあります。この様子は、創世記冒頭の「やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」(1:2)とのことばを思い起こさせます。ノアの洪水は、神の「再創造」のわざを示唆しています。罪の闇の中にいた私たちも、キリストを信じた時、聖霊によって生まれかわり、神の再創造のわざにあずかることができるのです(エペソ2:1〜10)。 もどる

創世記9章 神は、肉食を許されますが、人の血を流すことを決して許されませんでした。なぜなら、人は「神のかたち」に造られたからです。人間は、他の動物とは違っています。他の動物は「種類に従って」造られましたが、人間だけが「神のかたち」に造られたからです(1:24〜27)。聖書を否定するなら、人間も他の動物もなんら変わらないものになります。聖書から人間の起源を学ぶ者だけがほんとうの意味で、人間の尊厳を尊ぶことができるのです。 もどる

創世記10章 ここには世界の諸民族がどのように分かれていったかの記録があり、それは、最も古く、きわめて正確なものですが、同時に、これは目的と意図を持った記録です。ノアの息子たちはセム、ハム、ヤペテの順に生まれているのに、この系図はヤペテ、ハム、セムの順になっています。創世記は、3:15で約束されている「女の子孫」に焦点を合わせ、人類の救い主にいたる系図を描くため、セムの系図が最後に来ているのです。 もどる

創世記11章 世界にはおよそ二千の言語があると言われていますが、はじめて言語が分かれていったのは、バベルに由来しています。「ニムロデは地上で最初の権力者となった」(10:8)人物ですが、彼は「地を満たせ。」(1:28)との神のみこころに意図的に逆らって、独裁的な国家をつくり、当時の世界を支配しようとしました。それで、神は人々の言葉を乱し、人々は散らされていったのです。世界の人々の一致は望ましいことですが、バベルのように神に逆らうための一致は恐ろしいことです。 もどる

創世記12章 創世記11章の前半までは人類が地上に広がっていく様子が描かれていましたが、後半からはセムの子孫、テラの子孫、そしてアブラハムへと焦点が絞られていきます。神がアダムに与えた祝福は「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」(1:28)でしたが、罪によって産みの苦しみ、労働の苦しみが人類に入り、ノアの時代には「地は、暴虐で満ちて」(6:10)いました。神は、アダムへの祝福を回復するため、アブラハムを選び、彼を祝福の基にしたのです。 もどる

創世記13章 アブラハムもロトも家畜が増えて一緒にいることができなくなった時、アブラハムは叔父の権威を使わず、ロトがしたいようにさせました。自己主張をしなかったアブラハムに対して神は、カナンの全土をアブラハムとその子孫に与えると約束されました。得ようとするものはそれを失い、与える者はそれを受けるのです。 もどる

創世記14章 アブラムはカナンの地にあって「寄留者」でしたが、エモリ人たちは、アブラムに一目置いていましたし(13節)、アブラムのしもべたちにはケドルラオメルの軍勢を破るだけの力を持っていて、みごとにロトを救い出しました。クリスチャンは世にあって「寄留者」であるが、それは、世に迎合せず、天国を目指して歩んでいくという意味であって、世の片隅でひっそりと暮らしていくという意味ではありません。自分の力に頼らず、しかし、神のため、他の人のために力を発揮すべき時は、それを大いに用いるべきです。 もどる

創世記15章 「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(6節)は新約聖書に通じる偉大な聖句です(ローマ4:22〜25参照)。新約では「認める」という言葉には「勘定する」という意味があります。これは、神の手もとに私たちのアカウントがあって、私たちが信じる時、そのアカウントに神からの義が振り込まれると考えるとわかりやすいでしょう。神からの義は、信仰だけによって得られるもので、私たちの才能や努力などによって与えられるものではありません。私たちもアブラムのように「信じて」義と認められる者となりましょう。 もどる

創世記16章 サライとの間に子どもが生まれなかったアブラムは女奴隷ハガルとの間に子どもを得ようとしました。これは、当時の社会では許された慣習だったのでしょうが、神の方法ではありませんでした。神は、アブラムとサライとの間に子どもを与えると言われたのです。このことのために、アブラムの家にトラブルが起こります。たとえ許されたことであっても、神の方法でない時、それは私たちに悲しみと苦しみをもたらすようになります。 もどる

創世記17章 「わたしは彼らの神となる。」(8節)というのは、聖書の一貫した主題です(出エジプト6:7、19:5、レビ26: 12、エレミヤ30:22、エゼキエル36:28、ホセア2:23)。アブラハムと血のつながりはなくても、アブラハムと同じ信仰を持つ者は、この約束を自分のものにすることができます。新約聖書は「あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けたものです。」(ペテロ第一2:10)と教えています。 もどる

創世記18章 旅人は他の地域の様子を知らせてくれる貴重な情報源で、古代では、アブラハムがしたように、旅人をもてなすことは、双方に益がありました。ところが、アブラムがもてなした旅人は御使いたちで、そのうちのひとりは主ご自身でした。しかし、アブラハムはいたずらに主を恐れることなく、ロトとその家族のために主に向かってとりなしています。普段から主との親しい交わりの中にあるなら、突然の主のおとずれにも驚き慌てることはないのです。 もどる

創世記19章 ソドムには、アブラハムが期待したように十人の正しい人はいませんでした。ロトの婿たちも、主を信じる者ではなく、舅の必死の説得を「冗談」としか受け取れませんでした。ロトは親族にあかしをしていなかったため、御使いに「身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。」(12節)と言われても、連れ出すべき人々がいなかったのです。私たちはどうでしょうか。 もどる

創世記20章 サラがアビメレクの目に留まり、アビメレクはサラを召し入れますが、主がアビメレクを責め、サラを守ります。アブラハムに非がなかったわけではありませんが、神はアブラハムの方を弁護されます。神は、このことによって、この世の権力者に神の民をあなどってはならないことを教えようとされたのです。 もどる

創世記21章 アブラハムにはイサクとイシュマエルのふたりの息子がいましたが、イサクだけが選ばれ、イシュマエルはアブラハムのもとから離されます。しかし神はイシュマエルを見捨てはせず、イシュマエルはアラビア人の諸部族の先祖となりました(25:12〜18)。イシュマエルはイサクとともにアブラハムを葬ってもいます(25:9)。神はすべての民族を祝福しようとされ、その祝福を他の民族に分け与える器として、神はイシュマエルではなく、イサクを選ばれたのです。 もどる

創世記22章 アブラハムは父テラと死別し、甥ロトと離れ、長子イシュマエルを遠くに追いやりました。そして、今、後継者イサクを神にささげようとしています。神はアブラハムを孤独に追い込み、神にのみ頼ろうとさせます。しかし、神が私たちを孤独に追い込むのは、それによって、私たちを神と向かい会わせるためです。けれども、そこに神がおられるなら、それは孤独ではありません。むしろ、孤独によって神との交わりを深めることができます。神のいない孤独は恐ろしいものです。しかし、神のくださる孤独を、神と共に過ごすなら、それは大きな益を与えてくれます。 もどる

創世記23章 アブラハムはサラの死を嘆きましたが、いつまでも嘆き悲しんでいませんでした。彼は「死者のそばから立ち上がり」墓地を手に入れるための交渉に乗りだしました(2〜3節)。土地の所有者は無償で墓地を提供すると申し出ましたが、アブラハムは所有権を確かなものとするため代価を払いました。サラの墓地はやがて受け継ぐ約束の地の初穂となりました。 もどる

創世記24章 結婚について、この章からいくつかのことを学ぶことができます。アブラハムがしもべに命じたように同じ信仰を持った者たちが結婚すること、しもべが祈りつつリベカを探し当てたように、結婚の導きには祈りが必要なこと、リベカがしもべのためにすすんで水を汲んだように、喜んで人に仕える心と力が結婚に必要なことなどです。 もどる

創世記25章 エサウについて聖書は「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売った俗悪な者」(ヘブル12:16) と言っています。狡猾なヤコブから見れば、エサウのほうがよほど好人物に見えるのですが、神の見るところは違います。目に見えないものの価値を大切にする人を神は喜ばれるのです。 もどる

創世記26章 イサクは温和な人物で、争いを好まず、ゲラルから身を引きます。しかし、神は、イサクの行く先々で彼を祝福し、アビメレクも神の祝福を見てイサクとの契約を求めるに至っています。神の祝福の中に生かされること、これにまさる人々へのあかしはありません。 もどる

創世記27章 父をだましたヤコブがなぜ、祝福を受け継いだのでしょうか。神の祝福を受け継ぐのに手段は問われないのでしょうか。しかし、ここではヤコブだけが悪いのではありません。イサクは「兄が弟に仕える」(25:23)との神の言葉を忘れており、エサウも長子の特権を軽んじ、それをヤコブに売っていたのを思い出すべきでした。人々が神のことばをないがしろにしても、神はそのことばのとうりに事を運んで行かれました。それは、彼らに、神のことばの力を知らせるためでした。 もどる

創世記28章 神の祝福の中には、カナンの土地を受け継ぐことが含まれています。ところが、ヤコブは、その祝福を受け継いだとたんに、約束の地を離れなければなりませんでした。神はそんなヤコブに、「あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。」(15節) と約束されました。神の民が受け継ぐべき最も大切なものは、この神が共にいてくださるということであって、決して、目に見える土地や財産だけではないのを、ヤコブはこの時強く感じたことでしょう。 もどる

創世記29章 父をだましたヤコブは、こんどはおじラバンにだまされ、姉のレアと妹のラケルのふたりを妻にします。ヤコブの妻となった姉と妹の争いのため、ヤコブの家には争いが絶えませんでした。しかし、ヤコブは、良く忍耐して、ラバンのもとに留まりました。ヤコブにとって苦労の多い時だったでしょうが、こうした労苦の中で彼は徐々に神の民として整えられていきました。神の与える労苦には目的があります。それを見失うことなく、また、忍耐を失うことなく、そこから得るべきものを得ようではありませんか。 もどる

創世記30章 ヤコブはラバンからぶち毛、まだら毛、黒色の群れを報酬として求めました。ラバンの群れと区別するためだったのでしょう。普通は白い羊のほうが多かったわけですので、ヤコブはラバンにわずかなものしか要求しませんでした。しかし、彼は、数少ない群れを増やし、大きな群れにします。多くを得てもその大部分を浪費して失ってしまう人もあれば、僅かなものを有効に使って豊かになる人もあります。それは、物質的なものについても、霊的なものについても言うことができます。あなたはどちらでしょうか。 もどる

創世記31章 ヤコブがラバンのもとに行ったのは、兄エサウから逃れての旅でしたが、ラバンのもとからカナンに旅立つ時も逃亡の旅でした。ラケルがラバンから盗んできた「テラフィム」はその家の守り神とされていた偶像で、これは、親の財産を受け継ぐことのしるしでした。しかし、ヤコブが受け継ぐのは、ラバンの財産ではなく、約束の土地であり、神の祝福でした。ラケルは、先にある大きなものを見ることができず、後にあるものを後生大事に持ち運んできたのでした。私たちも同じ過ちを犯すことのないようにしたいものです。 もどる

創世記32章 私たちは神に従順であるべきで、「神と争う」とは、とんでもないことだと言われます。しかし、時と場合によっては、ヤコブのように神と争ってでも、祝福を求め、それを手にしなければならないことがあります。もし、神への従順が身の回りに起こるできごとをすべてみこころとして受けとめるだけのことであれば、どんなことも願うべきではないということになります。神に願うのは、神への反逆になるからです。しかし、神は私たちに願うことを求めておられます。神は私たちに、不信仰の従順よりは、信仰の反逆を望んでおられるのです。 もどる

創世記33章 ヤコブはエサウを恐れて、エサウへの贈り物を先に進ませ、贈り物でエサウをなだめ、妻たちを先にやり、自分は一番最後に行くつもりでした。しかし、神に出会ってからは、自らが先頭に立ちました。神との出会いがヤコブを変え、ヤコブは恐れを乗り越えて自分の進むべき道に向かうことができたのです。 もどる

創世記34章 ヤコブの息子たちは、妹ディナのことで、シェケムの一族を滅ぼし、その町を略奪しました。彼らがシェケムの町の成人男子たちを難無く剣で撃つことができたのは、シェケムの人々が割礼の傷の痛みを持っていたからでした。ヤコブの息子たちは、神との契約のしるしである割礼を策略として「利用」しています。これは神の民のとるべき方法ではありませんでしたが、ヤコブには息子たちをコントロールする力もなく、ただ困り果てるだけでした。 もどる

創世記35章 シェケムの事件は、ヤコブの心配(34:30)のように、もっと悪い結果をもたらすかのように見えましたが、神は、この事件に介入され、イスラエルを守ってくださいました。イスラエルはこのことによって、偶像からきよめられ、彼らを取り囲む様々な宗教から離れて、まことの神への信仰を育てることができたのです。 もどる

創世記36章 エサウは、長子の特権を失ったとはいえ、やはりイサクの子であって、彼もまたエドム人の先祖となります。この系図には「首長」や「王」という言葉が出てきます(15節以降)。イスラエルがエジプトで奴隷となり、約束の土地に帰ってきてもまだ王もいなかった時に、エドムにはすでに王たちがいたのです。イスラエルはその時代の基準から見れば随分遅れをとっていますが、神は、イスラエルを当時の世界を導く霊的なリーダとして準備していてくださったのです。 もどる

創世記37章 ヨセフの兄弟たちはヨセフを「夢見る者」(19節)と呼んで物笑いにしました。しかし、ヨセフはその「夢」によって困難に耐え、将来をつかみました。信仰を持たない人は、信仰を持つ人を「夢見る者」と呼び、信仰を役に立たないものとさげすむかもしれません。そのような時、信仰を持つ人は、神にある夢が実現し、信仰が現実を変えていくことを、忍耐深く証明していくようにしなければなりません。 もどる

創世記38章 主イエスの系図に「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」(マタイ1:3)とありますが、その事情がこの章に書かれています。タマルはユダの息子の妻であり、ユダとタマルとは舅と嫁の関係であったのに、ふたりの間に子どもが生まれ、イエスはその子孫であるというのです。イエスは、立派な系図を誇りにしてこの世に生まれてきたというよりは、その先祖の罪を背負い、その罪を贖うためにお生まれになったことを、この章と、マタイの福音書の系図は教えています。 もどる

創世記39章 ヨセフはエジプトに奴隷として売られましたが、良い主人に恵まれ、その家のものすべてを任されるまでになりました。しかし、主人の妻の欲望のために無実の罪で投獄されてしまいます。神はヨセフがせっかくつかんだ幸せを取り去るのですが、それはヨセフにもっと大きなものを与えるためでした。神とそのご計画を信じる時、私たちは失うことを恐れなくなるのです。 もどる

創世記40章 ヨセフに牢から出られるチャンスが巡ってきました。ヨセフが夢をときあかしてやった献酌官長が王にヨセフのことをとりなすはずでした。ところが献酌官長は自分が助かったよろこびのあまりヨセフのことを忘れてしまうのです。ヨセフはどこまでも不運に見えます。しかし、このことがかえってヨセフの益になるのです。神の導きを信じる者は人生を一時的な損得、幸運、不運だけで見ることなく、忍耐深く神のみこころが成ることを求め続けるのです。 もどる

創世記41章 古代のエジプトでは絶えず王朝が入れ替わり国を支配していましたが、ヨセフの時代には外来勢力であるクソスがエジプトを支配していたと言われています。それで、この時のパロはヘブル人であるヨセフであっても高い地位に取り立てたのだろうと思われます。神は個人の人生だけでなく、国の歴史も導かれる方で、それらすべてを用いてヨセフを囚人から宰相へと引きあげてくださいました。ヨセフの物語はローマ8:28の良い例証です。 もどる

創世記42章 ヨセフがエジプトに売られてから長い年月がたち、ヨセフもすっかりエジプト人らしくなっていたので、兄弟たちはエジプトの指導者がヨセフだとは気がつかず、ヨセフもすぐには自分をあかしませんでした。ヨセフは父ヤコブと弟ベニヤミンの安否を知るために、シメオンを人質にとります。兄弟たちはこのことを通して、彼らがヨセフにした悪いことを悔いる思いを持つようになりました。これらの出来事を通して、神は、ヨセフと兄弟たちの双方に互いを受け入れる心の準備をさせておられたのです。 もどる

創世記43章 ヨセフはベニヤミンに会って、なつかしさのあまり泣いてしまいました。兄弟たちに自分を明かしたいと思ったでしょうが、なお、彼らの心を知るために、兄弟たちを試みます。ヨセフは私たちのために試みを受けてくださった主イエスの姿を表わしていますが、同時に私たちを試みる神の姿をも表わしています。神が私たちを試みられる時は、神が私たちの心を知ろうとしておられる時です。私たちにとって神に真実を示す時です。 もどる

創世記44章 ユダはかってヨセフを奴隷に売ろうと言った男でしたが、今は、ベニヤミンをかばって、自分が身代りになると申し出ています。ヨセフは、兄弟たちが、年老いた父を思いやり、ヨセフと同じ母から生まれたベニヤミンをかばおうとしているのを知りました。神は兄弟たちに自分たちの救い主となるヨセフに会う心の準備をさせておられたのです。私たちも、救い主イエスにやわらかな心をもって会うことができるよう、心を整えましょう。 もどる

創世記45章 ヨセフは兄弟たちに「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」(5節)と言っていますが、このことばは単にヨセフの優しさから出たばかりでなく、彼の信仰から出たものです。ヨセフは「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。」(8節)と、神の主権と計画を信じています。神の計画を信じる人は自らは確かな歩みを、他の人には優しい態度を持つことができるのです。 もどる

創世記46章 ヤコブは若いころ、パダン・アラムに行くとき「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。」(28:15)との神のことばを聞きましたが、このたびも「エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこであなたを大いなる国民にするから。わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、またわたし自身が必ずあなたを再び導き上る。」(4節)とのことばを聞いています。神は私たちが若い時も、老いた時も、変わらず、共にいて導いてくださるお方なのです。 もどる

創世記47章 ヤコブはパロに祝福を与えています(7、10節別訳)。ヤコブは、いわば難民に過ぎないのですが、霊的には、神の人として、この世の王の上に立っています。イスラエルはエジプトで特別な待遇を受けますが、それは、パロが与えたというよりは、神がパロを用いてイスラエルに与えてくださったものです。パロもまた神の祝福なしには、何も与えられることはなかったのです。神の民は、人々の保護を受けているように見えながら実は、人々のために祈ることによって彼らを富ませているのです(コリント6:10)。 もどる

創世記48章 ヤコブはヨセフのふたりの子、エフライムとマナセを彼の子としました。ヨセフが他の兄弟の二倍のものを受けるためでした。ヤコブはこの時、弟のエフライムを兄マナセよりも先に祝福します。これはエフライムがマナセよりも大きくなることの預言でした。ヤコブは父イサクの過ちを犯さないよう、神のことばにしたがってふたりの子どもにそれぞれの祝福を与えています。 もどる

創世記49章 ヤコブはイスラエルの十二人の子らに預言を与えました、その預言の中で「主よ。私はあなたの救いを待ち望む。」(18 節)と言っています。ヤコブは、自分の子孫の繁栄だけでなく、全人類がその苦しみから解放されることをも願っていました。悩みと苦しみの多い生涯を送ったヤコブから出た霊的な洞察でしょう。ヤコブをはじめ旧約の聖徒たちが待ち望んだ救いを私たちはすでに見ています。なんと幸いなことでしょう。 もどる

創世記50章 ヤコブの遺体はカナンの墓地に葬られます。これは、エジプトが寄留の地にすぎず、イスラエルが受け継ぐのはカナンの地であることを示しています。エジプトからのぼっていく葬儀の一団は、やがてイスラエルがエジプトから導き出されてカナンに入る「出エジプト」をあらかじめ示すかのようでした。 もどる